絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む
有料ブログの投稿方法はこちら

すべてのカテゴリ

76 件中 1 - 60 件表示
カバー画像

🇯🇵 無法地帯化する『波動修正』の実態。

「なぜ、完全紹介性を解禁したのですか?」『波動』に関する施術が “無法地帯化” していることを知り、看過できないと感じたからです。目には見えない領域であることをいいことに、波動の法則 “らしきもの” を聞き齧っただけの術者が、ココナラをはじめとするヴァーチャル世界には多すぎます。だからこそ私は、ココナラの説明欄やブログ、拙著(『波動修正の不都合な真実』|Amazon独占出版)の中で、実際に長年、施術をやってきた者でないかぎり “知り得ない情報” を事細かに、図解を交えて、ご説明しております。たしかに、霊的エネルギーの領域ですから、地上界における言語で全てを説明することは不可能です。しかし、可能な限り “言葉で説明ができない” ということは、術者本人が理解していないということに他なりません。たとえば、波動修正(波動調整)に関する施術において「好転反応」に関する説明をしている方は大勢いますが、厳密には上記のように、今までとは違う “果実” を手に入れようと思ったら、相応の『対価』を支払わなければならない…という、絶対的公正な世の理(因果律)によるものです。他にも、波動修正を行うと「何故」現実が次第に変化していくのか?変化していく仕組みを知らなければ、適切な施術ができはずなどありません。無闇に「霊界」というワードを出すと、かえって信用できないと感じる方もいらっしゃるでしょうから、控えめにしておきますが、人間の大半は「目に見えるもの=お金・数字・肩書き」といったものに囚われすぎだからこそ、やれ「口コミが多い」「施術件数が多い」「経歴が長い」「芸能人・政治家の顧客が多い」といった言葉に踊
0
カバー画像

【開運】隠せなくなっている?怒りと憂鬱さの対処法

皆様、こんにちは!べリザと申します。ココナラでは、サイキック能力を活かして占い、リーディングをはじめ、エネルギー的な変容を促すセッションを行なっております。セッション後は何が変化するでしょう?あなたにとっての正しい情報や「気づき」が届けば嬉しく思います。特に、身体からの情報を受け取る事はどれだけの恩恵があるでしょう?べリザでは、専門コードを使用しながら身体にある鬱滞エネルギーの解放を様々な角度から行っています。霊的なものから、環境や、人からの想念、食事、骨格、チャクラその中でも、怒りの感情と、憂鬱さというのは交互に作用しております。職場や、学校、家族、恋人厄介なのは、身近な愛するような関連性に多くに歪みが見られることです。怒りの本質とは何でしょう?他者への怒りは、あなたに対する怒りも含まれるのです。葛藤、対立とは距離が近いと露骨に見えるかもしれません。それらのネジレが解放されれば、間違いなくあなたの現実と視える世界は変化します。もちろん、少なからず周りへの恩恵にも^^変化が激しい世の中でも、あなたの真の声や軸がブレずど真ん中にいるときでも、そうでもない時でさえもそこに近づいていると不思議な事に不快いでもありながらすっきりと明確さがあなたには戻ってきます。日々の生活に、あなたにとっての、より豊かさと安らぎを向かい入れることは、あなたの生命エネルギーを活性化させるでしょうか?それを配達することが宇宙の仕事だったとしたら?あなたは、それをもっと受け取りますか?難しく感じる時でも、あなたに余裕と安らぎと癒しと活力が増していきますよう!奪うことよりも受け取ることを^^日々、繋がりのある皆
0
カバー画像

言葉の因縁をクリアにする秘密のマントラ教えます ☆自分発信・他人発信関係なく自身が業を被らない秘儀☆

生きていると思ってもいなかったのについ口に出してしまってその結果相手を傷つけたり、激しい言い合いで他人に罵詈雑言を浴びせてしまったり誰かを批判したり煮えたぎるような思い、イライラが収まらず何時間も、時には幾日も誰かを恨んだり憎んだりして物々と言葉を発してしまっていることもあるでしょう。それらは「口業」と呼ばれ自分の周りに薄く暗い(通常は見えない)層となって覆いかぶさり自分自身がネガティブ吸収装置のように外を歩いているだけでネガティブな発言を耳にしたり目にしたり、また自分自身がそれらを被ってしまうこともあったり無意識の状態、また夢の中で自分自身が生んだネガティブな想念や発言に襲われるようなこともあります。通常これらのネガティビティはまいた種は刈り取る原理で自分で受け止めるしかないものなのですが実は自分が発した言葉や想念によるダメージだけを抜く秘密のマントラが存在します。なかなかこの秘儀を公開しなかった理由はこれを頼りにしていくらでもネガティブな発言をしていいしネガティブな思いをもっていいんだなと間違った方向に捉えられたくなかった思いがあります。今まで多くの技をご紹介してきた中でそろそろ公開してもいいだろうという思いで今回ご紹介させていただきます。この秘儀の凄いところはもう一つありそれは他人から受けるネガティブな発言や想念によるダメージ、その力も抜いてしまう所にあります。つまり自分発信、他人発信関係なく言葉や思いによるネガティビティを回避する願ってもないような秘儀となります。加害者、被害者共にクリアにするという面白い技です。思い当たる業がない場合も使うことをおすすめします。生きてい
0
カバー画像

あなたの魂の声を聴かせて欲しい☆第5チャクラ☆

遠隔ヒーリング& チャクラ調整スペシャリスト みのりです。 あなたは自分の意見を 周囲に言えていますか? 自分がどうしたいのか? 伝えられていますか? 自分の意見など言わず我慢する方が 上手くいく、そう思ってませんか? 周りの意見に同調した方が上手くいく、 そう思って流されていませんか? 反対されることを恐れて、 初めから黙ってしまうことはありませんか? 自分の創造やアイデア、ひらめきに 蓋をしてしまっていませんか? あなたの魂は、 そんなあなたを悔しく思っています。 そんなこと言われなくても、 集団の中で悔しい想いを あなた自身、 体験されたことがあるでしょう。 「あなたの奥に眠る 本当の声を聞かせてほしい」 あなたが発声する声を、1番に聞くのは あなた自身。 ネガティブな感情も、 ポジティブな感情も、発声してみると 意外な発見があるかもしれませんね。 あなた自身に感謝の気持ちを 声に出してみるのもオススメします。 もし、まだ言えない時は 胸のあたりを、20回 トントントンと 叩いてみてくださいね。 あなた自身が、 大切で愛しい存在 に思えてきませんか? あなたの「魂の声」を聞かせて欲しい。 第5チャクラは スロートチャクラと呼ばれ、 場所としては、喉に位置します。 第5チャクラは 主に表現やコミニケーション、学び等を 象徴するチャクラです。 対応する神経叢は、頚神経叢(けいしんけいそう)で、 神経は、口、喉、発声器官、肺、消化管、耳に伸びています。 そこで、酸素を取り入れ二酸化炭素を排出し、 声を出し・聞き情報交換をしています。 甲状腺が活性化することで、肉体的にも
0
カバー画像

あなたが素晴らしい5つの理由

こんにちは。ライフコーチ🌟やまさんです。今日は「あなたが素晴らしい理由」という観点で書いてみたいと思います。人は感情の動物と呼ばれますが感情の背景には理由がありますね。感情というエネルギーに対してどのように自分が捉えるかその選択は人に与えられた唯一の自由なのかもしれません。①疲れた「疲れた」は 頑張った証拠 限界まで頑張り 全力を尽くして 自分自身や他人のために 努力したからこそ そんなあなたは 素晴らしい ②失敗した「失敗した」は 挑戦した証拠 何もせず安全な場所に いるよりも 全力で挑戦し 何かを得るために リスクを取った証拠 みんなが失敗を怖がる中 不安を抱えながらも 挑戦を選んだあなたは素晴らしい ①緊張する「緊張する」は 本気の証拠 真剣にフルに組む時 自然と体は緊張し 心は焦る 人生の大切な場面で 重要なことに 集中しているあなたは 素晴らしい ④笑える「笑える」は 楽しんでいる証拠 人生を楽しんでいる あなたがいることで 周りの人々は 安心することができるそれを届けられている あなたは 素晴らしい ⑤怒る「怒る」は 真剣だった証拠 あなたはその事に 真摯に向き合い 全力を注いで いたからこそ 人生を大切に生きている あなたは 素晴らしい
0
カバー画像

相手に見つからずに法的効力のある証拠を集める方法

セクハラやパワハラ、いじめなどを証明する場合は確実な証拠を集めないといけません。Web上には録音しましょうなど難易度の高い方法しか記載がありません。録音は確実な証拠にはなりますが、機器を購入する費用もかかりますし何より相手にばれずに録音するのはかなり難易度が高いです。携帯をいじっているふりをして録音する?胸ポケットに録音機を入れて録音する?録音が失敗したからもう一度やる?やれる?どう考えても難しく、何より録音するという行為自体が被害者の心の負担になります。いじめなど学校関係の問題の場合、そもそも携帯をいじるという行為自体が禁止されている場合が多いので不可能に近いです。そんな負担の大きな行動をしなくてもあることをするだけで裁判にも通用する法的証拠を集められます。これはわたしが実際に体験し、顧問弁護士と顧問社労士に教えてもらった方法です。つい最近も子供が小学1年生の時に一緒に通っている子に暴言などを言われいたらしく一緒に行きたくないと言い始めて先方と揉めたことがありました。この時も顧問弁護士などに教えてもらった方法で解決し相手の親も非を認めて、子供に厳しく接してしまいストレスをため込んだ子がうちの子に八つ当たりをしていたといことまで判明し今では、親が反省したせいか、その子も素直で明るい子になりました。人間関係の問題を解決するには相手に隙を見せないことと、言い返せない確実性のある証拠があれば意外とすんなり解決することもあります。わたしの商品の問題解決のノウハウには証拠集めの段階から問題を発覚させ、相手に反省をさせる又は手出しできないようにする段階までの内容となっております。証拠さえ持
0
カバー画像

「ビックリが起きたので電話しました!」

ココナラで電話相談をしております、保健室まるみです。リピーター様からすっごくうれしいご報告のお電話を頂いたものですから、もう嬉し過ぎて「ブログに書いても良いですか?」ってうかがったら、「どうぞ!むしろ光栄です!」と言って頂けまして、今興奮して綴っております。***Aさん(ご相談者様)には以前から職場で嫌がらせを受けている件についてご相談を受けておりました。私は基本的にその苦悩をおうかがいするくらいしか出来ず、ストレスを吐き出して頂きながら、唯一対策めいたこととして、「自分をねぎらって下さいね」とお伝えしていました。「自分をねぎらう」というのは、「私こんな嫌なことされても仕事を休んだりせずに、ほんとよく頑張ってるなぁ、偉いよ私」とか、「こんなにひどいことされても私は仕返しをしないし、仕事は一生懸命やっている。私ってほんと立派、スゴイわ」などと心の中で自分に声をかけるということです。自分の頑張りを心の中で「よく頑張っているね」と認めてねぎらうんです。(ねぎらうを辞書でひくと「労苦や骨折りを慰め感謝する」とあります)「褒める」に近いんですが、褒めるだと、何か結果や成果みたいなものを出していないと褒められませんっていう方が多いので、目に見える成果みたいなのが無くても良い「ねぎらい」を私は重視しています。***Aさんが私のその提案を地道に実行して下さって3ヶ月、なんと、Aさんに嫌がらせをしていた2人が、異動でAさんの職場から居なくなったらしいのです!この2人は絶対異動しないとされていた人だったのに、謎の異動らしいのです!Aさんはそれだけでもメチャクチャビックリしたらしいのですが、その他に
0
カバー画像

問題は幸せになるための気付きのサイン その理由

抱えている問題と解決のいとぐちとなる根本原因を見つける 1今抱えている問題にはそうなっただけの原因が必ず過去にあります。原因があるから結果として今、問題が起きています。因果応報友いわれています。今回は実例として抱えている問題の根本原因についてをご紹介したいと思います。実例 恋愛 いつも出会う相手は既婚者か恋人がいるご相談者にはそれまでに何人かの恋人がいました。いつも男性から近づいてきて交際が始まりました。そして毎回独身だと思っていたら実は結婚していた。今度は独身と思っていたら他に恋人が既にいたなど、必ず常に三角関係、自分が相手の男性にとって2番目に知り合った女性でした。そして毎回辛い思いをして別れていました。意外なところにある根本原因ご相談していたときにご両親とのことを聞きましたら、ご相談者は突然あることを思い出しました。小さいときに父親に愛人がいたことを父親から直接聞かされました。離婚したら自分と一緒に来るかと尋ねられ「行く」と応えました。ただ結局、父親はその愛人と別れて母親と家族のもとに戻ってきました。幼い心にしっかりと愛人2番目の女性を認め、父親=男性に愛人がいることを認めていたのです。そして男性は最初の女性のところに戻るということを無意識に認識していたのです。この思考はご相談者の潜在意識に深く入り込み、根付いていました。潜在意識の思考は必ず実現しますので、その後恋人となった男性にはいつも他に女性がいることになり、元の女性のところに去って行くか両方とも別れてしまうかでした。すべての時代の自分から今もっている思考を開放するそしてご相談者に今までの考え方、生き方をいつまで続け
0
カバー画像

長生きの保証書ない

 「浄土真宗ってどういう教えですか?」と尋ねられたら、「それはお浄土の真(まこと)を宗(むね)とすることです」と答えます。私のいのちが、人生が、お浄土の真に貫かれているということです。お浄土とは、私がこの限りあるいのちを生き切る依りどころ、支えです。  ところが、私たちの現状はどうかといえば、お浄土が生きることとは無関係なところに切り離されて、死後の世界に追いやられてしまっているように感じます。ですから、60歳や70歳になった方にお寺参りを勧めても、「私にはまだ早いから、当分お参りする気はありません」と言われます。80歳、90歳まで生きられて当然、死後のことなど考える暇があったら、いかに楽しく生きるかを考える方が利口と言わんばかりです。  ちまたでは、いわゆる「平均寿命」なる数字が幅を利かし、あたかも80歳までは生きられるかのように考える人も多いようですが、私は誰からもそんな保証書はもらっていません。私だけでなく、誰一人としてそんな保証はしてもらっていないはずです。  確かに、100歳まで生きる人は年々増えているのかも知れません。しかし、平均寿命に至らずに終わるいのちもたくさんあります。病気が縁で終わる若いいのちもあれば、不慮の事故が縁で終わる幼いいのちもあります。いのちの事実は「老少不定(ろうしょうふじょう)」。老いた者から順番にいのちが終わるのではないのです。  そう言うと、「そんなこと言われなくてもわかっているさ」と言われるかも知れません。しかし、頭ではわかっているつもりでも、私たちの心と体はなかなか理解しようとはしません。だから、大切な人を失った時には、私たちは平静を保
0
カバー画像

西に沈む夕日を眺め

 私の今の楽しみの一つは、2人の子どもと本堂でお夕事(ゆうじ)のお参りをすることです。子どもたちが見たいテレビ番組などがあると、なかなか素直についてきませんが、子どもたちには、親である私が、阿弥陀さまのことを大切にして、お参りをする姿をできるだけ見せておきたいと思っています。  本当に大切なことは、後ろ姿を通して伝わっていくのではないかと思います。阿弥陀さまに手を合わせることもそうです。おじいちゃんやおばあちゃん、父親や母親、そして周りの大人たちが阿弥陀さまに手を合わせる姿を子どもたちが見て、またその子も手を合わせる人として育っていきます。 私自身も、かつて祖父と一緒にお参りをしたその後ろ姿が、心に強く残っています。  中学生の頃、私はサッカー部に所属していましたので、日頃は帰宅が遅かったのですが、定期試験前など部活動が休みのときは早く家に帰っていました。そういう時は、夕方になると決まって祖父が「おーい、おつとめやぞー」と呼びに来ました。私は祖父の後について、まず本堂で正信偈をおつとめし、続いて会館の2階の仏間でおつとめをします。そしてその後、天気のよい日には、祖父は決まって会館の2階の窓から西に沈む夕陽を眺めていました。  私の住んでいる地域は夕焼けが大変きれいなところで、「砥山夕照(とやませきしょう)」と呼ばれ、栗太八景の一つにも数えられています。周りをぐるっと山に囲まれているのですが、ちょうど西の方角だけ山が切れていて、天気がよければ、お夕事の時間帯に本当にきれいな夕焼けが見えます。そういう時、祖父は西の方に向かってじっと手を合わせて、なかなか動こうとしませんでした。  
0
カバー画像

幻の完全試合

 2010年6月、大リーグ・デトロイトタイガースのアルマンド・ガララーガ投手は、9回ツーアウトまでパーフェクトピッチングを続けていました。27人目の打者が打った一、二塁間へのゴロを一塁手が捕球し、ベースカバーに入ったガララーガに送球しました。塁審はセーフのジャッジを下し、それに対してタイガースの選手たちは大いに抗議し球場全体も騒然となりましたが、判定は覆(くつがえ)りません。  試合終了後、ビデオ再生を見たこの塁審は明らかに自分のミスジャッジであると認め、すぐさまガララーガ投手に詫(わ)びました。審判のミスジャッジによって大リーグ史上21番目のパーフェクトゲーム達成投手になれなかったのですから、ガララーガ投手の無念さは想像に余りあるものがあります。  ところが彼は、「たぶん僕よりも彼のほうがつらい思いをしているだろう」と反対に気遣い、心から詫びるこの審判を「完全な人間なんていないのだから」と言って、寛容な態度で許したのです。  唐突なようですが、このニュースを聞いて私は、聖徳太子の「憲法十七条」の第十条の言葉を思い出しました。  「われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚(おろ)かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」 日本に仏教を受け入れて、仏教精神にもとづく社会のあり方を目指されたのが聖徳太子でした。もちろんガララーガ投手が聖徳太子や「憲法十七条」を知っていたはずはありませんし、彼の示した態度を仏教精神に裏付けられたものというつもりもありません。ただ世の東西を問わず、人は自分の非はなかなか素直に認めようとせず、逆に自分への不利益に対しては怒りや報復
0
カバー画像

生老病死の四苦

 お釈迦さまは「人生は苦である」として、「生(しょう)・老・病・死」の四苦(しく)を示されました。確かに、生まれたからには誰しも、老・病・死を背負って生きていかなければなりません。  若い時には平気だったのに、体力が続かないなど、日常のふとした時に自分の老化を痛感することがありますが、そんな時は「本当に年はとりたくないもんだ・・・」と誰もが思うことでしょう。  病気もそうです。誰だって病気になんかなりたくありません。でも、病気になってしまったら引き受けるしかありません。それなのに、なんで私がこんなことになったのか・・・と思い悩んでしまいます。  昨年のことです。突然、腰に痛みを感じました。お酒の席でしたので、友人が「飲めば治る」というので飲み続けたところ、痛みが消えたのです。「本当に治った」と喜んだのですが、次の朝は痛みで目が覚め、動けないほどになり、お世話になっているカイロプラクティックの先生にみてもらいました。  先生は首から肩、腰とマッサージをして、「老化かな」と言ってお腹(なか)を手で診察された時、「あっ」と言われたのです。「何ですか」と聞くと、「いや、何でもありません」と言われましたが気になります。おかげで痛みは和らぎましたが、気になったせいでしょうか、帰宅する車の中でまた痛み出しました。  今度は友人のところで電気治療をしてもらい、湿布をたくさんはってもらいました。帰り際に友人が薬をくれたので、飲んでから帰りました。  家に着いて、横になって休んでいると、妻が「この薬を飲むと、痛くないの?」と尋ねるのです。「痛くないよ」と答えると、妻は「おかしいね、これは化膿止めよ
0
カバー画像

自分を知ってる?

 私たちは、自分のことは自分が最もよく知っているつもりで暮らしているのではないでしょうか。ところが、案外、そうでもないことに気付かされたクイズがあります。簡単なものですので、ぜひ、挑戦していただきたいと思います。こんなクイズです。 ◇ <問題>父と息子がドライブに出かけました。ところが、事故に遭(あ)ってしまい、二人はそれぞれ別の病院に運ばれました。 息子が病院に到着すると、待っていた外科医が出てきて叫びました。 「これは私の息子!」 病院に運ばれてきた息子と、外科医とはどのような関係でしょうか。 ◇  答えは出ましたでしょうか。 息子のことを「私の息子!」と呼ぶ人は父か母です。お父さんはここにいませんから、外科医は運ばれてきた息子の母親になります。息子と外科医の関係は母子だというのが正解です。お母さんが外科医として勤務する病院に、たまたま息子さんが運ばれたのでした。  私はこのクイズに答えることができませんでした。なぜかと考えていきますと、「外科医と言えば男性」という誤った思い込みが原因でした。試(こころ)みに問題文の「外科医」を「看護師」に置き換えると、間髪入れずに正解できそうです。  もちろん、私も女性の外科医がおられることは知っていました。けれども、その知識は役立ちませんでした。つまり、このクイズでは、知識の有無ではなく、私の愚かさ、すなわち誤った思い込みに自分の力では気付くことができないことが問題にされているのです。 仏かねてしろしめして  私はこのクイズに出あうまで、自分の物事の見方がこんなに危ういものであるとは考えもしませんでした。  私がクイズに答えられなかった
0
カバー画像

爆心280メートルで被爆

 8月6日、ヒロシマは79回目の朝を迎えました。私は爆心から280メートルの勤務先で被爆しました。19歳でした。奇跡的に一命は取り留めましたが、骨髄性異形症候群という難病のため、新しい血液があまり作れず、いま生きているのが不思議なくらいです。  あの時、即死された多くの遺体を見て私も覚悟しましたが、おかげさまで生かしていただいています。しかし、何も知らず、何も言えずに亡くなった多くの人たちがいます。どうか、二度と戦争のない平和な世の中を築いていってほしいと思います。  以前、NHKで朗読されました。 「原爆を知らない 幼い人たちに」 その時昭和20年8月6日 午前8時15分 とてもよく晴れた朝でした 赤ちゃんのミルクをつくっていたお母さん 植木に水をやっていたおじいさん 仏さまにお花をあげていたおばあさん ごはんを食べていた坊や 会社に出てこれから仕事をしようとしていたお父さん そして仕事にゆくために道を歩いていたたくさんの人 みんな死んだのです 原爆を落とされることなど何も知らないで いつものように用事をしていたのに 突然「ピカッ」と光って 「アッ」と気がつくまもなく 家の中にいた人は家ごと押しつぶされ 道を歩いていた人は吹き飛ばされ 顔も手も足もからだ中 ヤケドをして広島中の人がみなヤラれてしまったのです たったひとつの原爆で その時死んだ人 百人?いいえ千人?いいえ一万人? いいえもっともっとたくさんの人 かぞえきれないほどの人が なんにも言えないで なんにも知らないで 死んでしまったのです ほかの人も大ヤケドをしました大ケガもしました 投げ出されておなかのやぶれた人 背
0
カバー画像

初めての出あい

 本願寺派のお寺がなかった愛知県刈谷市で布教所を開き、都市開教専従員として法務に勤(いそ)しんでいます。都市開教における法務の特徴を一つ挙(あ)げますと、「初めての出会いがその方の葬儀」ということでしょうか。  長崎県の地方都市で法務をしていた頃、寺院周辺の家庭のほとんどは本願寺派のご門徒で、それぞれの家庭で亡くなる方がおられたら、顔見知りであるのが当たり前のことでした。  顔見知りのお宅へ臨終勤行(りんじゅうごんぎょう)に訪れ、顔見知りの葬儀社のスタッフと打ち合わせをして、顔見知りのご遺族と故人の思い出を語り合うのが常でした。  長く門徒総代を務めていた方が亡くなられた時、臨終勤行に参らせていただきました。ご遺族と一緒に読経をさせていただきながら、報恩講やお彼岸の荘厳(しょうごん)(お飾(かざ)り)を一緒にしたことを思い出すと涙がこぼれて止まらず、困った覚えがあります。  おつとめを終えてご遺族やご近所の皆さんの方へ向き直ると、故人の長男さんが同様に涙をこぼしながらバツが悪そうに笑っておられました。  「家での親父は頑固でうるさいばかりで、お坊さんが泣いて惜しんでくれるような男でしたかなぁ・・・」  僧侶が泣いてしまうのはいかがかと思いますが、忘れ難い記憶として大切にしています。私の命が尽きるまで、何度も思い返すことでしょう。お寺とそれを護持されるご門徒が、代々にわたって関係性を築いてきたからこそ、故人お一人おひとりの話題やご遺族との絆が育まれていくのでしょう。  ところが、私が都市開教を行う愛知県下、特に都市部においては事情が異なります。本願寺派の盛んな地域、北陸・中国・九
0
カバー画像

命がけで仏法を

 「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遇(あ)い値(お)うこと難(かた)し。我今(われいま)見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実義(しんじつぎ)を解(げ)したてまつらん」京都の中央仏教学院に出講した時の話です。学院の教室では毎朝第1講時の開始前に、講師・学生全員が起立合掌してこの言葉を唱和します。「開講偈(かいこうのげ)」と呼ばれています。遇い難き仏法に出遇えたことをよろこび、命がけで仏法を学ぶ決意を表明する言葉です。布袍・輪袈裟(ふほう・わげさ)に身を包み、「開講偈」を唱える学生たちの姿に初めて接したとき、私は背中を打たれたような衝撃を感じました。 多くは大学を卒業した後、自坊の住職になるために入学された方々ですが、中には定年退職後の人生の依りどころを求めて来られた方、ご住職を亡くされ法灯(ほうとう)を守るために来られた坊守さまや中学を卒業したばかりの若い寺院後継者、さまざまな事情を抱え仏法に救いを求めに来られた方もいらっしゃいます。命がけで仏法を学ぶ人たちに、私は命をかけて講義ができているだろうかと、ふと思うことがあります。  源信僧都(げんしんそうず)の『往生要集』に、逃げ遅れたキツネの話が紹介されています。人道無常(にんどうむじょう)の相を説く一段に、死苦の恐ろしさを知らせるために提示された譬え話です。源信僧都はその文を天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』から引用されていますが、キツネの譬喩は、もとは『大智度論(だいちどろん)』に説かれたものです。 物語風に
0
カバー画像

ひざの上が定位置に

 大切な人を失うと、いくら時間が経っても、遺(のこ)された家族には悲しみや苦しみが大きくのしかかってきます。人生は喜びや楽しみよりも、苦しみや悲しみに直面することの方が多いのではないでしょうか。  お釈迦さまの説かれた教えに「四苦八苦」があります。その中に、愛するものと別れる苦しみ「愛別離苦(あいべつりく)」があります。親鸞聖人の尊敬された七高僧のお一人・中国の善導(ぜんどう)大師も「五苦(ごく)」と顕(あらわ)され、第三代覚如上人の『口伝鈔(くでんしょう)』には、「愛別離苦、これもつとも切なり」と記され、愛するものと別れる苦しみは、さまざまな苦しみの中でも特にきびしいものであると示されています。  私自身も、愛する者と別れる苦しみを経験しました。それは母方の祖母との別れでした。祖母は大柄で、いつも笑顔で、優しく、温かい人でした。私が祖父母の家で両親に怒られると、泣いたり怒ったりした私を、祖母はいつも慰めてくれました。ですので、心安らげた祖母の膝(ひざ)の上がいつも定位置となりました。  祖母とは、学校の休みごとにしか会わなかったのですが、いつも、どんな時でも「ナンマンダブナンマンダブ」と称えていたそうです。 共にお念仏申す  そんな祖母は、毎日決まって夕方の5時になると、祖父と共に仏間で正信偈をおつとめしていました。そして、おつとめが終わったあとも、一人でお念仏を称えていたことを今でも覚えています。  そんな祖母が、体調を崩したのは10年ほど前のことでした。糖尿病になり、目が見えなくなりました。次々に病気にかかり、大柄だった身体もとても小さくなっていきました。  そして、私が
0
カバー画像

阿弥陀さまを大事に

 「あなたにだけあげる」  心に残っているお同行(どうぎょう)の言葉です。  小学校低学年の頃の私は、自坊でお座があるのを待ちに待っていました。いつもご法座があると、私の好きなお菓子を袋に入れてお参りに来られるT子さんというお同行がいたからです。  T子さんはお寺にお参りになられると、本堂にあがる前に必ず家の玄関に来られます。そのT子さんの声が聞こえると、お菓子欲しさに一目散に走っていく私がいました。私の姿を見つけると、ニコニコしながらおいでおいでと呼んでくれます。  「これ、あなたにだけあげる」  と言ってお菓子の入った袋をカバンから取り出すのです。その袋を受け取ると同時に、T子さんは私の手をパッと握ってきます。袋の中身をすぐに見たい私がその手を振り払おうとすると、今度は両手でギュッと握って離してくれません。  「阿弥陀さま大事にしてね。お寺に参ってね」  T子さんの顔を見ると、ドキッとするような優しくも真剣な表情が私へ向けられているのです。「うん、わかった」と応えるまで握り続けるその手の温もりは今も心に残っています。 だひたすらに  昨年の10月のことでした。富山のお寺に嫁いでいる姉のご縁で、報恩講のご法話によせていただいた時のことです。いつもお念仏をよろこんでおられたT子さんの話になったのです。  「T子さんかあ。懐かしいなあ。いつも明るくて、ニコニコしてたおばあちゃんで・・・。そういえば、お寺に来られたらいつもお菓子くれてたよね」  「あれ??」と私は一瞬思いました。私にだけあげると言っていたはずでは?と思ったのです。  家に帰ってからもう一人の姉にT子さんのことを聞い
0
カバー画像

親子で猛特訓

 「這(は)えば立て立てば歩めの親心」。子の成長を目を細めてあたたかく見守っているやさしい親心が表されています。しかし、あるご法話で、「這えば立て立てば歩めの親のエゴ」と聞かせていただいたことで、少し見方がかわりました。  息子の入園式を前に、先生から「お子さんのお名前を呼びますので、呼ばれた人はハイと大きな返事をして立ち上がってくださいね」と言われました。早速、家で猛特訓が始まりました。 「先生に呼ばれたらどうすんの?」 「知らん」 「違うやろ。はーいって大きな返事するんやろ。よし、練習や。藤本慶哉くん」 「・・・」 「慶哉くん」 「・・・はい・・・」 「よっしゃー、やればできる。返事したらどうすんの」 「知らん」 「立つんやろ」  まぁ、そんなやり取りで特訓した結果、なんとかできるようになったのです。  さて、入園式当日。先生が名前を呼び始めました。「はい」と力強く返事をして、すくっと立つお子さんがおられます。すると保護者の方でしょうか。「よくやった。えらい」と大きな声をあげて会場に響き渡るような拍手。一方で、恥ずかしそうにもじもじして返事ができないお子さんがいらっしゃいます。「もーうちの子は・・・」と恥ずかしそうにしている親御(おやご)さん。いよいよ息子の番です。  「藤本慶哉くん・・・・・・藤本慶哉くーん・・・・・・」  わが子は何をしているかといえば、椅子に後ろ向きに座って、先生にお尻をむけ、そ知らぬ顔ですましています。  「あーやりよった。あれだけ練習したのに」  私は恥ずかしくなって、悔しくなって、帰ったら怒ってやろうと思いました。 お念仏をいただく  入園式も終
0
カバー画像

姪のケーキを作る

 昨年11月、妹の長女が3歳の誕生日を迎えるにあたり、家族全員でお祝いすることになりました。そこで、母が私の連れ合いに、誕生日ケーキを作るように頼みました。  なぜ、妹の長女の誕生日ケーキを私の連れ合いが作ることになるのかといいますと、私たちの娘が小麦アレルギーを持っていたからです。小麦粉が少量でも体内に入ってしまうと体中にかゆみが走り、顔を含めた全身がはれ上がるような状況でした。  店頭に並んでいるケーキは、基本的に小麦粉が使われています。それを買ってきたのでは、一人ケーキを食べることができない子が出てきます。それが、私たちの娘だったのです。  最近は小麦アレルギーで悩んでいる方が増えてきたようで、スーパーなどでも小麦粉に代わる米粉を置いてくださる所が増えてきました。そこで母は私たちの娘のことを一番理解している連れ合いに、アレルギーの出ない食材を使った、娘も食べることのできるケーキを作るように頼んだのです。  早速、連れ合いはスーパーに行き、娘に合わせ米粉を含めたアレルギーの出ない食材を探し、子どもたちが喜ぶようにと、果物などを買ってきてケーキを作りました。 条件などつけない  その晩、子どもたちが大喜びで、おいしそうにケーキを仲良く食べている姿を見た時、私も心からうれしくなりました。  この日の誕生日会では、たとえ主役であっても、妹の長女の好みだけに合わせてしまったのでは、娘はケーキを食べることができず、楽しい会にはならなかったでしょう。  どうすればみんながケーキを食べて、楽しい雰囲気のまま会を終えることができるのか?それは、アレルギーのある娘に合わせることでした。  相
0
カバー画像

初参式は誰のため

 先日、生後4カ月になった息子の初参式(しょさんしき)のため、お世話になっているお寺に参りました。  初参式は、新たな命の誕生をよろこび、初めて阿弥陀さまにご挨拶をさせていただく大切な儀式です。私たち夫婦と、それぞれの両親も一緒に、家族総出で息子と阿弥陀さまのご縁を喜びました。  しかし、考えてみると、生後4カ月の息子は、おつとめができるわけでもありませんし、ご法話がわかるわけでもありません。阿弥陀さまという仏さまのこともよくわからないでしょう。わけがわからないまま連れてこられて、周りの大人が騒がしくしているなあ、くらいにしか思っていないかもしれません。  そんな息子にとって、この初参式は「お寺へのお参り」であったり「聞法(もんぼう)」であると言えるのだろうか?そんな疑問が後になってふとわいてきたのです。  そう思った時、初参式の時のご住職のご法話を思い出しました。  「初参式は、赤ちゃんが初めてお参りに行くことを祝う儀式ですが、その赤ちゃんのお母さんも、お父さんも、その子が生まれた時に親として生まれました。ですから、この子が4カ月生きたなら、この子の親も生後4カ月の親なのです」  確かに、私たちはこの子が生まれた時に、初めてこの子のお母さん・お父さんとしてスタートしたのです。生後4カ月の子の親である私たちは、生後4カ月のお母さん・お父さんというわけです。  「この初参式は、息子のための儀式だ」と思っていましたが、実は、親として生まれた私たちにとっても〝初参式〟だったのだなと知らされたのでした。 私のためのご縁  初参式は、息子を縁としておつとめする家族みんなのための初参式でし
0
カバー画像

忘れられないひとみ

 銀座の一角にある画廊に「僧職ナイト」という、仕事帰りの会社員や学生たちと僧侶が語り合う場があります。仏教や浄土真宗のこと、日常生活の出来事から悩み事の相談まで、仏教とご縁がない方々と私たち僧侶が気軽に語り合っています。  悩みの相談で多いのは、家族や友人、上司と部下など、やはり人間関係の問題でしょう。そんな悩みを聞いて私がいつも感じるのは、状況は人それぞれですが、根源的な問題として横たわる、人と人との間にいつの間にかできてしまう「壁」という存在のことです。  数年前になりますが、国際協力活動を行うNGO団体の研修で中東パレスチナ自治区を訪れました。首都エルサレムは、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地がある宗教都市です。訪れてまず驚いたのは、辺りを張り巡らす高さ8メートルの巨大なコンクリートの「壁」でした。  1948年、ユダヤ人がイスラエルを建国し、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人との間に紛争が起こります。イスラエルの安全を守るという理由でこの壁は造成されました。壁は決められた境界線を大きくまたぎパレスチナ側の道路や学校、家の中までをも分断しています。そして何よりも二つの民族の心を分断しているのです。  ある者にとって必要であっても、他の者の平穏な生活を破壊する壁には違いありません。迫る巨大な壁を前に、他者を犠牲にしても自らの利益を追い求める人間の心の欲深さを見るような思いがしました。  そんな状況下でも、輝いていた子どもたちの目が忘れられません。ある難民キャンプを訪れ、楽しく遊び仲良くなった少年に質問されました。  「あなたの名前は何ですか?」  私が答え、少年の
0
カバー画像

まさに無常(あるお坊さんの話)

 今夏、父がその一期(いちご)を終えました。長年、雅楽に親しんできた父は、8月上旬に久しぶりに舞楽を舞ったばかりでした。お盆の時も、住職として多くのご門徒と本堂でお話をさせていただいておりました。ところが、お盆明けに突然体調不良を訴え入院し、8月末に急逝しました。まさに無常を具現するような出来事でした。  通夜や葬儀の準備をしながら、まったく理解できないことの中で自分がいる、という、とても奇妙な気持ちでいました。父の死への悲しみも封印されたままでした。あまりにも突然すぎて、あっけなさすぎて、本来自然に湧き出るはずの感情すら、反応に困っている状態でした。  父や私が所属する雅楽会では、会員の通夜の席で、献楽するならわしになっています。演奏する曲は、父が一番得意としていた舞楽の曲をお願いしました。しかし、献楽の間近になって「これは失敗したかな」と思い始めました。その曲がきっかけになって感情があふれ出て、涙が止まらなくなって献楽後のご挨拶ができなくなったらどうしよう、と思ったのです。  そんな思いを巡らせているうちに、たくさんの方による演奏が始まりました。最初ははらはらしていたのですが、不思議なことに、雅楽の音の中から、笑顔で語り掛ける父の声が自然に聞こえたような気がしました。  「突然いなくなって、お前たちと一緒におれなくなったのは残念やけど、わしのことは悲しむ必要はないよ。お浄土に生まれさせてもろたから・・・。死んだ後も全然つらくないし、むしろ、この雅楽の音のように清らかでええところや・・・」  この声が聞こえてから、凍てついていた私の心は次第に解けほぐれて、涙が出るどころか、不
0
カバー画像

終活〟をはじめる、手紙…

 ご院主さん聞いとくなはれ。ちょっと手紙を書かせてもらいます。私は今年77歳の喜寿を迎えました。なんとなく体がしんどくて、気になって早々と病院へ行きました。お医者さんがおっしゃいました。  「どこも悪いとこありません。としのせいでしょう」。そうです、加齢のためです。私は後期高齢者に分類されております。  平均寿命まではまだ何年かあるはずですが、日をまちがえます、時間をまちがえます。外出時には、カギをかけたやろか、電気消したやろか、仏だんのローソクの灯はどうやったろうか、と必ず一度は家へもどります。テレビみてましても、健康のために、長生きのためにと、サプリメントの広告が不安をあおりますし、市からは〝無料で検査をしてやるから病院へ〟と催促の案内がとどきます。  眠りは浅いし、夜中には2回も3回も便所へ行かんならんし、小学校の同窓会も3年に1回やったんが、5年前から「毎年しよう」ということになったんです。それでも参加者はへりつづけ、ついこのあいだなんかはまるで達者じまんみたいで、ああ同窓会もこれで終わりやなあと思いました。昨日の気力・体力が今日はないんです。  そんなこんなで、私もついに人生の終わりにむけての準備活動、つまりいま世間で言われる〝終活〟をはじめようと決心したのです。  現代は〝無縁社会〟やと言われ、そこへ〝孤独死〟やの、家族でのうて〝孤族〟やと追いうちをかけられ、いや恥ずかしいことですが、もっと早うに、若いときにしっかりと聴聞させていただいてたら、とご院主さんすまんことです。  息子夫婦も孫も、遠くに離れて住んでます。ですから、いま家ではばあさん、いや嫁さんと二人ぐらし
0
カバー画像

お仏飯で育つ

 先日、あるお宅で報恩講のおつとめをした時のことでした。お茶をいただきながら話をしていますと、そのお宅のご年配の女性から突然、「私はあんたのおしめを取り替えたこともあるんよ。それもバスの中で」と言われました。そんなご冗談を・・・と思いながら続きを聞きました。  私のお寺では毎年、本山へ団体参拝を行っているのですが、二十数年前、まだ幼かった私も一緒に参加したようでした。おしめの卒業が少し遅れていた私は、予想通り、バスの中でしてしまったらしいのです。  予想していたものの慌てる母を察してか、周りのベテランの女性方が揺れる車中で手際よく私のおしめを取り替えてくれたそうです。話を聞き終わるや、あまりの恥ずかしさに私は耳の先まで赤くなりましたが、その方は「ええ思い出です」とにこやかにおっしゃいました。  また、私が生まれて間もない頃、「跡取(あとと)りが生まれたんじゃね。よかったね」と皆さんが言ってくださったそうですが、そんな言葉を聞いて過ごした私は、幼稚園に入り、将来の夢を絵に描こうというとき、何を勘違いしたのか「鳥」の絵を描いたそうです。お寺に参られた方々は、私が自慢げに示したその絵を見て、「アトトリを鳥じゃと思うとるよ」と皆で笑った、というお話も披露してくださったのです。  このような話を聞くと、周囲の方々の願いとお育ての中にいること、「あんたはお仏飯で育つんじゃよ」と言われたその意味を、あらためて感じることができます。 そんな幼少期を過ごした私も次第に大きくなりますと、自我の芽生えとともに、何でも自分で決め、自分でしないと気がすまなくなってきました。  以前は父が「今年も京都へ団
0
カバー画像

長生きの保証書

 「浄土真宗ってどういう教えですか?」と尋ねられたら、「それはお浄土の真(まこと)を宗(むね)とすることです」と答えます。私のいのちが、人生が、お浄土の真に貫かれているということです。お浄土とは、私がこの限りあるいのちを生き切る依りどころ、支えです。  ところが、私たちの現状はどうかといえば、お浄土が生きることとは無関係なところに切り離されて、死後の世界に追いやられてしまっているように感じます。ですから、60歳や70歳になった方にお寺参りを勧めても、「私にはまだ早いから、当分お参りする気はありません」と言われます。80歳、90歳まで生きられて当然、死後のことなど考える暇があったら、いかに楽しく生きるかを考える方が利口と言わんばかりです。  ちまたでは、いわゆる「平均寿命」なる数字が幅を利かし、あたかも80歳までは生きられるかのように考える人も多いようですが、私は誰からもそんな保証書はもらっていません。私だけでなく、誰一人としてそんな保証はしてもらっていないはずです。  確かに、100歳まで生きる人は年々増えているのかも知れません。しかし、平均寿命に至らずに終わるいのちもたくさんあります。病気が縁で終わる若いいのちもあれば、不慮の事故が縁で終わる幼いいのちもあります。いのちの事実は「老少不定(ろうしょうふじょう)」。老いた者から順番にいのちが終わるのではないのです。  そう言うと、「そんなこと言われなくてもわかっているさ」と言われるかも知れません。しかし、頭ではわかっているつもりでも、私たちの心と体はなかなか理解しようとはしません。だから、大切な人を失った時には、私たちは平静を保
0