なんで分かってくれないんだろう
カウンセリングルームのドアを開けた彼女は、少し疲れた表情をしていた。いつものソファに腰を下ろすと、小さくため息をついた。
クライエント「あの...今日は、ちょっと愚痴みたいになっちゃうかもしれないんですけど」
ダイキ「大丈夫ですよ。どんなお話でも」
クライエント「彼のことなんです。最近、なんかもう...疲れちゃって」
彼女は膝の上で手を組んだり解いたりしながら、言葉を探していた。
クライエント「なんていうか...私の気持ち、全然分かってくれないんです」
ダイキ「分かってくれない、ですか」
クライエント「はい。たとえば、仕事で嫌なことがあって落ち込んでる時とか、普通気づきますよね? でも彼は、何も聞いてこないし、いつも通りなんです」
彼女の声には、やるせなさが滲んでいた。
ダイキ「その時、あなたはどうされるんですか?」
クライエント「......黙ってます。だって、言わなくても分かってほしいじゃないですか」
「察する」文化の罠
ダイキ「なるほど。言わなくても分かってほしい、と」
クライエント「変ですか? でも、好きな人だったら、相手の様子で『あ、今日機嫌悪いな』とか分かるものじゃないですか」
ダイキ「そう思われるんですね」
クライエント「私だったら分かりますよ。彼が疲れてるとか、イライラしてるとか。なのに、彼は全然...」
彼女はそこで言葉を切った。少し間があって、また続けた。
クライエント「この前も、誕生日だったんです。私の」
ダイキ「誕生日だったんですね」
クライエント「はい。で、その日に会ったんですけど、彼、何も言わないんですよ。『おめでとう』の一言もなくて」
ダイキ「それは...寂しかったでしょうね」
クライエント「寂しいっていうか、もう...ショックで。だって、誕生日って覚えてるはずじゃないですか。それなのに何も言わないって、私のこと、どうでもいいのかなって」
彼女の目に涙が浮かんでいた。
ダイキ「その時、彼には何か伝えましたか?」
クライエント「......いえ、言えなくて。だって、『今日私の誕生日なんだけど』って自分から言うの、なんか虚しいじゃないですか」
ダイキ「虚しい、ですか」
クライエント「はい。自分から言わないと祝ってもらえないって、それって愛されてないってことですよね」
沈黙の中で募る誤解
ダイキは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
ダイキ「一つ、伺ってもいいですか。彼は、あなたの誕生日を知っていたんでしょうか」
クライエント「え...? それは、たぶん...」
彼女は言葉に詰まった。
クライエント「......分かりません。でも、覚えてないっておかしくないですか?」
ダイキ「確かに。でも、もし彼が誕生日を覚えていなかったとしたら?」
クライエント「......」
ダイキ「彼にとっては、何も知らない普通の日だったかもしれない。そうだとしたら、彼は何も悪いことをしていないことになりますよね」
クライエント「でも...」
彼女は何か言いかけて、止まった。しばらく沈黙が続いた。
クライエント「......言われてみれば、彼に誕生日、ちゃんと伝えたことなかったかもしれません」
ダイキ「そうなんですね」
クライエント「なんか...恥ずかしくて。『私の誕生日は○月○日だから覚えといてね』なんて、自分から言うのって、なんか必死みたいで」
脳は「察する」ようにできていない
ダイキは前のめりになっていた彼女の様子を見て、少し間を置いてから話し始めた。
ダイキ「実はですね、人間の脳って、『察する』のが得意じゃないんです」
クライエント「え? でも、空気読むとか、よく言うじゃないですか」
ダイキ「はい。でも、それは実はとても難しいことなんです。相手の表情や態度から気持ちを推測するには、ものすごく複雑な情報処理が必要で」
クライエント「......そうなんですか」
ダイキ「特に、自分の期待と違う反応をされた時、私たちは『察してもらえなかった』と感じます。でも実際は、相手にはその期待自体が分かっていないことが多いんです」
彼女は少し驚いた顔をしていた。
クライエント「つまり...彼が悪いわけじゃないってことですか?」
ダイキ「悪いとか良いとかではなく、人間の脳の仕組みの問題なんです。たとえば、あなたが疲れている時、表情や態度にどれくらい出ていると思いますか?」
クライエント「うーん...結構出てると思いますけど」
ダイキ「でも、それを『疲れている』と解釈するか、『機嫌が悪い』と解釈するか、『眠い』と解釈するかは、見る人によって違いますよね」
クライエント「......ああ」
ダイキ「そして、もっと難しいのは、その疲れの『理由』まで察することです。仕事のことなのか、体調のことなのか、それとも彼との関係のことなのか」
クライエント「確かに...それは無理かもしれません」
ダイキ「無理なんです。だから、言葉にすることが大切なんですよ」
「言葉にする」ことへの抵抗
クライエント「でも...なんか、言葉にするって、負けた気がして」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
ダイキ「負けた気、ですか」
クライエント「はい。だって、本当に愛されてたら、言わなくても分かってくれるはずじゃないですか。それを自分から説明しないといけないって、愛されてないってことかなって」
ダイキ「なるほど。つまり、『察してもらえる = 愛されている』という図式があるんですね」
クライエント「......そうかもしれません」
ダイキ「でも、逆に考えてみてください。彼のことを、あなたはどれくらい『察して』いますか?」
クライエント「え?」
ダイキ「たとえば、彼が今日何を考えているか、何に悩んでいるか、何を望んでいるか。すべて察することができますか?」
彼女は黙り込んだ。しばらく考えてから、小さな声で答えた。
クライエント「......できないです」
ダイキ「そうですよね。それは、あなたが彼を愛していないからですか?」
クライエント「違います。でも...」
ダイキ「でも?」
クライエント「でも、私は女性だから、察する能力が高いっていうか...男の人より気がつくと思ってました」
「察する能力」という幻想
ダイキ「確かに、そういう風に言われることは多いですね。でも、実際のところ、察する能力に男女差はほとんどないんです」
クライエント「え? そうなんですか?」
ダイキ「はい。あるとすれば、それは『察することを期待されている』という社会的なプレッシャーの違いです」
彼女は目を丸くしていた。
ダイキ「女性は『気が利く』『空気が読める』と言われることを期待されて育つことが多い。だから、その能力を磨こうとする。でも、それは生まれつきの能力じゃなくて、努力して身につけたスキルなんです」
クライエント「......そっか」
ダイキ「そして、そのスキルにも限界がある。特に、相手が何も言わなければ、どんなに努力しても正確には分からないんです」
クライエント「じゃあ...私が彼に『察してほしい』って期待するのは」
ダイキ「無理難題を押し付けているようなものかもしれませんね」
彼女はハッとした表情になった。
ある気づきの瞬間
クライエント「......そうか。私、彼にすごく高いハードルを課してたんですね」
ダイキ「どう感じますか、それに気づいて」
クライエント「なんか...申し訳ないような。でも同時に、ちょっとホッとしてるかもしれません」
ダイキ「ホッとする?」
クライエント「はい。だって、彼が私のことを分かってくれないのは、愛がないからじゃなくて、単に『言ってないから』だったんだって思ったら...なんか、解決策がある気がして」
彼女の表情が少し明るくなった。
ダイキ「いいですね、その視点」
クライエント「でも...やっぱり、言葉にするのって難しいです。なんて言えばいいのか分からなくて」
ダイキ「どんなことを伝えたいですか?」
クライエント「うーん...たとえば、仕事で嫌なことがあった時は、話を聞いてほしいとか」
ダイキ「それ、そのまま言えばいいんじゃないですか?」
クライエント「え? そんなストレートに?」
ダイキ「『今日仕事で嫌なことがあって落ち込んでるの。話を聞いてもらえる?』って」
クライエント「......そんなシンプルでいいんですか?」
ダイキ「いいんです。むしろ、シンプルなほうが伝わります」
小さな一歩から
クライエント「でも、そうやって全部説明しないといけないって、なんか...面倒くさいっていうか」
ダイキ「面倒くさいですか」
クライエント「はい。だって、いちいち『私はこう思ってるから、こうしてほしい』って言わないといけないって、疲れません?」
ダイキ「確かに、最初は慣れないかもしれませんね。でも、考えてみてください。今のまま、言わずに察してもらえなくて、モヤモヤし続けるのと、どちらが疲れますか?」
彼女は少し考えた。
クライエント「......今の方が疲れてるかもしれません。だって、いつもイライラしてるし、彼に対して不満ばかり溜まるし」
ダイキ「そうですよね。そして、言葉にすることに慣れてくると、だんだん楽になっていきますよ」
クライエント「本当ですか?」
ダイキ「本当です。最初は『こんなこと言っていいのかな』って不安になるかもしれません。でも、言ってみたら、案外すんなり伝わったりするんです」
クライエント「......やってみようかな」
彼女は少し前向きな表情になっていた。
ダイキ「まずは小さなことから始めてみるといいかもしれませんね」
クライエント「小さなこと、ですか」
ダイキ「たとえば、『今日疲れてるから、早めに帰りたい』とか、『このレストラン、気になってたから行ってみたい』とか」
クライエント「ああ、そういうことなら...言えるかもしれません」
言葉は魔法じゃない、でも
ダイキ「ただ、一つ大事なことがあります」
クライエント「何ですか?」
ダイキ「言葉にしたからといって、必ずしも相手が期待通りに動いてくれるわけじゃないということです」
クライエント「......そうですよね」
ダイキ「でも、言葉にしないと、相手には『何も伝わっていない』んです。言葉にして初めて、相手はあなたの気持ちを知ることができる。そこがスタートラインなんですよ」
クライエント「スタートライン...」
ダイキ「はい。そこから、『じゃあどうしようか』って一緒に考えることができる。でも、言わなければ、そもそも問題があることすら相手は気づかないんです」
彼女はゆっくり頷いた。
クライエント「確かに。私、何も言わずに勝手に傷ついて、勝手に怒ってました」
ダイキ「気づかれたんですね」
クライエント「はい。なんか...彼に悪いことしたなって」
そう言って、彼女は少し笑った。初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「伝える」ことは愛の形
ダイキ「最後に一つ、考えてみてほしいことがあります」
クライエント「何ですか?」
ダイキ「『察してほしい』という気持ちの裏には、何があると思いますか?」
クライエント「何が...? うーん...」
彼女は少し考え込んだ。
クライエント「......愛されたい、ってことですか?」
ダイキ「そうですね。そして、もう一つあると思うんです」
クライエント「もう一つ?」
ダイキ「『傷つきたくない』という気持ちです」
クライエント「......ああ」
彼女の表情が少し曇った。
ダイキ「自分から言って、もし拒否されたら、すごく傷つきますよね。だから、言わずに察してもらおうとする。そうすれば、拒否されても『ちゃんと伝えてないから仕方ない』って思えるから」
クライエント「......その通りです」
ダイキ「でも、それって、本当の意味で相手と向き合っていないんですよね」
クライエント「......」
ダイキ「言葉にするって、勇気がいることです。でも、それは同時に、相手を信頼しているっていうことでもあるんです。『この人なら、ちゃんと受け止めてくれる』って」
クライエント「......そうか」
ダイキ「そして、相手もあなたが言葉にしてくれることで、『ああ、信頼されてるんだ』って感じることができる」
彼女は目を潤ませていた。
クライエント「私...彼のこと、信頼してなかったのかもしれません」
ダイキ「どうしてそう思いますか?」
クライエント「だって、ちゃんと伝えたら傷つけられるって、どこかで思ってたから。でも、本当は...彼は優しい人なんです。ちゃんと話せば、分かってくれる人だって、知ってるはずなのに」
ダイキ「今、気づかれたんですね」
クライエント「はい。なんか...今まですごくもったいないことしてたなって思います」
これからの一歩
セッションの終わりが近づいていた。
ダイキ「今日の話を聞いて、これから何か変えてみたいことはありますか?」
クライエント「はい。まず...彼に謝りたいです」
ダイキ「謝りたい?」
クライエント「はい。誕生日のこととか、他にもいろいろ...勝手に期待して、勝手に失望してたこと。それで、これからはちゃんと言葉にするって、伝えたいです」
ダイキ「いいですね」
クライエント「あと...『私の誕生日は○月○日だから、覚えといてね』って、ちゃんと言います」
そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。でも、その笑顔は清々しかった。
ダイキ「最初は緊張するかもしれませんが、きっと大丈夫ですよ」
クライエント「ありがとうございます。なんか...今日来てよかったです」
ダイキ「また困ったことがあったら、いつでも来てください」
クライエント「はい」
彼女はそう言って、軽やかな足取りでカウンセリングルームを後にした。
エピローグ
数週間後、彼女から連絡があった。
「先生、報告です。彼にちゃんと話したら、めちゃくちゃ驚かれました。『え、そんなこと思ってたの? 全然気づかなかった』って。でも、『これからは言ってね。俺、分かんないから』って笑ってくれて」
「それから、誕生日のこと伝えたら、『来年は絶対覚えとく。カレンダーに入れた』って。なんか...今までより話すようになった気がします」
「まだ完璧には言葉にできないけど、少しずつ慣れてきました。そしたら、彼も『俺もこう思ってるんだけど』って話してくれるようになって。なんか、前より近くなった感じがします」
察してもらうことを待つのではなく、言葉にすること。
それは、相手を信頼し、自分をさらけ出す勇気だ。
そして、その勇気が、本当の意味でお互いを理解し合う関係を作っていく。
彼女はそのことに気づき、新しい一歩を踏み出した。
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🙋 このブログを書いている人について
だいき|産業カウンセラー・キャリアコンサルタント
会社員時代、職場の人間関係でメンタルが限界に。「このままではまずい」と一念発起し、コミュニケーションを学び直した経験が、産業カウンセラー・キャリアコンサルタントの資格取得につながりました。
恋愛・婚活でも7年間で88人とデートを重ねながら、うまくいかない時期が長く続きました。その苦しさを知っているからこそ、脳科学・進化心理学・愛着理論といった知識を「自分ごと」として学び続けてきました。
キャリアブレイクコミュニティでは160回以上のワークショップを主催。さまざまな悩みや状況を持つ方と向き合い続けてきた経験が、相談の土台になっています。
「記事を読んで、もう少し深く話してみたい」と感じたら、ぜひココナラのサービスをのぞいてみてください。