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そうだ、怒りは心に盛る毒だった

生きていれば怒りを持つことはいくらでもある。 「怒り」というような腹の底からわき出るものから、考えてどんどん集まってくるイライラもある。 ひとりの部屋で矛先を失った怒りを持つことがある。 でも、その怒りの多くは自分が育てたものだ。 嫌いな人のことを想像して、頭の中でその姿を大きくしている。 世の不条理にせっせと水を注いで、怒りの芽を自分で育てていることもあった。 分かっているのにやめられない。 だから同じことでも何度も繰り返す。 そんな自分を責めるのはやめよう。自分の思いのクセだから「もう直らない」とあきらめる。そして…怒りに気づいたら思うことを止める。何も考えないときをつくる。ただそれだけ。止めたことで現れた心の隙間は、そのままでは不安定だ。だから楽しいことを想像してその穴を埋める。甘いケーキでも思い浮かべばいい。便利なことに、人は怒りと快楽を同時に持つことはできない。笑いながら怒る人はいない。 他人の言葉のように外から持ち込まれる怒りもある。 そんな時は、水に書いた文字の様にさらりと流して受け取らない。「水に流す」をこんな時にも使いたい。 相手が渡そうとした憎悪の言葉も、私が受け取らなければ相手は持って帰るしかない。意地悪い相手は、渡そうとした毒に今度は自分が苦しむ。「怒りは心に盛る毒」だと思う。 毒はやがて身体を蝕む。冷静な判断も出来なくなる。何ひとついいことは無い。 怒りの原因を理論的に追究することも大切だろう。 でもその前にこの言葉を思い出して欲しい。 「怒りは心に盛る毒」だった。 それだけで心は落ち着きを取り戻す。
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「相手のしあわせを願う」を止めていっしょに喜ぶ

「軽やかに暮らす」の中で「三つのしあわせ」を提唱しています。 三つのしあわせとは ・自分のしあわせ ・相手のしあわせ ・仕合わせ(めぐり合わせ) きょうは「相手のしわせ」についてです。 悩む人間関係の話です。「相手のしあわせ」を願う。 これはとても大切なこと、もちろんです。自分の子どものしあわせを願わない親はいません。でも私は願わない、と決めました。「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。 「相手のしあわせを願う」とは、相手を想うようで実は自分の想いに執着している、と思っています。「私が想うしあわせ」を押し付けています。「私の想うしあわせの尺度」で相手のしあわせを捉えているところがあります。 「心配はわがままな趣味のようなもの」という言葉があります。本当は相手が私から心配されず、自分の足で立つことが良いのです。それでも私は、こうなって欲しいと願い、勝手に心配していました。相手の力量を自分と比べて卑下している部分があったかもしれません。「うまくいかないだろう」と、私が勝手にあきらめていたかもしれません。でも相手には自分が想うよりもずっと大きな力があるのです。 だから、「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。それはもう手放しで喜びます。自分のことのように喜びます。 雨が降れば隣に立ってそっと傘を出す。 私が願わなくて雨はいつかやみます。 雨がやんだら明るくなった空をいっしょに喜びたい。 そして相手が順調に前に歩いているとき、私は必要ありません。でもうまくいかず、もし誰かを傷つけたなら、その人の前
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街にはいっぱい素敵なことがある

「今日コンビニで、ひとりでひたすら長蛇の列をさばいていて、やっとひと段落したわ、と思ったその列の最後のお客さんに、「ようがんばったな~」と言われてびっくりした。長い列に並んで待たされて、文句のひとつも言ってもおかしくないのに、なんでそんな優しいことが言えるん、泣きそうになったよ。」SNSで見つけたコンビニバイトの投稿です。「小さな町の食堂でお手伝いをしている小学生の女子がいた。そのとき電話で話す言葉にはっとした。予約を受けたあと受話器をおく前に、「それではでんわきりますね」と相手に言っていた。私は電話を切るときのタイミングの違和感にいつも悩んでいた。この女の子に教えられた気分だ。なによりその場の空気がさわやかだった。」「ATMで前の人を待っていた。数件の振り込みをしているのか、少し時間がかかっている。私の後で並ぶ女性もイライラを隠し切れない。そんなとき振り込みを終えた男性がひと言、「お待たせしました」と頭を下げてその場を後にした。イライラしていた自分が恥ずかしくなった。なんて素敵なひとなんだろう。」街で見つけた素敵なこと、素敵なひとです。 街には素敵なことがいっぱい溢れています。 それでも私たちは、嫌なこと、不安なことに目が向いてしまいがちです。 それは危機から自分を守るためと思えば、それも必要です。 だから不安をひとつ見つけたら、素敵なことを、素敵な人をひとり探します。 探せば街には素敵がまだまだあります。 「ようがんばったな」と言われたバイト女子は家に帰って、お母さんに「ありがとう」と声を掛けるかもしれない。 優しい言葉は優しい気持ちを生み、その先にまた優しい言葉を
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自分の気持ちに気づくことから始める

「周りの人たちが称賛してくれることを期待しながら行動を起こしてはいけない」 この春公開される映画「生きる LIVING」で脚本を書いたカズオ・イシグロさんの言葉を、Yahoo!ニュースの中で見つけた。 そしてこうも続けている。一生懸命に努力を重ねて結果を出したとしても、それを他人が認めてくれないかもしれない。他の人の手柄になるかもしれない。もしかして感謝されてもすぐに忘れられるかもしれない。つまり称賛を求めることをモチベーションにしてはいけないということを私はこの映画(黒澤明監督「生きる」)から学んだのです。「正しいと思うことをいいカタチで成し遂げることができた」という自分の中の達成感こそが大切なのだと。 運よく私は成功を手にし、ノーベル賞をいただきましたが、その生き方は今も変わりません。こんなことをしようか、こう言ってみようかと思うとき、同時に頭の中に浮かぶのは、「あの人はどう思うか」とか、「きっとスゴイと思うだろう」とか。勝手に妄想を膨らまして他人の顔を想像していた。 「周りの人たちが称賛してくれることを期待しながら行動を起こしてはいけない」 私には、こんなはっきりしたことは言いきれない。でも確かにバカバカしいと思う。今まで妄想していたことも否定できない。でも、相手への期待は簡単には無くならないと思う。 バカバカしいけれど、これからもついつい頭の中で浮かんでは消え去るだろう。 「なくそう」「行動を起こしてはいけない」と自分を縛るほど私は強くない。 だったら、まず「今またこんなことを考えたな」と、自分の気持ちに気づくことが大切だと思う。 自分の気持ちに気づくことは出来る。 そ
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「人間関係」の悩みは、人と人の間に風船のように漂っている

人間関係で何か悩みが生じたとき、あなたは「私が変われば」とか、「もっと相手のことを考えて」とか思っていませんか?自分を変えようとしませんか? 優しくて真面目なあなたなら、きっとそうするでしょう。相手が他人であっても家族であっても。 誰かに悩みをうち明けたなら、「相手を変えることは出来ない。だからあなたが変わることが必要」と分かり切ったアドバイスを受けるかもしれません。 でも既に分かってます。自分を変えることはとてもハードルが高い。それでも何かしなくてはと悩みのループに迷い込んでしまいます。 どうしたらいいでしょうか? こんな方法を試してください。イメージしてください。 あなたは今、目に前の相手に怒りや嫉妬、憎しみを持っているとします。でも、実はその怒りや嫉妬、憎しみという感情はあなたの内に存在しません。感情は薄汚れた風船の中にあり、嫌だ嫌だと言いながら、あなたはその風船の紐を放すまいと強く握っているだけです。 風船の紐を手放しましょう。 握った手を放せば風船はふわふわと空へ舞い上がっていきます。あなたはそれを眺めるだけです。何も考える必要はありません。ぐずぐずしていると風船はしぼんでしまい、勢いを忘れいつまでも近くに漂います。手放したい感情がいつまでもあなたの周りに残ってしまいます。 元々感情はあなたの内にありません。 「人間」という言葉のとおり、人と人の「間」に存在しています。自分の内にあると思うからなかなか消し去ることが出来ないのです。自分の外に、自分と相手の間にあると思えばいいのです。 「人間関係」の問題は、自分の中にあるのでなく、人との「間」にあることに気づいてください
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「相手のしあわせを願う」を止めていっしょに喜ぶ

「軽やかに暮らす」の中で「三つのしあわせ」を提唱しています。 三つのしあわせとは ・自分のしあわせ ・相手のしあわせ ・仕合わせ(めぐり合わせ) きょうは「相手のしわせ」についてです。 悩む人間関係の話です。 「相手のしあわせ」を願う。 これはとても大切なこと、もちろんです。 自分の子どものしあわせを願わない親はいません。でも私は願わない、と決めました。 「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。 「相手のしあわせを願う」とは、相手を想うようで実は自分の想いに執着している、と思っています。「私が想うしあわせ」を押し付けています。「私の想うしあわせの尺度」で相手のしあわせを捉えているところがあります。 「心配はわがままな趣味のようなもの」という言葉があります。本当は相手が私から心配されず、自分の足で立つことが良いのです。それでも私は、こうなって欲しいと願い、勝手に心配していました。相手の力量を自分と比べて卑下している部分があったかもしれません。「うまくいかないだろう」と、私が勝手にあきらめていたかもしれません。でも相手には自分が想うよりもずっと大きな力があるのです。 だから、「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。それはもう手放しで喜びます。自分のことのように喜びます。 雨が降れば隣に立ってそっと傘を出す。 私が願わなくて雨はいつかやみます。 雨がやんだら明るくなった空をいっしょに喜びたい。 そして相手が順調に前に歩いているとき、私は必要ありません。でもうまくいかず、もし誰かを傷つけたなら、その
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成熟社会ってなんだろう

社会が新たなステージを迎えようとしている。今までの経済成長優先社会は、豊かになるということは幸せになることを意味していた。GDPの数値は豊かさの指標だった。しかし今の日本経済は伸び盛りの成長期にあるわけではない。もうその時代は卒業したと言っていい。今はとても大きくて、とても豊かな成熟社会の中にある。こんな文章を書いてみた。 でも自分で書いていてどこか府に落ちない。どこかの学者が書いた論文の端のようで、これを読んで誰が希望を持てるのかとどこか落ち着かない気分だった。何故だろう?・・・ 書いた言葉「成熟社会」の意味を自分の中でしっかり落とし込んでいなかったからだと思う。 だから改めて、「成熟社会ってなんだろう」から始めてみた。まず「成熟」とはなにか?「成長」と対比するなら、もうこれ以上成長しないこと、大きくならないことだと思う。人の背丈も永遠に伸び続けるわけではない。いつかは止まる。 「熟す」とはどういうことか?子供が成長して大人ごごろを持つこと、青い果実が赤く熟すことだろうか。それなら、「成長」から「成熟」に移ることは、ごく自然で喜ばしいことだ。途中で止めるなんて出来ないし、止めてはいけないことではないか?そんな疑問も浮かんできた。成長した後で今度は心が柔らかになること、硬くて青い果実を甘くて美味しい、色鮮やかなものに育てる時期に来ているんじゃないか?でもいまだに、もう一度成長経済に戻ろうとしている。外見ばかりさらに大きくしようとしている。中身を見ようとしない。豊かになれば必ず幸せになれると信じ込んでいる。そんな気がしてならない。「成熟」の後はどうなるか?恐ろしい気もするが想像し
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見えないものと見ようとしないもの

見えないものや不可思議な力に魅かれる時がある。 神様や亡くなった人のチカラにすがることもある。 そんな不可思議な力を否定するつもりはない。見えている人には見えるだろうし、声が聞こえてる人には聞こえているのだろう。 私には見えない、聞こえないというだけだ。 自宅にも神棚はある。その前で手を合わせることも勿論ある。 手を合わせる先に見えるものはお札であり、ご神体と言われる鏡だった。 ある時、こんな気持ちになった。 神棚の鏡はそのまま自分の心に繋がる。私が見えないものとして拝んでいた神様は、実は見ようとしていない自分の心だった。見えない神様に意識を集中することも心が静まり大切なことだろう。でも、自分で見ることが出来るのに見ようとしないものがあった。 自分の心であり、大切な人の気持ちだ。 神棚の鏡は自分の心を映すものだと思う。 自分の心を尊重して手を合わせる。 疲れた心を癒す。 そして憎悪や嫉妬を持った心を赦す。 嫌な部分を認めたくないために、自分の心を見ようとしない こんなこともあるようだ。 見えない不思議を探す前に、見ようとしなかった自分の心や大切な人の気持ちに素直に意識を向けることも必要なのでは。今はそんな気がする。
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上を向いて歩いていこう

気が付けば、こんなことが続いている。 「人の嫌な部分を探してる」 「人の欠点を探してる」 「人の悪い部分を探してる」 こんな自分になったことはないだろうか? 私はある。 「あの時もそうだった」「あの問題も・・・」と、政治や社会への悪口が止まらない。そうすると、どんどん気分が悪くなる。自分とは関係ない人のことでネガティブな気持ちになっていく。何とバカバカしい! 「人の悪口を言う」、「人が失敗すればいい」と思うことは、自分に呪いをかけているのと同じと聞いたことがある。悪口の主語を脳は理解できない。だから悪口を言えば、脳は自分に向けられたものと思う。そして、怒れば怒るほど自分を正しいと思い込むようになる。自分の正義がすべてだと思うようになる。 でも正義には制限がある。「決して人を傷つけてはいけない」 怒りが自分を正当化するのは、自分の心のクセかもしれない。だから同じことを何回も繰り返していた。 怒りは心に盛る毒だった。 毒はやがて身体を蝕む。冷静な判断もできない。何ひとついいことは無かった。 改めて見れば、自分が見ている世界は自分が作り出した世界だった。 だから、怒りを持って見ればすべては怒りの世界になる。 それでも、素敵なことをたくさん発見できた。 だから今日はこんなことを目指したい。 「誰かの日常にちょっとしたしあわせを・・・」。それも与えるのではなく「添える」 嫌なこともたくさんあった。 嫌なことに目を向けて批判することは否定しない。 でも素敵なこともあった。だからもっと素敵なことに目を向けたい。 嫌なことはこの先も無くならない。でも素敵なことも決して無くならない。 だったら、
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あまり反省しない方がいい

ある日の職場の出来事。 今日は人がいなくて忙しくてたまらない。次から次へとしなければいけないことがある。疲れてくると、ふっとと力が抜けることがある。さぼるわけではないが、「それはあとでいいや」と動きが鈍くなる。そんな時、この瞬間を見つけた上司が一言、「もっと考えて動いて・・・」。 そしてそのあともクドクド(?)小言が続きます。 私はその小言を聞いているような、いないような、いや、聞いていません。 小言の途中で「はい、わかりました」「気をつけます」と、繰り返しばかりです。 きっと上司はイライラしていたでしょう。 でも、私はもっとイライラしていました。 「あんたに言われたくない」「いつも手をぬいているくせに・・・」と、悪態をじっと隠していました。 少し冷静になれば、自分が間違っていたことがわかります。忙しくて、疲れて手をぬいていました。 こんな時、以前なら「こんなことではいけない」と反省し、仕事に取り組んでいました。大まじめに、「こんなことではいけない」「自分のこんな部分を直さなくては」と思い、常にポジティブに、ポジティブにと言い聞かせていました。 そして、イライラの原因を分析して、反省して、「もう、こんなことはないように」としていました。 でも本当に反省していたのか?・・・自分でもわかりません。 考えても自分で納得できる答えは見つかりませんでした。 「反省して行動を直す」 この言葉は間違っていませんが、私はあまりお勧めできません。 では、今はどうしているか。 注意されてイライラしたときは、「イライラしちゃいけない」とは思いません。ただ、「あっ、自分は今イライラしているな」と気づく
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生きたいと思う気持ちは、パズルのピースに似ている

ちょっとの気づきや生きたいと思う気持ち これはパズルのピース(一片)に似ている。 それぞれのピースは、形も大きさもばらばらで、隣り合わせに繋がるとも思えない。でもいつかはどこかでピッタリとはまる隙間が生まれるような気がする。 出来上がった「パズルの絵」は何だろうか?今はわからない。でも分かったとき、見えてきたとき、自分の人生が終わる気がする。 パズルは、もともと出来上がった絵を様々な形と大きさのピースに分断する。だから最初に誰かが書いた絵が存在する。 でも人生のパズルは、そこにどんな絵が描かれているか、最後までわからない。最終の絵を知っているのは神様だけかもしれない。だからおもしろい。 歳をとって分かったことといえば、何枚かのピースがつながってきたことだ。2枚つながったもの、3枚つながったもの、そしていまだにどこにもつながらない一枚のピースもある。一枚のピースにも意味を込めたらしい、綺麗な柄が施してある。この先何枚のピースがつながるか、どんな絵が見えてくるのか、命が尽きるまで楽しめる。 生きたいと思う気持ちがパズルのピース(一片)なら、千枚のピースがつながった「パズルの絵」は、探していた、私が生きる理由(目的)かもしれない。セミナー「ちょっとの気づきであなたが変わる」 より 軽やかに暮らす・本当に大切なものを思い出すとき ・好きなこと、やりたいことをする ・生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる ・生きたいと思う気持ち ・パズルのピース ・軽やかに暮らすとは
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生きたいと思う気持ち

ダーウィンの名言 「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである」 私たちは「生き残る」という言葉を何の抵抗もなく使っているが、「なぜ生き残らなければいけないのか?」という問いに明確に答えることはできない。「そんなの当たり前」と済ましてしまう。誰にも反論できない言葉だ。「生き残る」とは、常に環境の変化に対応するもので、「生きる目的」と言うような自発的なものとは違う。動物や植物は、それを淡々と行ってきた。 しかし「生きる目的」を求めても、どんどん深みにはまり、挙句意識の世界に入り込むことになる。現実と切り離された意識の世界に入り込むことは、もはやこの世に生き残っていない。 だから、今は「生きたいと思う」ことにしている。 「生きる目的」に辿り着けなくても、これで生き残ることができる。生きたいと思う理由(わけ)。 生き残るために食べるという本能的なものでなく、旨い肉を食べたい、甘いケーキを食べたい、そんな単純な欲を大切にしている。そして、そのときを楽しんでいる。 楽しさのパワーは自分の身体の中を駆け巡り、言葉を変え行動を変える。やがてそれは他人にも伝わる。 私はそんな人に助けられたことがある。 だから今、もし誰かを助けたいとしたら、まず自分を楽しませることから始めていただきたい。セミナー「ちょっとの気づきであなたが変わる」より 軽やかに暮らすために ・本当に大切なものを思い出すとき ・好きなこと、やりたいことをする ・生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる ・生きたいと思う気持ち ・パズルのピース ・軽やかに
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生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる

「ちょっとの気づきであなたが変わる」 より 軽やかに暮らすために ・本当に大切なものを思い出すとき ・好きなこと、やりたいことをする ・生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる ・生きたいと思う気持ち ・パズルのピース ・軽やかに暮らすとはある方が書いた文章です。「ひとに誇れるようなものは何もなくても、好きな料理を作るとか、美しい景色に触れるとか、好きなひとと手を繋いで眠るとか、それだけで充分に幸せを感じることはできるのだと思う。」 「生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる。温もりに触れたいと願う、その気持ちだけで充分なのだと思う。」二度の大病をして、毎日何かしらの文章をブログに書いて、大げさに言えば、私は生きる理由を探していたのかもしれない。時には探し当て、目に前の雲が晴れたように喜ぶ。次の日には、それが間違いではないかとまた悩む。そんな繰り返しだった。でもたまにこんな文章を読むとほっとする。「生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる」 生きる理由を突き詰めていくと、とても崇高な言葉を並べることになる。学びであるとか、自己肯定であるとか、生きがいであるとか、一瞬分かったような言葉を並べることになる。突き詰めれば突き詰めるほど短い言葉でまとめられたものなる。シンプルになる。しかし、そのひとつひとつの言葉の陰には、膨大な量のあこがれと後悔があった。対して「生きたいと思う理由」は、とても感覚的な体験だ。しかし、この感覚的な体験をしないと生きる理由にたどり着けない。私の生きたいと思う理由は何だろうか。 「書くことでひとに何かを伝えたい
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辛抱と我慢は違う、今は辛さを抱きしめて

【ちょとの気づきであなたは変わります】「辛抱と我慢は違う」 コロナの影響で不自由な今 、磯野貴理子さんのこのコメントが心に響く。「辛抱と我慢は違うんだよ。人間は我慢って言われちゃうと我が強い生き物だから出来ない。でも辛抱なら辛いことを抱き締めてればいい。それなら出来るでしょ!今は辛抱の時!」「辛抱って漢字で書くと『辛さを抱く』って書くの。だから辛抱しろっていうのは、つらさを抱きしめればいいのよ。ぎゅって。なんかできる感じがしない?辛抱って。」 石倉三郎さんの本から知った言葉だそうだ。心が締め付けられるけど、『辛さをぎゅっと抱きしめる』って言われると、何だか素敵なことと思えてしまう。自分が愛おしくなる。 「我慢」は、怒りや理不尽を覆う。 だから「辛抱して」と言っても、「我慢して」とは私は言わない。 何故なら、我慢が抑えつけるのは大きなエネルギーだ。怒りや他人に対する理不尽な気持ちだ。大きなエネルギーを押さえつけるには、歯を食いしばる、さらに大きなエネルギーが必要だ。 辛抱が抱く辛さは、か細く弱々しい。爪に火を灯すような今にも消えてしまう命のようだ。でも手を添えて風から守れば暖をとることができる。 「我慢」は他人を見て、「辛抱」は自分を見ている。 どうにもならない理不尽を凝視するより、いつも自分を大切にしたい。 こんな漢字の違いから行動を表現することができる。 面白いものだ。 そして、「辛いのは幸せになる途中」と、手帳に漢字を書きながら相手を励ました人がいた。「筆談ホステス」を書いた斎藤里恵さんの言葉だ。こうして考えていくと、辛抱が素敵に思えるから不思議だ。
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「べき論」からの解放

「水は天然水がいい」 「電子レンジは身体によくない」 「○○が身体にいい」 「朝活で意欲的に行動する」 これがいつの間にか、「○○すべき」「○○はよくない」に変わる。 「天然水しか飲まない」 「電子レンジは使わない」 「身体によくないものは一切食べない」 「向上心の高い人と付き合うべきだ」 「○○したい」から始めたことが、「○○すべき」に変わる。 でも困ったことに、旨いものは大概身体によくない。それでも「決めたことだから」と、自分と他人を縛っていく。「頑張れ」と自分を励ましていく。 でも、張りつめた糸はいつか切れる。 こんなことに気づいたら、「なれない自分」「だらしない自分」を認めてあげること。明らかにしてあきらめること。きっと周りにいる他人も同じような気持ちでいる。向上心がいつの間にか我慢大会に変わっている。 そこまでして、一体何を目指しているのか? 健康で長生きできる身体は確かに欲しい。でも病気に掛かることもなく過ごした過去は、当たり前の事実となって積み重なる。そこから感謝が生まれることはない。 「朝活」がブームとしてのファッションになっていないか? Facebookの写真は、その人の思いっきり着飾った姿であるのに、日常と勘違いし嫉妬感が生まれ他人になろうとする。 「○○したい」が「○○すべき」に変わった時、そこに本当の自分は存在しない。 始めることは必要。スタートが憧れであっても構わない。でも楽しくなくなったら、それは自分と合わないということだ。囚われから自分を解放させてあげればいい。
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赤塚不二夫の「これでいいのだ」

赤塚不二夫氏の告別式、タモリさんの弔辞の一文です。あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひと言で言い表しています。すなわち、“これでいいのだ”と。 見事な弔辞でした。これを白紙のメモで話したそうです。他人と比べて自分を追い詰めてもなるようにしかならない。だから苦しくなったら、美味しいものを食べてる姿を想像して自分から笑顔をつくる。その笑顔は誰に向けたものでもなく、自分を楽しませるものだ。 自分より優れていようが劣っていようが、目の前の人の話を聴いてみる。尊敬(リスペクト)ではなく尊重することが大切だ。合わない人がいれば適度の距離を置いて相手の縄張りを無理に侵さない。世の中の三割の人は私と合わないと分かっている。 人との出会いも仕事への情熱も不思議だ。勝手に誰かと居たいと思い、頼まれもしないのにやりたいことを探して頑張ろうとする。この世に生まれたからには何かしなければ、と信じ込んでいる。 でも不思議は不思議として楽しむ。あの世(スピリチュアル世界)に助けを求めずこの世を楽しむ。 「これでいいのだ」  生きる目的を探すことも必要。でも、今は生きたい理由があるだけで幸せだ。 こんなことに気づいたら、「なれない自分」「だらしない自分」を認めてあげること。明らかにしてあきらめること。きっと周りにいる他人も同じような気持ちでいる。そうでないとしたらその人は自分と合わないという
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自分の”ものがたり”を書き始める

消費されていくものが情報なら、“ものがたり”は魂にチューニングされる振動だ。 「どんな“ものがたり”に沿って生きているのか」自問しながら自分の“ものがたり”を書いていきたい。見つけた言葉から”ものがたり”を書き始めるhttps://coconala.com/blogs/91641地球のために、世界のためにと手を添えて大きな声で叫ばれる。 でも私は「誰も置き去りにしない」、この言葉が好きだ。 地球のために、世界のためにの前に・・・ この世には様々な世界が存在する。 現実、想像、空想、意識、バーチャル(アバター) すべてが同列と思えば現実逃避とはいわない。好きな世界で生きればいい。 何が何でも全部「自分で」自分のことをすることだけが自立じゃない。 できないなら誰かに「お願い」したらいい。 人は誰しも完璧な存在ではなく、完成形を目指すために生まれてきたわけじゃない。 人間はどちらかというと、物事を悪い方に考えるクセがある。 リスクを想定しておいた方が生き残りやすいためだ。 そう思えば、そのクセも捨てたもんじゃない。 すべての物は誕生し終焉を迎える。その循環が破綻したとき重大な環境問題が生じる。そしてひとつの物質の終焉を物質の死とすれば、すべてのものの無事な死こそが次の無事な時代を作り出す。「あなたのカッコイイとこが好き」よりも、「あなたカッコワルイけど好き」の方が大きな思いを感じる。 キライには理由があるけど、スキには理由がない。ああ・・・だからか 「困っている人を救う」のではなく、「困っていることを助ける」 勇気をもらう?貰うもんじゃない、勇気は自分の内から出すものだ。 あきらめる
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見つけた言葉から”ものがたり”を書き始める

ある日SNSで見つけた言葉が、点として残しておいたノートの文字とつながった。まだ細い線だけのものもある。面になって文章(ものがたり)になったものもある。そんな物語をコラムとして、エッセイにして書いてきた。でも今も点だけの言葉もある。そんな点の数々を集めてみた。 映画「MINAMATA」を見たときだった。 他人と自分を納得させる言葉を探しても見つからず それでも身体が震え出したとき、魂につながったと思えた長い階段を昇るとき、その階段のすべてが見えなくてもいいのです。 大事なのは、目の前にある一段を昇ることですM.L.キング牧師オリンピックをやるか、やらないか? 「純粋に出来るか出来ないか」を考える。それによって誰が儲けるとか考えると判断を間違う。他の誰かが利益を得ていても、私には関係ない。でも不利になる人は守らなければならない。墨色の空は空より青く、墨色の花は花より赤く・・・ 心に色が映らなければ、墨にも色は映りません。書家 篠田桃紅視線をやった先では、子ども達が壊れた三輪車で遊んでいる。 「こうして子ども達が笑っていられるのなら、そこが世界で一番幸せな場所なのよ」「魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい」 山口路子「オードリー・ヘップバーンの言葉」自分が「自分の心」と思っている空間は、自分の心の一部でしかない。 まだ知らない自分の心がある。その部分を書いていくのが小説やはり僕たちの国は残念だけれど、何か大切な処で道を間違えたようですね さだまさし「風に立つライオン」分かりやすさは暮らしやすさ 急普及したリモートワークは、“仮想世界への移動準備” シン人間史私が親しんでき
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私は、私のこころを攻撃しない

こういうブログを書いていると、何か完成している人に思われがちです。 でも全く完成されていない。 「完成された姿」におびえつつ、感性で生きているようなものです。 他人よりも多くのものを感じることもあるようです。 「そんなこと気にするな」と言われても、どうしても心の中に錆びたような嫌な感覚がいつまでも残ります。 他人の言葉や行動で嫌な思いをしたとき、いつまでも残る嫌な錆びたような思いは、他人の言葉や言動だけでなく、自分が反応した言葉や行動です。 「なんで、こんなことを言ってしまったのか」 「だからダメなんだ」 「いやだ」 「嫌いだ」 と、いつまでも後悔と嫌悪感が残ります。 そしてその後、必ず「私はまだまだ」と自己嫌悪に陥る。 この時、もう嫌な言葉や行動を起こした他人には関心はなく、自分のことばかり考えています。「人の振り見て我が振り直せ」と言えば立派に聞こえるが、実は自分のことしか考えていない。 他人に向けた嫌悪感が、いつの間にか自分だけに向けられている。 自分を攻撃している。 その攻撃の理由は、やっぱり、自分が一番大切、かわいいから。 でも、これらすべてを、自分の気持ちすべてを受け入れようと思う。 赦そうと思う。 私は完成された人間ではない。 それを隠さない。失敗も多いし、腹も立てば、人の悪口も言う。 でも、自分を攻撃した結果の自己嫌悪感は減らしていきたいと思う。 完全になくすことはなかなかできない。 でも、今日のように自分の自己嫌悪感を敏感に感じることはできる。 それが私の特長かもしれない。 自分で自分の心を攻撃しない 私は、私のこころを攻撃しない そして同時にすべきことは、他
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私のコーヒータイム

ホーローのコーヒーポットに七分目ほど水を入れてガスの火にかける。指先を温めようとポットに近づけ過ぎると、火傷しそうな痛さが一瞬走り、すぐに手を引っ込める。それでもこのお湯が沸くまでの時間、毎回同じことを繰り返している。 細い注ぎ口から白い湯気が出始めるとそろそろだ。熱い蓋を開けて沸騰を確かめてからガスの火を落とす。そして騒いだお湯が落ち着くのを少し待つ。 ポットの持ち手が熱くなっているからいつも濡れた布巾を使っている。プラスチックや木のカバーが付いたお洒落なポットも魅力だが、この台所にはシンプルなホワイトホーローが似合うと思う。 そして、珈琲をドリップする。一度目に豆を蒸らして、その後お湯を三回注いで2杯分をサーバーに落とす。ポットの注ぎ口に集中していると、黄金色の水滴がポタポタ落ちてサーバーの中が曇っていく。表面に黄金色に輝く泡が生まれる。反対の指をガラス越しに触れ、淹れたての珈琲の熱さを感じてみる。このとき漂う香りを嗅ぐことも忘れない。コーヒーを一日何杯飲むんだろう。 食事の後には、まず飲みたくなる。パソコンに向かっている時にもキーボードに触れる手を休めるようにちょくちょくコーヒーカップに手を伸ばす。 だから一日の杯数も多くなる。 最初は砂糖なしのインスタントコーヒーだった。たまにカフェラテに変わったが、飲みたくなったら電気ポットのお湯を使えばすぐに出来上がる。飲みたい気持ちをすぐに満たすことが出来た。そしてカップ片手にキーボードをそのまま叩いていた。 ところがどうだろう。ドリップで珈琲を淹れるという贅沢で無駄な時間をつくろうと思った。それも前振りもなく・・・。 今は「な
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自分が投影した他人の姿に怯えていた

人間は自分の弱い部分や願望を誰かに投影したり、憎んだりする。 安部さんは在任中、日本は強くあってほしいという願いの投影先だった。 その安部さんが病気を理由に辞任し、会見では国会で見せる居丈高な 振舞とは違い、謙虚に国民への感謝も述べていた。 同情が生まれ、国民にとって弱さも含めて映し出せる存在になった。 自分と同じ等身大の人間は否定しにくい。 (中日新聞 「精神科医・香山リカさんの味方」より)そして、こうも言っている。 「私自身、改憲などで安部さんに批判的な立場だったが、今はなんで あんなに恐れていたのかとも思う。強大な権力というイメージが辞任を きっかけに普通の人に変わった」 投影された人物像は、映画のスクリーンのように巨大化する。 姿が大きくなると同時に、自分の期待も憎悪も膨張していた。 相手の権威や邪な力を想像して、恐れて相手を巨大化していた。でも、現実の人物は大きさも変わらないし強くもない。 すべては受け手が感じ取ったものだ。 そう考えるとおもしろい。 今まで恐ろしいと思っていた「あの人」に対する恐怖も実は自分が創り出したものだった。他人に恐怖や威圧を感じることがある。 そんな時冷静に今日の発見を思い出したい。 自分の気持ちを整えることが出来る。 自分と同じ等身大の人間であることを思い出してみよう。新刊のご案内です。amazon    Kindle Unlimited
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人生はミルフィーユのようなもの

他人の不幸には泣ける、泣いていい。 しかし、自分の不運には受け止めて立ち向かっていくしかない。 逃げても逃げ切れるものじゃない。 だから、他人の不幸は自分が泣くために必要だ。 ここで我慢して泣かないと、いつか張りつめたこころの琴線は切れる。 他人事だからその時泣いても夜がくれば眠たくなるし、次の朝にはパンを食べたくなる。 誰も純粋に他人の不幸を共有できない。 これでいい。これだから生きていける。人はいつも自分と比較して、他人の不幸ばなしを聴いている。 聴いてる瞬間は自分の不幸から逃れられる。 だから、聴きたい不幸は自分より過酷な運命を選ぶ。 だから、世の中に「闘病話」が蔓延する。 でもそんな自分を赦そう。 そして、本当に辛くなったら笑って逃げ切る 過酷な運命に立ち向かった人を世の中は賛美するが 当の本人は果たしてどう思ったか 、亡くなった人に聞くことも出来ない。 立ち向かう勇気を否定しない 笑って逃げ切る狡さも否定しない 人生は、ミルフィーユのようなもの 勇気や狡さが何層にも重なっているその層の中には甘いクリームが入っていたり、所どころイチゴが挟まっていたりする。その色彩が人生を彩る。 軽やかに暮らすために生きる目的を探すことも必要。でも、今は生きたい理由があるだけで幸せだ。そんな軽やかに暮らすために集めたコラム。
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帆の向きは心の持ち方

ヨットは、風上に向けて45度の角度まで走ることが出来る。 真っすぐ風上には走れない。 風上に向けて走るためには、タッキングを繰り返し、進行方向に向かってジグザグに向かう。クローズドホールドで走らせる。 風下にはランニング走法を使う。スピードが乗るが安定しないこともある。 苦難を風上から吹いてくる風だとしたら、真向に対峙するのではなく、斜め45度のクローズドホールドをタッキングで繰り返し、ジグザグで立ち向かう。 こんな方法も考えた方がいい。 そして、後ろからの追い風はスピードが増してうれしいが不安定になる。 調子のいい時こそ注意が必要だ。 吹いてる風がまったく同じである船は東に行き、ある船は西に行く進路を決めるのは風ではない。帆の向きである人生の航海でその行き先を決めるのはなぎでもなければ嵐でもない心の持ち方である (エラ・ウィラー・ウィルコックス)風は自分でコントロールできない。 でも、帆の向きで行き先は決められる。 そして、強風の時は帆をたたんで休めばいい。 それは心を休める時かもしれない。顧客体験コミュニティが本になりました。 タイトル 「顧客体験コミュニティ」で気づいて「なりたい自分」になる Kindle版 (電子書籍) Kindle Unlimited 会員は追加料金なしで読み放題です。¥800 Kindle 価格
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本当に必要なものを思い出すとき

元々ひとりだった/運よくこの家族や恋人、友だちに出会った。 だから始めから失うものなんて何もなかった。  生まれたとき、大泣きする私を母が抱きかかえ、その周りでみんなが笑っていた。 死ぬときは、亡骸の私を皆が囲んで涙を流す。 だから今度は微笑んで逝きたい。  終わったことは、すべてベストチョイスだと思っている。  亡くなった人も「成仏」の言葉どおり仏に成って「すべて良し」と笑っている。  「これからどうなっていくのか」  「感染者が増えて経済も駄目になる」  そんなことはない。  個を充実させる人が増えれば、「ポストコロナ」の世界はバージョンアップする。また始めればいいだけだ。  本当に必要なものを思い出す時が来た。  時間をかけていい。ゆっくりでいい。 軽やかに暮らしたい。自分を楽しませる 他人を尊重する この世の不思議を味わう 色々言ってもこの三つで自分の人生は出来ていると思う。 他人と比べて自分を追い詰めてもなるようにしかならない。 だから苦しくなったら、美味しいものを食べて笑顔をつくる。 その笑顔は誰に向けたものでもなく、自分を楽しませるものだ。 自分より優れていようが、劣っていようが、目の前の人の話を聴いてみる。 尊敬ではなく尊重することが大切だ。 合わない人がいれば適度の距離を置いて、相手の縄張りを無理に侵さない。世の中の三割の人は私と合わない。 人との出会いも仕事への情熱も不思議だ。 勝手に誰かと居たいと思ったり、頼まれもしないのにやりたいことを探して頑張ろうとする。この世に生まれたからには何かしなければ、と信じ込んでいる。でも不思議は不思議として楽
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軽やかに暮らすとは

“軽やかに暮らす”とは、何も感じない、考えないことではない。 泣いて恨んで、失望して笑って・・・ それでも軽やかに歩くということだ。 私はそう思っている。 もう、自分を卑下しない。 他人を羨んで、「それでも」と変えれないことを探さない。 相手と自分を縛る無意味な期待をしない。 大切な人にはどこまでも味方する。 裏切られたことは忘れる。 この世の不思議な出会いを楽しむ。 面倒なことを淡々と行う。急ぐ理由は只の自分の思い込み。 変えるではなく、新しく加えると思う。 「しなければいけない」ではなく、「したい」と言う。 自分は間違うかもしれないと気楽に思う。 三割の人には嫌われてもいい。 生きる意味はわからなくても、生きたい理由はある。 美味しいものを食べて笑う。 何処に向かって歩くのかはわからない。 でも歩いているのが楽しい。 それだけでいいと思う。
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軽やかに暮らす

自分を楽しませる 他人を尊重する  この世の不思議を味わう  色々言ってもこの三つで自分の人生は出来てると思う。  他人と比べて自分を追い詰めてもなるようにしかならない。  苦しくなったら、美味しいものを食べてる姿を想像して 自分から笑顔をつくる。その笑顔は誰に向けたものでもなく、自分を楽しませるもの。  自分より優れていようが、劣っていようが、目の前の人の 話を聴いてみる。尊敬ではなく尊重することが大切だ。  合わない人がいれば適度の距離を置いて、相手の縄張りを無理に侵さない。世の中の三割の人は私と合わない。  人との出会いも仕事への情熱も不思議だ。  勝手に誰かと会いたいと思ったり、頼まれもしないのに やりたいことを探して頑張ろうとする。  だから不思議は不思議として楽しむ。  あの世に助けを求めずこの世を楽しむ。  こんなことを考えていたら、所ジョージさんの言葉を思い出した。  「軽やかに暮らす」  いい言葉だ。  生きる目的を探すことも必要 でも、今は生きたい理由があるだけで幸せだ。
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