人事を尽くして天命を待つ-臓器移植について

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終末期医療に関わる問題の一つとして、臓器移植があります。

臓器移植とは、病気や事故によって臓器の機能が低下し、移植でしか治らない人に、他の人の臓器を移植し、健康を回復する医療ですが、これには賛否両論があるんですね。

今日本ではドナー数が決定的に不足していて(これは他の国でも同じ)、移植待ちリストがとんでもない長さになっているとのことです。

ですから推進派はなんとかして臓器提供者を増やすべく必死の努力をしています。

しかし、その一方で臓器移植には根強い反対意見があります。

その中でもっとも目立つのが「脳死は人の死」という定義への懐疑論です。

これは脳死とされても心臓が動いていること、脳死とされてから長年生きている「長期脳死者」の存在や、脳死者がラザロ徴候(両手などがなめらかに動く現象)を示すことなどを理由としています。

実は、ラザロ徴候を示す脳死者が多いために、臓器摘出時に麻酔や筋肉弛緩剤を投与するのですが、本当に死亡しているのであればそんなことをするのはおかしいですよね。

また、正式に脳死と判定されて臓器摘出の準備が進められたが親族の判断で中止され、後に奇跡的に社会復帰した青年が、脳死判定時に意識があったと証言した例もあります。

大体、「脳死を人の死」と思う人は医療従事者でも41.6%と半数を切っています。

もともと日本で移植医療が進まなかったのは、1968年の札幌医科大学の和田寿郎教授による日本初の心臓移植手術が原因とされています。

その際の脳死判定の妥当性や移植手術の必要性に疑惑があったために、今でも脳死判定への疑問や根強い医療不信をもつ人が少なくないのです。

また、臓器移植のために人体の資源、ひいては商品と見なされる危険性があることも指摘されています。

実際、臓器の闇マーケットや、臓器移植ツアーなるものも噂になっているくらいです。

そして、臓器移植を待つことは即ち他人の死を待つことに他ならないとの倫理的抵抗感もあるようです。

私がもっとも気になったのは、ある仏教研究者が主張した他人の臓器をもらってまで生に執着するのは醜い、死期が訪れたら従容と死を受け入れるべきとの意見です。

しかし、これは臓器移植のみならず、すべての医療を否定することになるのではないでしょうか。

「人事を尽くして天命を待つ」といいますが、臓器移植は人事のうちに入ると思います。

できることをすべてやることに何の問題があるというのでしょう。

仏教に限らず、こういう中途半端に悟ったようなことをいいたがる宗教者が結構います。

そしてそういうのに限って自分が死の床についた時は必死で生にしがみつこうとするのですね。

蛇足ですが、臓器移植をしてもそれですべて解決とはいかないようです。

移植を受けた人は、拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤の服用を続けなければならず、身体の機能が完全には戻らないとの問題があるのです。

最後に書いておくと、私は昨日もいったとおり、自分にそれほど価値があるとは思っていないので、たとえそれで命が助かるとしても臓器移植を受ける気はありません。

反対に死後の臓器提供は、使えるのであれば自由に利用してくれればいい。

死んでいるのですから関係ないというか。

ついでにいえば、私が死んだときは、葬儀は最大限簡素に、遺灰はそこらの川に流してくれればいいと思っています。

では

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