浄土真宗が風土に

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 大津市は琵琶湖の南で「湖南」といいますが、長浜市など「湖北」では、今も人が生まれたら「赤ちゃん、もらわはったんやてな。おめでとう」「おおきに、おかげさんでいい子をもらいましたわ」。人が亡くなったら「今朝、ばあちゃん、まいらしてもらいましたんや」「ほらまあ、お早いお旅立ちどしたなあ」という会話が日常的に行われていることを知りました。
 滋賀県には140万人が住んでいますが、浄土真宗の寺院は1600カ寺近く(そのうち本願寺派が601カ寺)あり、「浄土真宗が風土」ともいえます。そういえば、嘉田由紀子滋賀県知事は、6年前に「もったいない」をキャッチフレーズにして初当選しました。マスコミの取材で「なぜ"もったいない"なのですか」と聞かれ、若いときから県職員として琵琶湖研究所などで環境問題に取り組んできた嘉田さんは「調査で県内をくまなく回ったが、琵琶湖のほとり、あるいは山手のどんな小さな集落に行っても、皆さんが"もったいない"と言うのですよ、だから」と答え「私が生まれた埼玉県ではあまり聞いたことがありません」と言っていました。
「お育て」の大事さ
 その滋賀県は全国でも数少ない、人口が増えている県です。この20年、田や山地が開発され新しい住宅やマンションができ、核家族化した住民が増えています。10年ほど前、そのような家族の子どもと昔から住んでいる家族の子どもが混在する20人ほどの集まりで、お経(きょう)をおつとめする機会がありました。
 経本を配り、おつとめを始めようと「合掌」と言いました。ちょっと振り返ってみたら半分ほどの子どもは合掌をせずにキョロキョロしているのです。
「君たち合掌を知らんのか」「知らん」
「家でご飯を食べるときにするやろ」と尋ねると、
「してない」という返事が返ってきました。
 合掌は「自己を見つめる・他を思う・感謝」の表現であり、そもそも日本人にとって、宗教行為の基本動作です。逆に合掌ができない生活や社会は、「自己中心、他を思えない、感謝の気持ちに欠ける」、つまり宗教心がない、ということです。「浄土真宗の教章」の「生活」にある「つねに我が身をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活を送る」ことは、合掌ができないに対置しています。
 昨年夏に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を上梓しました。刊行のきっかけは、宗教心の基本行為ができていない人がいることへの僧侶としての責任でした。それに原発問題への対応を含めて政治、経済、科学、思想など日本を動かす一部の人に見られる倫理観のなさに「合掌ができない」ことが根底にあるからではないかと思ったからです。倫理観の根底には宗教心があるからです。
 農山漁村など日曜学校が続きキッズサンガが盛んな地域の住職からは「合掌ができない子どもがいることを初めて知りました」、都市部の住職からは「その通りです。家族や親類が集まっての年回法要などで、合掌をしない人が増えたので、おつとめのはじめに"合掌"と言うようにしました」と、大まかに二通りの感想が寄せられました。手紙を読ませていただきながら、「広辞苑」にもない言葉ですが、最近聞かなくなった「お育て」という言葉を思い出しました。
 湖北の人たちに「赤ちゃん、もらわはった」という日常会話が続いていることは、まさに「お育て」によるものであり、それがなくなってしまったところに「合掌ができない子どもたち」が現出したように思います。
 阿弥陀さまの救い(浄土真宗の教え)は、「(自分で)得る」ものではなく「たまわる」ものであるという、現代思潮から理解が難しい一面がありますが、それ故(ゆえ)に「理屈」だけではなく「お育て」が求められています。
 まもなく春の彼岸を迎えますが、私が「合掌の生活」を送ることから子や孫に「お育て」がなされていくこと、その大事さを痛感しています。
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