何か心に引っかかる

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今から3年ほど前、あるご門徒の葬儀をおつとめして、斎場に向かう車中でのことです。いつもなら自家用車で斎場に向かいますが、その日はご門徒が私のためにタクシーを呼んでくださっていました。
 その時、運転手さんがご自身のお母さまの話をしてくださいました。
 「実は私も先日、母を亡くしました。私はできるだけ時間をつくり、施設に入所している母の顔を見に行きました。でも、母は私の顔を見ても他人行儀。晩年から認知症になった母は、私の顔すら忘れてしまっていたのです。とてもショックでした。母の頭の中に、母の心の中に、私の存在がないのかと思うと本当にショックでした。
ただ、それは病気がさせたこと。決して母の意思ではないと何度も自分に言い聞かせました。そしてもう一つ残念なことがあるんです。
それは、母の遺言が聞けなかったことです。
最後に一言、母の遺言が聞けるとよかったんですがね・・・」
 運転手さんは「遺言が聞きたかった・・・」と何度もおっしゃっていました。その都度、私は「そうですね・・・」と口では相づちをうっていたのですが、なぜか心の底のほうで何かが引っ掛かるような思いもしていました。
 そして、お話を聞いているうちに、気付かせていただいたことがあったのです。それは「遺言」という言葉でした。何度か運転手さんがおっしゃった「遺言」という言葉に引っ掛かりがあったのです。
誰のためか考える
 「遺言」という言葉は、ドラマなどでよく見られる臨終間際に発せられる言葉が「遺言」のように思われがちですが、そうではないことに気付かせていただいたのです。遺(のこ)された言葉。遺さなければならなかった言葉なのです。ということは、遺言とは、遺す側に必要な言葉ではなく、遺された者に必要な言葉で、遺された者が出あっていかなくてはいけない言葉です。臨終間際の言葉ではないのです。
 私は「運転手さん、私、今気付かせていただきました。私の両親はおかげさまで今も居てくれております。私が小学校に入学した頃は、母からいつも、『ハンカチ・鼻紙持ったか?』『先生の話、しっかり聞くんやで』『友達と仲良くするんやで』と言われていましたが、その一言一言が、その当時の母の遺言だったと思うんです。
 今もいろいろと母から言葉をもらいます。私のことを思って発してくれているその言葉すべてが遺言だったんだと気付きました。私の心の状態によっては、なかなか素直に〝ありがとう〟と言えないことのほうが多くありますが、運転手さんも、お母さまのお言葉(遺言)を聞いてらっしゃるんじゃないですか?」
 こうお話すると、運転手さんも「そうでした。母はたくさんの遺言を遺してくれていました。何度も繰り返して、うるさいとまで思っていたあの一言一言が遺言でした」とおっしゃいました。
 「お経(きょう)」も同じことではないでしょうか。経典は、お釈迦さまが私たちに遺してくださった遺言です。お釈迦さまは、今この娑婆(しゃば)世界で〝迷い〟を迷いとも気付かずに生きる私のために 尊いお言葉を遺してくださっていたのです。
 お経は、三蔵法師によって、「絹の道」、別名「骨道(こつどう)」ともいわれているシルクロードを通って日本に届けられました。今もなお道中には、白骨化した無数の動物の遺骨が砂に埋もれています。先の見えない砂漠にあって、はるか彼方(かなた)にお経を届ける・・・。
 「はるか彼方」とは、三蔵法師が目指される国というだけでなく、遠い先の時代も意味するものでしょう。そして三蔵法師の瞳に目標と映ったはるか彼方というのは、それは「私」のことではないでしょうか。
 ラクダに背負わせた経典が届けられなければならなかった場所、仏さまが三蔵法師に届けさせたかったその場所とは、正しく「私の手」だったのです。さらに、そのお心を頂戴(ちょうだい)することこそが、本当にお経が私に届いたことを意味するのでしょう。
 誰に届けられた経典なのか、誰に届けなければならなかった遺言なのか。今一度考えてみたいものです。

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