第6話
「確認します」と言える人
14時の五分前。
会議室の空気は、静かなのに落ち着かなかった。
資料は一応そろった。
新規案、比較表、社内説明用の要約、参考事例一枚。
そろっただけだ。
完璧とは、とても言えない。
中村優作はノートPCの画面を見ながら、指先を一度だけ握る。
隣では美月が最後のページを確認していた。
真壁はいつもより口数が少ない。
後ろから、桐谷が低い声で言う。
「優作」
「……ん?」
「完璧にやるより、今日は逃げない方が大事だぞ」
優作は少しだけ息を止めたあと、苦笑した。
「そういう時だけ、いいこと言うな」
「そういう時しか言わないからな」
冗談のはずなのに、少しだけ救われた。
モニターに、田辺の顔が映る。
その横に、役員らしい男性が一人。
画面越しでも、空気が少し固い。
「本日はお時間ありがとうございます」
優作が頭を下げる。
田辺は短く会釈したあと、淡々と口を開いた。
『こちらこそ、再提案のご準備ありがとうございます。
今日は内容を見る前に、一点だけ先に確認したいと思っています』
会議室の空気が張る。
『昨日から今日にかけて認識のズレがありました。
その点について、御社としてはどの段階でズレたと見ていらっしゃるか、先に伺えますか』
責める声ではなかった。
でも、逃がす声でもなかった。
真壁が口を開きかける。
その前に、優作が言った。
「……すみません。そこは僕から話します」
自分の声が、少し乾いて聞こえた。
田辺がこちらを見る。
美月は何も言わない。
でも、横で資料を閉じる音がした。
優作は一度だけ息を吸った。
「今回ズレたのは、資料の作り方より前でした。
最初に、“新規リリース起点の提案”なのか、“既存施策の延長整理”なのか、そこを確認しないまま話を進めてしまいました」
画面の向こうで、田辺も役員も黙って聞いている。
「その前提が曖昧なまま資料化したので、ターゲットも、スケジュールも、見せ方も、全部少しずつズレました。
一つ一つは小さかったんですが、並ぶと“違う提案”になっていました」
自分で言いながら、胸が少し痛くなる。
でも、言わないよりましだった。
「そこは、こちらの確認不足です。すみませんでした」
仕事で本当に苦しいのは、ミスをした時じゃない。
そのミスを、自分の言葉で説明しなきゃいけない時だ。
短い沈黙が落ちる。
画面越しの田辺は、すぐには何も言わなかった。
その数秒が長い。
やがて、役員が口を開く。
『なるほど。整理は分かりました』
それは、許した声ではない。
でも、聞く価値はあると思ってくれた声だった。
田辺が言う。
『ありがとうございます。
その上で、今日の再提案はどう進め方を変えたのか、そこも一緒に見せていただけますか』
証明しろ、ではない。
でも同じくらい重い問いだった。
優作は頷く。
「はい。今日は、提案内容だけじゃなく、確認の前提も見える形にしました」
画面を共有する。
一枚目には、昨日なかったページを置いた。
今回の前提確認
目的:新商品リリースに向けた新規施策の提案
対象:既存顧客中心ではなく、新規層も含めた広がり
時間軸:リリース日基準
本日必要なもの:方向性確認と社内説明用の整理
田辺の目線が少し変わる。
優作は続けた。
「この前提を最初に置いたうえで、2ページ目以降で新規案を示しています。
それと、昨日の案とどう違うかも比較表に入れました」
ページを進める。
左に昨日の案。
右に今日の案。
見れば分かる。
痛いくらいに違う。
役員が資料を見ながら言う。
『比較表を先に入れたのは、なぜですか』
ここも答えどころだと思った。
優作は少しだけ喉を鳴らす。
「昨日、こちらの中では“たぶん同じ認識だろう”で進めてしまったので、今日はズレた部分を曖昧にしない方がいいと判断しました。
痛いですが、そこを飛ばすとまた同じことになるので」
そのとき、美月が自然に口を添える。
「今回の比較表は、内容の違いだけではなく、前提の違いがどこで起きたかも見えるように作っています。
その方が、提案の評価をしやすいと考えました」
信頼が戻り始めるのは、間違えなかった時じゃない。
間違えたあとに、どこでズレたかを隠さず話せた時だ。
優作は画面を見たまま、小さく息を吐く。
説明は予定より少し長くなった。
でも田辺は途中で止めなかった。
新規案の説明に入る。
反応はまだ固い。
ただ、最初のような“様子見”だけの空気とは少し違う。
役員が、新規案の3ページ目で質問する。
『この施策、リスクはどこに置いていますか』
優作は一瞬だけ詰まりかけた。
でも、今回は目をそらさなかった。
「あります。
なので、最初から全展開ではなく、一次検証を挟む設計にしています」
田辺がすぐに聞く。
『その一次検証で、何を見ますか』
「新規流入数だけじゃなく、初回接触後の反応率も見ます。
広げる前に、どの層に刺さるかを確認したいです」
自分で話しながら、少しだけ分かった。
今日は“うまく言おう”ではなく、
“曖昧なままにしない”で話している。
それだけで、言葉の重さが違った。
怖かった。でも、曖昧なまま黙る方が、今日はもっと怖いと思えた。
一通りの説明が終わったあと、田辺が資料を閉じた。
画面越しの空気が、ほんの少しだけ緩む。
そして田辺は、いつもよりゆっくりした口調で言った。
『正直に言うと、昨日の段階でかなり不安になっていました』
会議室の中が静かになる。
『なので今日は、提案の内容だけじゃなく、
ズレた時にどう話されるかも見ていました』
優作は、少しだけ目を見開いた。
田辺は続ける。
『こちらも社内で守らなきゃいけないものがあるので、
なんとなく大丈夫そう、ではもう進めにくいんです』
その言い方は厳しかった。
でも、初めて少しだけ田辺の向こう側が見えた気がした。
嫌な人だったわけじゃない。
この人も、この人の場所で、曖昧さに困っていたのだ。
厳しい人だったんじゃない。
この人もずっと、“なんとなく大丈夫”に困ってきたんだ。
『その意味では』
田辺が一拍置く。
『今日の説明は、昨日より安心できました』
優作は、言葉を返せなかった。
たったそれだけだった。
褒めたわけでもない。
許したわけでもない。
でも、その一言は十分だった。
役員が最後に言う。
『この案、社内で一度回します。
即決ではありませんが、再提案として受け取ります』
それは満点じゃない。
でも、終わりでもなかった。
優作の肩から、少しだけ力が抜ける。
会議が終わる。
画面が暗くなる。
会議室に残った静けさの中で、真壁が長く息を吐いた。
「……助かった」
美月はすぐに言う。
「助かったというより、戻れただけです」
「分かってるよ」
真壁は苦笑した。
でもその苦笑いに、前より少しだけ本気が混ざっていた。
席に戻る途中、優作は少しふらつくような感覚があった。
終わった安心というより、張っていたものが切れた感じだ。
自分の席に座る。
ノートPCを閉じる。
そのまましばらく動けない。
そこへ、美月が来た。
手にはマグカップ。
いつもの顔。
でも、ほんの少しだけ空気が違う。
「中村さん」
「……はい」
「今日は、最初から曖昧じゃなかったですね」
優作は顔を上げた。
たぶん、褒められた。
いや、褒められたっていうか——
今日はちゃんと、見てもらえた気がした。
「……それ、結構うれしいです」
美月は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「はい。かなり」
「だったら忘れないでください」
「何をですか」
「今日うまくいったのは、才能じゃなくて確認したからです」
優作は苦笑した。
「最後まで厳しいですね」
「最後じゃないので」
そう言って、美月は自分の席に戻っていく。
その背中を見ながら、優作は小さく息を吐いた。
ちゃんと確認して、ちゃんと返す。
たったそれだけのことが、今日はやけに難しかった。
でも、優作は少しだけ知った。
伝わるって、偶然じゃない。
ちゃんと作るものなのだ。
ただ——
だからといって、これで全部うまくいくわけじゃない。
隣の席では、佐伯が新しい資料を前に止まっていた。
そして少し離れたところでは、真壁がもう別件の電話で
「ざっくりでいいから」と言いかけている。
優作はその声に顔を上げる。
たぶん、次のズレはもう始まっている。
第7話へ続く。