「相手に合わせるほど、気分が重くなる」
そんな経験はありませんか?
私はずっと、自分のことを「誠実さを装う、嘘つきな人間」だと思って生きてきました。
相手の表情を読み、望まれる言葉を差し出す。
相手が笑顔になる。
客観的に見れば「いいこと」をしているはずなのに、内側では言いようのない不快感が募っていく。
「心にもないことを言っている自分は、なんて薄汚いんだろう」
「自分は、呼吸をするように嘘をつく悪い人間だ」
そうやって自分を責め続けてきた私が、ある日、心の中の「内戦」に気づき、自分と和解するまでのお話を書こうと思います。
「正しい理性」という名の、冷酷な司令官
かつての私は、自分という人間を「理性」という一人の人格だと思い込んでいたと思います。
(この思い込みというのは、感覚的な話です。理性的な理解はまた別のところにあり、もちろん理性だけが自分だとは考えていません。)
理性が「こうあるべき」という正解を出し、それに従えない自分を改善対象として是正する。
それが「自分と向き合うこと」だと思っていました。
例えば、自分は納得していない上司の意見に合わせて、まるで心から同意しているかのように仕事を進めた時。
理性が「相手の求めている成果をだしたんだから、これで正解。やることは変わらないんだから、相手の意見に賛同した方が喜ばれる。人の役に立つことができた。」というようなことを考えていました。
しかし、心(感情)は「本当はやりたくなかった」「疲れた」「他にも方法はあった」と悲鳴を上げていました。
すると理性が、その不快感を不純なものと見なし、さらに追い打ちをかけます。
「なぜそんな風に感じる? 感謝されているのに不快になるなんて、お前は性格が歪んでいるんじゃないか?」
これは対話ではなく、逃げ場のない「尋問」でした。
嫌っていたのは「私」ではなかった
ある時、ハッと気づきました。
「自分を嫌い」だと感じていたけれど、嫌っていたのは誰だったのか。
実は、心の中の子供(感情)が、自分を無視し続け、正論で責め立てる冷徹な大人(理性)を、拒絶していたんだろうと。
「自分を嫌い」なのではなく、私の中の二人が「仲違い」をしていた。
理性が「自分こそが主(あるじ)だ」と傲慢になり、生体反応として湧き上がる感情を蔑ろにしていた。
その不誠実さが、「相手に合わせた時の気分の重さ」の正体だったのです。
「向き合う」とは、ただ隣に座ること
その気づきを通して、私は「自分と向き合う」の定義を書き換えました。
原因を分析し、自分を是正しようとする「なぜなぜ分析」を、やめることにしました。
心に違和感があるとき、私はただ、その感覚を観測するようにしました。
「あ、今、喉の奥がギュッとしているな」
「相手に合わせた後、胸のあたりがザワザワしているな」
理性が「パワハラ上司」から「愛情深い親」に変わる。
「そう感じていたんだね。無理をさせてごめんね。自分に何ができる?」と、ただその感情に寄り添い、支援する。
感情は、ありのままを「受け入れられる」と、不思議なほど静かに落ち着いていきます。
分析ではなく、認めてもらって次の一歩が提案されると、心は安心して喜びます。
自分というチームの、一番の味方になる
自分を好きになるのに、立派な人間に鍛え上げる必要はないです。
「頭」と「心」が、信じ合える関係になることです。
他人の期待に応えることよりも先に、まずは自分というチームの声を拾い上げること。
それが、私が私に対して果たせる、本当の意味での「誠実さ」なのだと今は確信しています。
かつての私と同じように、優しさゆえに自分を嘘つきだと責めている誰かに、この言葉が届くことを願っています。