自分を知ってる?

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 私たちは、自分のことは自分が最もよく知っているつもりで暮らしているのではないでしょうか。ところが、案外、そうでもないことに気付かされたクイズがあります。簡単なものですので、ぜひ、挑戦していただきたいと思います。こんなクイズです。
<問題>父と息子がドライブに出かけました。ところが、事故に遭(あ)ってしまい、二人はそれぞれ別の病院に運ばれました。
息子が病院に到着すると、待っていた外科医が出てきて叫びました。
「これは私の息子!」
病院に運ばれてきた息子と、外科医とはどのような関係でしょうか。
 答えは出ましたでしょうか。
息子のことを「私の息子!」と呼ぶ人は父か母です。お父さんはここにいませんから、外科医は運ばれてきた息子の母親になります。息子と外科医の関係は母子だというのが正解です。お母さんが外科医として勤務する病院に、たまたま息子さんが運ばれたのでした。
 私はこのクイズに答えることができませんでした。なぜかと考えていきますと、「外科医と言えば男性」という誤った思い込みが原因でした。試(こころ)みに問題文の「外科医」を「看護師」に置き換えると、間髪入れずに正解できそうです。
 もちろん、私も女性の外科医がおられることは知っていました。けれども、その知識は役立ちませんでした。つまり、このクイズでは、知識の有無ではなく、私の愚かさ、すなわち誤った思い込みに自分の力では気付くことができないことが問題にされているのです。
仏かねてしろしめして
 私はこのクイズに出あうまで、自分の物事の見方がこんなに危ういものであるとは考えもしませんでした。
 私がクイズに答えられなかったように、私たちの物事の見方は、さまざまな思い込みに縛られた、あてにならないものです。クイズのような形で教えていただかなければ、気付くことができない思い込みを、まだまだしているに違いありません。ところが、そのような悲しいありさまを、私は自分の力では知ることができずにいます。私たちはそのような愚かさを抱えているのです。
 『歎異抄』第九条に、「仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰(おお)せられたることなれば・・・」
と記されています。
 私たちは、自分のあてにならない物事の見方を「正しい」と思い込んで暮らし、「正しい」もの同士が衝突しては自他共に傷つき、悩みを深めているのではないでしょうか。とりわけ、「最後は結局自分がかわいい」という物事の見方は、自分の力では気付くことも、なくすこともできない根深いものです。その私たちのすがたを、阿弥陀さまはすでに見抜き、「煩悩具足の凡夫」であると仰せになっているのです。
 阿弥陀さまは、物事を正しく見抜くお智慧と、智慧なき愚者を救うお慈悲をお持ちの仏さまです。その智慧と慈悲はお名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」に込められています。
 私たちにとって大切なのは、このお名号に込められた阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくことです。お名号を聞くとは、阿弥陀さまが見抜いてくださった、私の本当のすがたを聞かせていただくということです。私が煩悩具足の凡夫であることを聞かせていただくのです。それはそのまま、私の愚かさを放っておけないというお慈悲を聞かせていただくということです。
 「煩悩具足の凡夫」などと言われると、「私はそんなに愚かではない」と、反発してしまうかもしれません。けれども、家族や先輩から厳しく意見されて反発したものの、よくよく考えると、至らないのは私であったという経験はないでしょうか。私は愛情をもって見抜かれていたのです。
 お名号を通して、自分の力では気付くことができない私の愚かさ、危うさを知らせていただく時、私を見抜く阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの中に、今、この私があることに気付かされるのです。
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