自己紹介 パート1

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初めまして、れいこです。

ブログに来てくださってとても嬉しいです!
どうもありがとうございます。

あなたの心と体がもっと楽になれるような場所になれたらいいなと思います。
これから末永く仲良くしてくださいね。

まず私のことをあなたに知ってもらいたいので、今回は自己紹介をしたいと思います。

ちょっと長くなってしまいますが、私が生まれて今の活動をすることに至った経緯などをお話させてくださいね。

文字数制限があるので、2つに分割して掲載します。

れいこ姉さんってこういう人なんだ~と親近感を持ってもらえたら嬉しいです^^
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1968年11月 私は九州の田舎町に、2人姉妹の長女として生まれました。
2歳に引っ越し、両親、妹、父方祖父母と暮らしていました。

お寺の中にある近所の幼稚園に通いだして間もなく、異常なまでの肩の重さと痛みにずっと悩まされていました。

食事の時にお箸を持つ手が耐えられずに箸を落とすことが度々あり、猫背だから血行が悪いと父から言われ、我慢していました。

また鼻出血も多く、幼稚園に行きながら母に「きつい…」と私がつぶやいた一言で小児科へ検査に連れて行ってもらいました。

人工透析をしなくてはならないほど腎機能が悪化していたのが判明したそうです。

約1か月幼稚園を休み、特に治療はしていなかったそうですが、その後数値は正常になり、また幼稚園に元気に行けるようになったとのことでした。

そんなわたしは幼少時代、女ガキ大将のように、年下の子を引き連れておてんば振りを発揮していましたが、同時に、漫画とイラスト、歌とダンスと占いが大好きな少女でもありました。

昼食後に席を後ろまで下げ、皆は外で元気に飛び跳ねている中、たった一人教室で熱心に絵を書いていたのを覚えています。

小学生になってもそんな一本やりな気質は変わらず、近所の子ども達やクラスの子達に、自分が企画した遊びやボランティア活動の詳細を書いた紙を配布して活動に誘ったり、すきま時間があればイラストを熱心に書いていました。

小学4年のある日、校庭で風景画を描く美術の時間がありました。人物を書くのが好きな私は風景を描写するのにとても苦手意識を持っていました。

なかなか思うように描けず、何度もやり直しているところに先生がやってきました。

「なんか下手なんですよね。」とそんなニュアンスのことを先生に言うと、「ほんとね」という返答が返ってきたのです。

そのときの先生の思いがけない言葉に私は固まってしまいました。絵だけではなく、私自身を否定されたような気持ちになったのです。

そして自由奔放な私は突然がらりと変わりました。訳もなく家族とも口をききたくなくなり、心を閉ざし、学校でも目立たないように過ごすようになります。

先生からの質問には、間違っていたらどうしよう・・という不安と恥ずかしさで答えられなくなり、まるで別人のようになっていきました。

担任が見るに見かねて、朝のバレーボールに誘ってくれましたが、スポーツが好きではないことから、すぐにやめてしまいました。

その後も、なにかにつけ先生の自宅に数人のクラスメイトたちと呼ばれ、手作りの食事を振舞ってもらい、外食に連れて行ってもらったりしました。

当時、先生宅に呼ばれていたメンバーを思い返すと、その子なりの課題を持っていた子たちだったんだと、大人になって気づきました。

タロットカードとの出会いは小学6年生。マイバースディという占い雑誌の付録でした。ひとりもくもくと占いにのめりこんでいました。

中学生のころは夢中で友人や自分のことを本を見ながらよく占っていましたが
高校生以降は、もっぱらお洒落やメイク、恋愛や遊びに忙しく、次第にタロットや占いから遠ざかっていきました。

幼い頃のわたしたち姉妹は、父から役割として家中の拭き掃除が与えられていました。しっかり出来ていないと怒られてやり直しをさせられました。

父さんがすきか?母さんがすきか?
髪を父に洗われながら聞かれるお決まりのフレーズ。

即座に母!と答える妹は、かわいくないというように、力任せに頭を洗われて痛そうでした。

私もそういいたいけれど、父が悲しむのでいえないと思っているというのに・・、痛い思いもするのに、よくはっきりいえるな・・と内心感心してもいました。

両親が険悪な状況となれば、父と母のどちらかに味方するかを求められ、生きるために仕方なく片方につけば、片方の親に疎ましがられる生活。

ある日、父の言われたとおりに出来なかった私は、「れいこは役に立たん」といわれ、幼心に相当ショックを受けます。

それからは、特に父に気に入られなければいけない、役に立つと思われたい、それが私の生きるモチベーションとなりました。

何もない普通の日は、虫も殺さないように優しい父。リビングのテレビの横から小さな顔を出してちょろちょろするねずみにまで、米粒を置いてあげる父。

そんな父にほめられるように勉強も頑張り、「やれば出来るな、れいこは」と、頭ををぽんぽんとたたいて褒めてもらえることが、私の唯一の安らぎのときでした。

あの幼い頃からずっと痛めていた心の傷が癒されていくかのように錯覚している自分がいました。

高校を卒業して社会人となり、自由に羽ばたける羽根を得た私は、親元を離れるために、一気に家を出て独り暮らしをはじめます。

そう書くと聞こえはよいですが、いわゆる家出をしたのです。

行先は伝えず、妹には置手紙を発見してびっくりしながら親元に持っていくという役割を与えて… なんという姉。親不孝者でした。

そして19歳そこそこの私は、大手グループのクラブでアルバイトをしました。

高校生時代から寝ても覚めても読みふけっていた小説が、小池 真理子さん、森 瑤子さん、山口 洋子さん。憧れる女性像が粋な水商売の女性だったのです。

小説の中の山口洋子さんのお店で働いていた柳という女性のようなホステスになりたくて、いただいた源氏名に柳という名字まで勝手につけていました。

お店の女の子からは、私のお客様はみんな可愛らしい人ばかりだねと言われていましたが、本当にお年を召した方まで皆さんそうでした。

とはいえ、凄みを利かせたり無神経なお客様には厳しかったので、よく怒らせてしまい、店長たちを困らせたりもしました。

当時流行っていたハウスマヌカン風の衣装を着てものまねで笑わせていたホステスが珍しかったのか、皆さんに可愛がってもらえてすぐにナンバーワンになりました。

そこでは良いこともそうでないこともたくさん味わい、羽目を外しすぎて家族に迷惑もかけ、ちゃんとしなくては・・という思いにかられた私はようやく成人式前に実家へと戻りました。

両親への抵抗感は解消されてはいませんでしたが、責めることなく受け入れてくれたことに親の愛情を感じ、感謝の気持ちを初めて持てたように思いました。

その後、ふと関心を持ったニチイ学館の医療事務講座に通学し、2級試験に合格します。

早速、地元の整形外科医院の受付兼医療事務で採用されました。

なんと初日に、高校時代に交際をしていて一方的にお別れした彼もそこに就職していたのを知り、ちょっと慌てたハプニングつきでしたが。笑

そんな中、入院患者さんと看護師さんの話す雰囲気を見ていてとても羨ましく思い、看護師になりたかった子どもの頃の夢が蘇りました。

メイクやスキンケアに関心が高まる時期だったのもあり、ある時から、これから私は医療と美容に関することで働きたいな~と思うようになりました。

すると某美容会社の美容部員の募集に目が留まり、メーキャップアーティストに憧れた頃の思いが強く働き、美容のほうへ進むために医院を退職します。

そして、美容部員をしながら、ようやく美容と医療を融合させた将来性ある美容形成という職場を見つけて転職します。

院長が高須クリニックの高須院長の弟子だったため、佐賀のバルーンフェスタで高須院長のバルーンに同乗させてもらい、当時フォーカスという雑誌に写真を掲載されたりもしました。

来られるお客様は有名な著名人だったり芸能関係とも深く関連していたので、ミーハーな私は受付業務や手術の助手だけではなく、広報も担当させてもらえました。

雑誌のコラム、CMを挟む時間帯などの担当もさせてもらったりなど、毎日が輝くほど楽しかったのですが、突然あっけなくその道は閉ざされます。

20歳の私の顔の3分の2が、ある事件をきっかけに、火傷を負ったようにケロイド状態になってしまったのです。

約1年間、実家に戻り、一歩も外へ出られず、仕事も出来ず引きこもる生活をします。

両親とも殆ど話さず、部屋でドリカムのカセットを一日中聞いていたことしか本当に思い出せないほど、空白の期間を過ごしていました。

そんなある日、このままではいけない・・と傷は癒されないまま、自ら行動しようと思えた時がありました。

二階の部屋を出てリビングへ降り、新聞の求人欄に掲載されていた住み込み見習い看護師の求人をみつけました。

中学生の頃になりたかった看護師への夢を思い返します。

そうだった、整形外科の受付の頃も看護師として患者さんに関わりたいと思ったんだった。私には医療がまだ残っている・・

その様子を見ていた父は、すかさず私の背中を強く押しました。
一人で生きていく力をつけさせようとした親心でした。

立ち直る気力を取り戻せてきた私は、このままでいるリスクを恐れていました。看護師さんに助けてもらいたいという希望、すがる思いもどこかにありました。

右も左もわからず飛び込んだ看護師見習い。共同の水周りに4.5畳の畳がブカブカする古い看護師寮で更にすさみそうな気力を、私はこのような場所で終わる人間ではない!と、自分を鼓舞して過ごしていました。

その個人医院の病室のベッドで、私が受けた傷と似た被害を受けて治療している女性と入社後すぐに出会います。その女性に一瞬で自分を重ねていました。

自分がこの人の顔を治す!

自分が体験して学んだ教訓をもとに、懸命に治療の手助けをしていく過程で感謝され、私の心とケロイドが残る顔を徐々に受け入れる準備ができていきました。

やがて、見習い看護師を卒業し、精神病院の奨学生として日中と夜間働きながら看護学校に通学。卒業後きっちりお礼奉公を2年して進学します。

私以上に過酷な状況にいる患者さんに精神的に支えられ、厳しく生死と向き合う中で、次第にスピリチュアルな思想にも関心を抱くようになっていきます。

『生きるとは』『人生とは』『苦難の意味とは』という事を意識するようになり、心理学や哲学、自己啓発本を読みあさる日々を送ります。

看護師時代は過酷でした。多忙でストレスフルな生活を送っていましたが、弱音を吐いたり、甘えたりする事が出来なかった私は、気合で乗り越えることしか選択肢を持ち合わせていませんでした。

きついのに、これが当たり前だと言い聞かせる自分、
思ってもいないことを我慢してしている自分、
損なことばかり引き受けている自分・・

なんでわたしはいつもこうなのだろう。優しすぎるのか、気が弱いのか・・
いつからか相手優先に考えてしまう気質になった私は、心と体を不安定にさせながらも、希望を失わず出口を見出そうと足掻いていました。

若さゆえに無理がきき、苦労を当たり前に捉えながら、心身の悲鳴に耳を傾ける事なく、激務をこなしていました。患者さんは私以上に戦っているんだと。

むしろ、それほどの仕事をこなせている自分が誇りでした。
自由奔放に生きて迷惑をかけ、引きこもっていた何のとりえもない、
そんな私でも人の役にたっている…

看護進学校2年、29歳のとき、更なる苦難が私に降りかかります。
信頼していた医療機関においての医療ミス。心の傷をまた負う事件が起こります。

当たり前に出来てたことが突然できなくなり、医療に携わりながら、医療を信頼できなくなるというジレンマに襲われます。

なんで私ばっかり!とは一切思いませんでした。
あぁ、やっぱり私は何をやっても邪魔が入る運命なんだと思っていました。

そして、ここから脱出するにはどうしたらいいんだろう!ということばかり考え探し続けていました。

このまま看護師の国家資格をとる意味があるのだろうか・・
しかし、応援している父に報告しなければ・・という思いもよぎりました。

心身の葛藤に追い詰められながらも、諦めることも出来ず、あらゆる症状に見舞われ、心身はぎりぎり状態でした。

それでも父に褒められたい一心で、厳しい実習、受験勉強を乗り越え、看護師免許を手にしてます。

その後ホスピス緩和ケア病棟で、多くの懸命な生き様を目の当たりにします。
人は弱い、皆弱い、その弱さを受け入れて寄り添い生きる事が力になる・・

そのホスピス長の言葉を胸に、家に帰っても担当の方に喜んでもらおうと手作りのものを作っては病室の届けていました。

そんな思いとは裏腹に、私の心身は悲鳴を上げていました。崩れそうな心を救ってくれたのは、ホスピス病棟の人々と、程なくして出会う今の主人でした。

パート2に続きます。


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