この絵さえあれば...

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(先人のお話です)
 自坊のお内陣の片隅には、タンポポの花が咲き、綿毛が空に向かって一面に飛ぶ様を描いた屏風(びょうぶ)絵があります。
 その絵は、私自身お寺に全く縁がなかった独身時代、浄土真宗のみ教えどころか、宗教に偏見さえ持っていた頃に、いただいたものでした。後に縁あって私はお寺に入り、お内陣に絵を置かせていただいて、今に至っています。
 この絵を描いたのは、私の祖母の弟で、3年ほど前、68歳で亡くなりました。彼は生前、新聞記者をしながら男手一つで二人の息子を育て、記者を辞(や)めてからは、島根県の山奥で一人暮らしをしていました。牛小屋を改装し、ギャラリーにした彼の家へ、私は片道2時間半かけて車を走らせ、何度か遊びに行ったのです。話し上手で聞き上手の、冗談が大好きなおちゃめな人でした。そこで描かれたタンポポの絵が、不思議なほどどうしても欲しくなり、彼に頼み込んで譲ってもらったのです。
 今思えば、当時の私は不満でいっぱい、何に関しても投げやりな状態でした。でも、タンポポの絵を見ると、「この絵さえあれば、穏やかに安心して生きられるかもしれない・・・」と感じたのです。彼は、
 「ここまで取りに来るんじゃったらあげるけえ。その代わり、絵ができたらすぐに来んさいよ。手元に長くあったら、渡しとうないなるけえのお」
 と言ってくれました。
 その時は、鮮やかに輝くタンポポの黄色と空の青、光に向かって一斉に飛ぶタンポポの綿毛があまりにきれいで欲しがったのですが、この絵は私に、これまで多くの縁をつくり、さまざまなはたらきをしてくれています。
教えられ、導かれて
 タンポポが花を咲かせて種を生み、それが大空へ旅立ち、そして土へ舞い降り、残った花や葉が枯れ、次の栄養となるべく土へと還(かえ)っていく。一連のドラマが絵に凝縮され、「こうやって、いのちはみんな繋(つな)がっているんだよ」と伝えてくれている気がします。それと同時に、世の中のあらゆる物事は変化し、一定ではないという諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を教えているようでもあります。
 小さな小さな綿毛が、宇宙の星の輝きのようにキラキラと光って見え、自分が些細(ささい)なことにとらわれ、くよくよしているなあと、知らされたりもします。
 まさか、私の一人暮らしのアパートにあった絵が、お寺のお内陣に置けるとは思ってもみなかったので、「おじさん、亡くなってからも必死で導いているんだなあ」と感じたりもしました。
 彼の人生は、はた目には決して幸せとはいえないものでしたが、多くのものを残してくれました。仏さまとなってよびかけておられるなあと思うのです。
 きっと、どなたにも先立たれた大切な方がおられることでしょう。その方々は今、四苦八苦しながら懸命に生きている私たちに向けて、どうか仏さまのお心に気付いてほしいと、あの手この手でよびかけておられるはずです。
 自己中心の塊(かたまり)である私は、それが感じられていませんでした。さらに言えば、「真実に気付いておくれ」と願う仏さまのお心が、私を包んでいたにもかかわらず、欲に縛られ、はねつけていたのです。だから不満だらけでした。
 「仏さまなど見えないからないのだ」というのは、人間の傲慢(ごうまん)です。見えないものにこそ心を砕かないと本当の安らぎは感じられません。つまり、仏さまのお心は、難しいことを会得してから感じるものでは決してないのです。
 ある布教使の方が、「正信偈」の中の「唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」の「説」を「聴」に置きかえて、自らのことを次のようにおっしゃいました。
 「私はただ、阿弥陀さまの願いを聴かせていただくのみです」
 ですから、お寺でのお聴聞を通じて、私自身のこととして、自己中心的な私の心をごまかさず、どこまでもすなおに聞く、ただそれだけです。
 タンポポの絵は、欲だらけの私をまるごと受けとめ、仏さまのお心に触れさせてくださった、仏さまからの贈り物。これからも、仏さまのはたらきを喜ばせていただけるような日暮らしをしたいと思います。
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