『やさしさ迷惑27/100』

記事
学び
第27話
会議室を出たら、話し方が分からない

前話:田辺案件は一区切りついた。黒川の正しさに黙り、互いに疑い、消した違和感を戻し、役割と責任を言葉にした優作たちは、少しだけチームとして前に進んだ。美月は言った。「ちゃんとチームでいるのって、たぶん毎回やり直しです」と。

「今日くらい、一杯だけ行きません?」

真壁がそう言ったのは、田辺案件の一区切りがついた日の帰り際だった。

オフィスには、まだ少しだけ仕事の熱が残っていた。

資料は通った。
次の段階にも進んだ。
全員、それなりに疲れている。

でも、変な達成感もあった。

佐伯が一番先に反応した。

「え、今日ですか」

「今日でしょ。こういうのは」

真壁は軽く笑った。

「反省会じゃなくて、ただの飯」

桐谷が椅子にもたれたまま言う。

「ただの飯って言う人ほど、だいたい途中で反省会になりますよ」

「しないしない。今日はしない」

真壁はすぐに返す。

美月は資料をしまいながら、少しだけ考えていた。

優作は、それを見て言った。

「無理なら大丈夫です」

言ったあと、少しだけ後悔した。

なんだろう。

断りやすくしたつもりなのに、どこか逃げ道を先に作ったような言い方になった。

美月は、優作を見る。

「行かないとは言っていません」

「あ、はい」

「ただ、仕事の話しかしないなら帰ります」

桐谷が笑う。

「相沢さん、それ先に釘刺すんですね」

「必要なので」

その言い方に、少しだけ空気が緩んだ。

黒川は、すでに鞄を持っていた。

「私は失礼します」

当然のように言った。

真壁が声をかける。

「黒川さんも、駅同じ方向ですよね。十五分だけどうですか」

「結構です」

即答だった。

桐谷がぼそっと言った。

「でしょうね」

黒川が振り向く。

「どういう意味ですか」

「いや、黒川さん、目的のない会話とか嫌いそうなので」

一瞬、沈黙。

黒川は少しだけ考えてから言った。

「嫌いではありません。得意ではないだけです」

真壁がすかさず笑う。

「じゃあ練習で。十五分だけ」

黒川は時計を見る。

「十五分なら」

桐谷が小さく言う。

「来るんだ」

黒川は真顔で返した。

「練習なので」

その返しに、佐伯が少しだけ笑った。

店は、会社近くの小さな居酒屋だった。

個室ではない。

六人で座るには少し狭いテーブル席。
上着をかける場所も足りない。
メニューは少しベタついている。
隣の席の笑い声が、普通に聞こえる。

会議室とは、何もかも違った。

座る位置すら、きれいには決められない。

優作は、なんとなく全員が座りやすいように動こうとした。

「じゃあ、奥から……黒川さん?いや、相沢さんが奥の方が」

美月が言う。

「中村さん」

「はい」

「幹事をしなくていいです」

「……はい」

桐谷が笑う。

「出ました。職場の外でも仕事モード」

優作は苦笑した。

何かを整えていないと落ち着かない。

会議では役割があった。
でも居酒屋に入った瞬間、その役割が薄くなる。

誰が進行するわけでもない。
誰が結論を出すわけでもない。
何を決めるわけでもない。

急に、何を話せばいいのか分からなくなる。

会議では役割が人を守ってくれる。
でも仕事を離れた瞬間、人は急に“自分自身”で話さなければならなくなる。

優作は、メニューを開きながら、その感覚に少し戸惑っていた。

真壁がざっくり注文を始めた。

「とりあえず枝豆、唐揚げ、だし巻き、ポテトでいい?」

桐谷がすぐに言う。

「出た。居酒屋でも雑な取りまとめ」

「居酒屋くらい雑でいいだろ」

真壁は笑う。

でも、そのあと黒川を見る。

「黒川さん、飲まないならウーロン茶でいいですか」

黒川は少しだけ驚いたように見えた。

「はい。お願いします」

真壁はそのまま店員を呼ぶ。

「あとウーロン茶一つ。で、黒川さん、食べ物何かあります?」

黒川はメニューを見る。

少し長い。

桐谷が茶化す。

「黒川さん、メニュー分析してます?」

「しています」

「してるんだ」

黒川はメニューを閉じた。

「クリームコロッケを」

一瞬、全員の手が止まった。

桐谷が目を細める。

「黒川さん、クリームコロッケいくんですか」

「はい」

「意外ですね。もっと冷奴とか焼き鳥の塩とか言うと思ってました」

黒川は、まじめな顔で答えた。

「クリームコロッケは、店の技術が出ます」

「技術?」

「衣が厚すぎると重い。薄すぎると割れる。中の温度が低いと台無しです。提供直後の状態管理が難しい料理です」

桐谷が黙る。

そして、ぼそっと言った。

「居酒屋でもレビューしてる……」

黒川は少しだけ間を置く。

「あと、単純に好きです」

真壁が吹き出した。

佐伯も少し笑った。
美月は、口元だけほんの少し緩めた。

優作は思った。

黒川さんにも、ただ好きなものがあるんだな。

当たり前のことなのに、少しだけ意外だった。

飲み物が来て、真壁がグラスを持った。

「じゃあ、田辺案件お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

軽い乾杯。

グラスが小さく鳴る。

最初の数分は、少しぎこちなかった。

仕事の話をしないと決めると、会話の置き場所が分からない。

佐伯はメニューを見ながら、唐揚げの最後の一個に何度か視線を落としていた。

箸を伸ばしかけて、やめる。

それから、誰かが取りやすいように、皿の真ん中へそっと寄せた。

真壁がそれに気づく。

「佐伯くん、最後の一個、自分で取りたい時も一回譲る癖あるよな」

佐伯が少し慌てる。

「いや、なんか……最後の一個って取りづらくないですか」

美月が言う。

「仕事でも、それありますよね」

佐伯が固まる。

「え、仕事でもですか」

「あります。言いたいことがあっても、一度まわりに譲る時があります」

桐谷が笑う。

「唐揚げから仕事につなげる相沢さん、さすがです」

美月は表情を変えない。

「つながったので」

佐伯は少しだけ笑った。

「じゃあ、取ります」

そう言って、最後の唐揚げを自分の皿に置いた。

小さなことだった。

でも、少しだけ変わった感じがした。

黒川は、ウーロン茶を飲みながら全員を見ていた。

優作は聞く。

「黒川さん、こういう場はあまり来ないんですか」

「少ないです」

「苦手ですか」

黒川は少し考える。

「仕事の会話は、目的があります。決める、確認する、進める。
でも、こういう会話は目的が曖昧です」

桐谷が言う。

「目的なんてないですよ。雑談なんで」

黒川はすぐに返す。

「目的がないのに、人はなぜ雑談するんですか」

会話が、そこで少し止まった。

黒川の問いは、いつも通りだった。

でも今回は、責めている感じではなかった。

本当に分からないから聞いている。

そんな感じだった。

美月が静かに言う。

「たぶん、確認しているんだと思います」

黒川が美月を見る。

「何をですか」

「この人の前で、どこまで自分を出していいか」

その言葉に、優作は少しだけ息を止めた。

雑談。

ただの無駄話。
どうでもいい会話。
結論のないやり取り。

そう思っていた。

でも、違うのかもしれない。

雑談が苦手な人は、話題がないんじゃない。
目的のない会話で、自分をどこまで出していいか分からないだけだ。

黒川は、黙っていた。

それから言った。

「なるほど。情報交換ではなく、許容範囲の確認ですか」

桐谷が笑う。

「言い方が硬い」

黒川は真顔で返す。

「柔らかく言う必要がありますか」

「今はあります」

真壁が横から言う。

「黒川さん、たぶん“この人の前でどれくらい変なこと言っていいか”ってことです」

黒川は少し考える。

「それなら分かります」

佐伯が小さく言う。

「分かるんですね」

「はい。私はまだ、ほとんど言っていません」

桐谷が笑った。

「クリームコロッケでだいぶ出てますよ」

黒川は、届いたクリームコロッケを見た。

「これは食事です」

「いや、だいぶ人間味です」

そのやり取りに、また少し笑いが起きた。

しばらくして、優作は無意識に田辺案件の話をし始めていた。

「でも今日の体制整理って、結局——」

美月がすぐに言う。

「中村さん」

「はい」

「今日くらい、仕事の話やめません?」

優作は固まった。

「あ、すみません」

「謝るところではありません」

「じゃあ、何の話をすれば」

美月は、少しだけ目を細めた。

「そういうところです」

桐谷が小さく吹き出す。

「中村、仕事を取り上げられると弱いな」

真壁も笑う。

「役割ないと急に迷子だな」

優作は何も言い返せなかった。

その通りだった。

会社では、話す理由がある。
会議では、発言する目的がある。
でもここでは、話す理由がない。

話す理由がないのに話す。

それが、こんなに難しいとは思わなかった。

仕事の話が得意な人ほど、人との距離を“用件”で測っていることがある。
用件が消えた瞬間、急に近づき方が分からなくなる。

美月は、そんな優作を見て、ほんの少しだけ笑った。

「でも」

「はい」

「今日の中村さんは、少し話しやすいです」

優作は、箸を止めた。

「……え」

「仕事の話をしようとして止められて、困っている感じが」

「そこですか」

「はい」

美月は平然と言う。

「ちゃんと困っている人は、少し話しやすいです」

意味が分からない。

でも、少しだけ胸が熱くなった。

桐谷が言う。

「中村、今の顔、かなり分かりやすいぞ」

「うるさい」

優作は水を飲んだ。

味がよく分からなかった。

十五分と言っていた黒川は、結局三十二分いた。

立ち上がる時、時計を見て言った。

「予定を十七分超過しました」

桐谷が笑う。

「律儀に測ってたんですか」

「はい」

「居酒屋でもKPI管理」

黒川は鞄を持つ。

「目的のない会話にも、意味はあるようですね」

優作が聞く。

「ありましたか」

黒川は少しだけ考える。

「まだ分かりません。ですが、観察対象としては興味深いです」

桐谷が言う。

「やっぱり実験してた」

黒川は表情を変えない。

「観察です」

真壁が笑いながら手を振る。

「また練習しましょう」

黒川は少しだけ間を置いた。

「必要があれば」

そう言って、店を出ていった。

黒川らしい帰り方だった。

でも、最初に入ってきた時より、少しだけ遠くない気がした。

黒川が帰ったあと、場の空気は少しだけ柔らかくなった。

真壁は昔の失敗談を話し始めた。

「俺、若い頃に先方の名前を一文字間違えた資料、役員会に出しかけたことあるんだよ」

桐谷が即座に言う。

「それ、今なら黒川さんに切られますね」

「即死だな」

佐伯が笑う。

美月は、だし巻きを少しずつ食べている。

優作はそれを見て言った。

「相沢さん、だし巻き好きなんですか」

美月は少しだけ止まる。

「普通です」

「普通」

「はい」

桐谷が小声で言う。

「普通って言う時ほど、好きなやつだ」

美月が桐谷を見る。

「聞こえています」

「すみません」

優作は少し笑った。

会社では見えないものが、少しずつ出てくる。

食べ物の好み。
変なこだわり。
遠慮の癖。
笑い方。
話を振られた時の間。

どれも仕事には直接関係ない。

でも、たぶん人と関わるには、こういうものが必要なのだと思った。

帰り道。

駅まで、優作と佐伯が少しだけ並んだ。

真壁と桐谷は前を歩いている。
美月は少し後ろでスマホを見ている。

佐伯がぽつりと言った。

「仕事以外で話す方が、緊張しました」

優作は佐伯を見る。

「そう?」

「はい」

佐伯は少し笑う。

「仕事だと、役割があるじゃないですか。
自分が何を話せばいいか、まだ分かります」

「うん」

「でも役割がなくなると、自分が何者なのか分からなくなる感じがします」

その言葉は、静かに刺さった。

優作にも分かった。

会社では、役割が自分を支えてくれる。

担当。
先輩。
後輩。
窓口。
主導者。

でも役割を外した時、
何を話すのか。
どこまで出すのか。
どうそこにいていいのか。

急に分からなくなる。

役割を外した時に残るものを、私たちは意外と知らない。
だから仕事の外の会話ほど、少し怖い。

優作は、静かに頷いた。

「俺も、今日分からなかった」

佐伯が少し驚く。

「中村さんもですか」

「かなり」

佐伯は小さく笑った。

「それ、少し安心します」

優作も笑った。

駅前で解散になった。

真壁が手を上げる。

「じゃあ、お疲れ」

桐谷が言う。

「次は黒川さんに二次会の概念を教えましょう」

美月が即座に言う。

「やめた方がいいです」

「相沢さん、即答ですね」

「必要なので」

少しだけ笑いが起きる。

それぞれが別の方向へ歩き出す。

優作も駅へ向かおうとした時、美月が隣に来た。

「中村さん」

「はい」

「今日は、仕事以外の話をしようとしていましたね」

「かなり苦戦しました」

「見ていました」

「見ないでください」

美月は少しだけ笑った。

「でも、よかったと思います」

優作は、少しだけ顔を上げる。

「何がですか」

「仕事の話に逃げようとして、逃げきれなかったところです」

「褒めてます?」

「少しだけ」

その“少しだけ”が、優作には妙に残った。

夜風が少し冷たかった。

会議室ではない。
資料もない。
議題もない。

それでも、少しだけ会話が続いている。

優作は、そのことが不思議だった。

そして少しだけ、うれしかった。

その夜。

優作のスマホに、美月からメッセージが来た。

今日の黒川さん、クリームコロッケでしたね。

優作は笑った。

意外でした。

すぐに既読。

人は、役割だけでは分からないですね。

優作は、その一文をしばらく見た。

人は、役割だけでは分からない。

黒川は正しい人。
美月は鋭い人。
真壁は調整する人。
桐谷は軽口の人。
佐伯は不安な人。
自分は優しい人。

そうやって役割や印象で見ている間は、分かった気になれる。

でも、少し外に出ると、違うものが見える。

クリームコロッケが好きな黒川。
だし巻きを普通と言いながら少しずつ食べる美月。
唐揚げの最後の一個を譲る佐伯。
雑に見えてウーロン茶を確認する真壁。
軽口で怖さを隠す桐谷。

そして、仕事の話がなくなると急に迷子になる自分。

優作は返信した。

仕事じゃない会話、難しいです。

美月からの返事は短かった。

でも、必要です。

少し間があって、もう一通。

たぶん、仕事よりごまかせないので。

優作は、その文字を見つめた。

仕事より、ごまかせない。

それは、少し怖い言葉だった。

でも、今の優作には分かる気がした。

仕事なら、役割で話せる。
でも雑談では、人が出る。

だから怖い。
でも、だから近づく。

優作はスマホを伏せた。

会議室を出たあとにも、コミュニケーションは続く。

むしろ、そこからの方が難しいのかもしれない。

第28話へ続く。
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