第3話
「迷ったら聞いて」は、だいたい聞けない
午後四時を少し過ぎたころだった。
オフィスの空気は、朝より少しだけ重い。
集中している人と、疲れている人が半々くらいの時間帯。
中村優作の画面に、佐伯からのチャットが残っていた。
『中村さん、すみません。
さっきの資料、“迷ったら聞いて”って言われたんですけど……
どのタイミングで聞いていいか、迷ってます』
優作はその文章を、二回読んだ。
(……たしかに)
言った。
自分で言った。
“迷ったら聞いて”
その時は、ちゃんとフォローしたつもりだった。
でも今こうして見ると、
それは答えになっていない気がした。
“迷ったら”って、いつだ。
“聞いて”って、どこまでだ。
優作は椅子の背にもたれたまま、少し考える。
その様子を、向かいの席から桐谷ケイが見ていた。
「また止まってんな」
「……いや」
優作は苦笑いした。
「佐伯に“迷ったら聞いて”って言ったんだけどさ」
「うん」
「その“迷ったら”が曖昧だったっぽい」
桐谷は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「そりゃそうだろ」
「そんな即答ある?」
「あるよ。だって“相談していいよ”って、言われた側はだいたい困るもん」
優作は眉を寄せる。
「なんで?」
「聞いて怒られないか、邪魔じゃないか、今じゃないか、そこまで自分で考えろって意味じゃないか」
桐谷は指を折りながら言った。
「聞く側って、そのへん全部考えてるぞ」
優作は何も言えなかった。
その時、美月が会議室から戻ってきた。
資料の束を机に置いて、優作の顔を見る。
「どうしました」
「いや、佐伯に“迷ったら聞いて”って言ったんですけど」
「はい」
「どのタイミングで聞いていいかわからないって言われて」
美月は一拍置いた。
「それは、そうです」
優作は顔を上げる。
「相沢さんまで」
「“いつでも聞いて”と“いつ聞けばいいか分かる”は別です」
その言い方は、いつも通り静かだった。
でも今日は、少しだけ刺さる。
「中村さん、自分が後輩の時どうでした?」
優作は記憶を探る。
昔。
まだ入社したての頃。
先輩に「気軽に聞いていいから」と言われて、
結局、何度もタイミングを逃したことがあった。
忙しそうだった。
話しかけたら迷惑そうだった。
こんなことも自分で決められないのかと思われそうだった。
気づけば、勝手に進めて、少しズレた。
「……あったかも」
「ありますよね」
美月は言った。
「“聞いていい”だけだと、聞く側は判断をもう一つ増やされるんです」
優作は小さく息をのむ。
判断を、増やされる。
それは妙にしっくりきた。
優作は佐伯のチャット画面を開いた。
少し考えて、打つ。
『たとえばこの資料なら、
①構成を決めた時
②1枚目を書いた時
③提出30分前
この3回のどこかで聞いて。
特に、方向性で迷った時は早めに大丈夫。』
送信する。
打ち終わったあと、自分でも少し驚いた。
(……具体的に言うと、こんなに違うのか)
数秒後、佐伯からすぐに返信が来た。
『ありがとうございます。
それなら聞きやすいです。
今ちょうど1枚目で迷ってるので、あとで5分だけいいですか?』
優作は画面を見て、少しだけ目を丸くした。
“迷ってる”が、初めてちゃんと届いた気がした。
「来た?」
桐谷が聞く。
「……来た」
「なんて?」
「聞きやすいって」
桐谷は肩をすくめた。
「そりゃそうだろ」
その言い方が少し悔しい。
でも、たぶんその通りだった。
数分後、佐伯がノートPCを持ってやってくる。
「すみません、今いいですか?」
「うん、大丈夫」
佐伯は画面を見せた。
「1枚目、結論を先に出すっていうのは分かったんですけど、強めに言い切っていいのか迷ってて……」
優作は画面を見る。
たしかに悪くない。
でも少しだけ弱い。
「これ、方向はいい」
佐伯の表情が少しほどける。
「ただ、先方の部長向けなら、最初の一文はもう少しはっきりでいいかな」
「はっきり、ですか」
「うん。“検討の余地があります”より、“この進め方が最適です”の方が伝わりやすい」
佐伯はすぐに打ち直す。
「あ、そっちの方がわかりやすいです」
「で、理由は次の行で支える感じ」
「はい」
話は三分もかからなかった。
佐伯が席に戻ったあと、優作は少しだけ不思議な気持ちになった。
前なら、
“そんなことまで聞くのか”
とどこかで思っていたかもしれない。
でも実際は逆だった。
早く聞いてもらった方が、直すのも早い。
ズレも小さい。
その当たり前を、
優作は今さら少しずつ覚えている。
夕方。
優作が自分の資料を直していると、
美月が横に立った。
「さっきの、よかったですね」
優作は顔を上げる。
「……佐伯の件ですか?」
「はい」
「意外だな。褒めるんですね」
美月は少しだけ首を傾けた。
「褒める時は褒めます」
「なんか今日、ちょっとだけ優しくないですか」
「“ちょっとだけ”って便利ですね」
優作は吹き出しそうになる。
たしかにそうだ。
曖昧で、逃げ道があって、
でも少しだけ距離が縮まる感じもある。
美月は続けた。
「でも、中村さん」
「はい」
「“聞いていいよ”は、受け手に優しい言葉に見えて、実は丸投げになることがあります」
優作は黙って聞く。
「本当に聞きやすくしたいなら、
いつ、何を、どのくらいで聞いていいかまで渡した方がいいです」
そう言って、美月は自分の席に戻っていく。
優作はその背中を見ながら、
また一つ、自分の中の“なんとなく”が言葉になった気がした。
優しさだけじゃ足りない。
でも、冷たくする必要もない。
相手が動きやすくなるように、
少しだけ先に道を見せる。
たぶん、そういうことなのだ。
その時、また優作のチャットが光る。
送り主は、真壁だった。
『中村くん、さっきの件ありがとう!
あと別件なんだけど、明日の打ち合わせ、適当にいい感じで話まとめといて!』
優作は画面を見つめる。
“適当に”
“いい感じで”
今日の自分なら、もう分かる。
これは危ない。
優作はキーボードに手を置いた。
『確認なんですが、
誰向けに、どこまで決めればいいですか?
論点だけ整理でいいのか、結論まで必要か教えてください。』
送信。
少しだけ、前より速かった。
その様子を見ていた桐谷が、笑う。
「お。やっと人間になってきたな」
「その言い方やめろよ」
「いや、でも進歩だよ」
優作は苦笑した。
たしかに、少しだけ進んでいる気がする。
でも次の瞬間、真壁から返信が来た。
『あー、じゃあ一回電話するわ!』
優作は画面を見たまま止まる。
電話。
それはそれで、少し面倒だ。
でもたぶん、
文字よりズレない。
優作は観念したように小さく息を吐いた。
そして、着信の前にメモ帳を開く。
今度は、
聞きながら曖昧にしないために。
優作はまだ、その途中にいる。
第4話へ続く。