大人とは、たくさんの人格を統合した人間のことだと考えています。一人の人間にはいくつもの人格が宿っています。授業参観に親が来た時を想像してみましょう。親に見せている自分とクラスメイトに見せている自分が大きく乖離しているとき、どちらの人格にチューニングすればよいか分からず戸惑ったことのある人もいますよね。それは一人の人間の中に複数の人格が存在しているからです。
家族といるときの自分は子供っぽくて、友人といるときの自分はアクティブで、恋人といるときの自分は甘えん坊で、一人でいるときは賢者のようで、部下がいるときは頼りがいのある兄貴キャラで…のように、一人の中にたくさんの人格が存在しています。他にも、邪な自分や小賢しい自分もいるでしょう。
人格の数は、場の数や状況の数、人間関係によって増える。最大の利益を得て、損をしないために、場に合わせた人格に無意識にチューニングしています。
自己の外的側面、つまり社会的仮面のことをペルソナといいます。仮面を被ることを良しとしないと考える人もいるでしょうが、仮面を被らないことはほぼ不可能で、素だと思っているものも仮面の一つです。
ただ、自分にとって消耗する仮面もあれば、限りなく消耗しない仮面もあります。消耗の激しい仮面とは、怒りや悲しみなどの感情がうまいように小出しにできず、抑圧されて精神面や健康面で害が出てしまうもので、消耗をほとんどしない仮面は、ネガティブな感情を小出しにできるので、自然体でいられます。
この人格の数が多いほど大人としては優秀です。人格が多い人、少ない人というのは、実は確かめることができます。
他者に対する怒りや許せないという気持ちをたくさん持っている人は、それだけ人格の数が少ないです。
人を許すというのは、相手の中に自分の人格の一部を見出すということで、「あいつは私だ」と思えるからこそできることです。自分自身を許せる人間が、他者を許すことができます。
勇敢な自分も臆病な自分も、高潔な自分も卑猥な自分も、すべて自分の構成している一部であるということ認められるから、自分の欠点も受け入れることができ、相手の欠点を許すことができます。
しかし、「こんな自分は本当の自分ではない」と、弱い自分を抑圧し、自分の欠点を受け入れることのできない人間は、その欠点によってやらかした人間に対して攻撃し、非難し、排除し、否定します。一般的に抑圧的な人間は、他者への攻撃性が強いです。
企業が、消費者の気持ちを考えられていないとして炎上するケースもありますが、それも構造的には同じようなものです。
まるで自分は失敗したことがないとでも思っているのか、過去の過ちを事あるごとに持ち出す人もいます。こういった人たちの声が大きく目立ってしまうのは困ったものです。
誘惑に負けた人間も徹底的に貶められてしまいますね。
しかし、いったいどれだけの人間が誘惑に勝てるというのでしょうか。誘惑に負けた人間を彼らは否定しますが、「私は誘惑されない程度の人間であります!」ということを宣言しているようなものです。私だったら誘惑の一つもない人生なんてと、情けなくなります。
魅力のある人や力のある人には、常に一定の誘惑がちょくちょくあるものです。
あなたのために用意された天下り先を断れるでしょうか。魅力的な人間があなたに迫ってきて、それを断れるでしょうか。そう思うと、不正をはたいてしまった人へは、怒りの感情ではなく、感情移入するわけでも、「まあそうしちゃうのも分かるけどな」くらいの感覚になると思います。
明日は我が身だと思うと、お前のことは許すから俺もやらかしたときは許してくれというスタンスで生きるほうが心が楽です。
多くの人格を統合して複雑な人間性を構築していきますが、幅広い品ぞろえの人格を持っている人ほど、他者を許すことができますし、どんな時も面白がって生きることができます。