大学で文学の授業をしてきた話──「よくわからない小説」を読む方法

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小説
縁あって、東海大学の文芸創作科三年生向けの講義「文学精読」にて、ゲスト講師として授業を担当させてもらいました。
この講義の担当者は作家であり大学教員でもある倉数茂さん。対面でお会いしたことはないですが、Twitterでちょくちょく交流があり、SFマガジンの異常論文特集ではいっしょに寄稿させていただいたりもしました。
もともとtoibooksでのオンラインイベントでのゲスト出演をぼくが倉数さんにお願いしたのがきっかけで、「大滝さんもうちでちょっと話をしてみませんか?」とお誘いいただき、オファーを交換するようなかたちで今回の話が決まりました。

工学部出身で文学教育を受けたこともないじぶんができるのか……!?という戸惑いはありましたが、文学というのは「部外者にやさしい分野」ともおもっているので、ならば徹底的に他のひとが話さないようなことをしてみようと決め、授業にのぞみました。

今回はじめての経験ということもあり、準備過程と授業内容、所感などを以下に書き残しておきます。

課題作品とテーマの設定
「神は細部に宿る」という言葉がある。文芸作品の精髄は、ストーリーや世界観ではなく、テクストの些細なディテールにこそ宿る。優れた作者はみな、そのような細部を創り出すことに心血を注いでいる。ゆえに、文学の学習を深めるためには、一言一句もゆるがせにせず、ゆっくりと丹念に読む精読が必要となる。この授業では、テクストの中にそのような細部をいかに見出すか、また見出した細部を全体との関連においていかに解釈するかを精読の実習を通じて学習する。
つまり、細部と全体をつなぐ作品解釈力(?)のようなものを養う授業だと捉え、それならぼくがふだんやっていることをそのまま話せばいいかぁ……と思った。そこでもっとも「大滝瓶太らしい読み方」が活かせる作品として、円城塔「これはペンです」を課題作品に設定した。

しかしこれは〝一般的な〟小説読者との価値観からは離れている。「これはペンです」という作品は「難解」で「よくわからない」という印象を持たれがちなのだけど、特徴的なのはネットのレビューを眺めるとこの「わからなさ」を抱えながらも「おもしろさ」が見出せてしまう点だ。
その奇妙なねじれに着目し、授業テーマを『「よくわからない小説」を読む』に設定した。

学生さんに伝えたいことなど

今回の仕事は「相手がわからなくても別にいいや」というわけにはいかない。ふだん、小説や書評や文芸批評を書いたりする仕事では他者の理解はそんなに重視していない。せっかくなので、しっかりと「伝える」ことをとことんやってみようと思った。
まず、小説という表現においてのぼくのモヤモヤなのだけど、「これはペンです」のような作品は「理系が悪ふざけで書いた」とか「アンチロマン的だ」とか「前衛」とかあまりよろしくない意味で言われやすい。こんなもの小説じゃない!という声もある。でもぼくにとって、こうした小説はものすごい希望だった。円城塔作品をはじめて読んだ大学院生のとき、ぼくは「これが小説なら、ぼくも小説を書いていいんだ」とおもった。この感覚はおそらく、ほかの「ふつうの小説」と何ら変わらない。
この「感動」(というと大袈裟だけど)の所在がどこなのか、なぜぼくがそれを抱き得たのか、それはぼくにしかないものなのか一般性のあるものなのか……そんな個人的な問題を、小説一般にまつわる普遍的な問題として共有できるといちばんうれしい。

また教育的な意味でのゴールも考えた。
ある小説を読んで「おもしろかった!」「つまんなかった!」と感想を抱くのは自由だし、つまんなければ途中で読むのをやめるのだって悪くない。だけれど、それはあくまで娯楽としての読書であり、アカデミックな手続きとしての「読書」ではない。今回は大学の授業なのだから、「わからない小説(文章)」と遭遇したときの対処法としても役に立つように授業構成を考えた。
このとき参考にしたのがピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』だ。この本では、「教養」を以下のように定義している。
教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。
──ピエール・バイヤール著、大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』

課題作品に対する学生さんの反応

授業に先立って、学生さんから「これはペンです」の簡単な感想をいただくことができた。資料はだいたい作っていたけれど、それを反映した内容に練り直し、トピックの選定や踏み込む深さを考えた。

当初の見込み通り「意味がわからない」「難解だ」「読むのにひどく難儀した」という感想が大半を占めた。ここまで難しいのかぁ……そうだよな……とおもいつつ、なんだかじぶんが怒られているような気持ちになった(とほほ)。
それはさておき、みなさん「わからない」なりにもこの作品を楽しもうとか、じぶんの価値観に合わないのはなぜだろうとか、そういうことを考えていてすばらしかった。

授業のために準備したもの
準備した資料は以下の2つだ。
1:授業用パワーポイント
2:大滝による作品解題(補足資料)
「作品解題についての解説」がパワーポイントの資料(今回は非公開)になっている。
解題についてはちょっと(ほとんど自己満足な)仕掛けを用意した。
「これはペンです」では論文自動生成が登場するのだけれど、そこでは「模倣」や「擬態」といった文学でも馴染み深いテーマが見えてくる。作品中の「叔父さん」の流儀に合わせるならばどこまでもいい加減に解題を書くのが筋というものだが、なかなかそうともいかないので「円城塔の模倣をした文章による解題」を真面目に書いた。こっちはせっかくなので公開してみる。

補足資料:これもペンです──円城塔「これはペンです」解題にかえて

 ひとつひとつの語の意味ははっきりとれるが、なぜだかどうして全体の意味がさっぱり取れない。ある本を読んだ友人からこんな事をいわれ、わたしがわたしなりに説明してやると、友人はなるほどと頷いてこう言う。お前の話はひとつひとつの語の意味はさっぱり何もわからないが、なぜだかどうして全体の意味ははっきりわかる。
 まったく反対の結果でありながらまったく同じ仕組みで表出する現象がある。
 まったく反対の一対の現象は譬えるならば硬貨の表と裏であり、慣例的な解釈に従えば排反事象ということになるのだけれど、面倒なことにそうとも限ってくれやしない。同時に表で同時に裏なんてものはありえないようでいて、しかしそれらがそもそも一枚の硬貨であると見てやればひとまず鵜呑みにするのは意外にそこまで難しくない。詭弁ととるかパラダイムシフトと呼ぶかは個々人の良識に任せるとして、ひとまず円城塔の作品を読むにあたってわたしは財布のなかから適当な小銭を一枚取り出してみるのを推奨する。
 手垢にまみれたなんの変哲もない一枚の硬貨がそうであるように、「実在」という意味での具体性を持つあらゆるものは「現象」としてなんらかの複雑性を有している。「小説」もまたそのひとつに数えられるというのがわたしの主張であるのだけれど、ならばそれが何を使ってどのようにやって来たのかを実証的に検証したのが円城塔の小説「これはペンです」だとわたしは読む。一定の長さを持った散文はその内容如何によらず「小説」によく似た形を取り、それを「小説」だとわたしたちは認識する。もっといえば「一定の長さ」にも「散文」にも同様の問題が潜んでいて、任意のテクストはそんな自己相似を内に孕み、極限をとれば「文字」に行き着く。ひとつひとつを個別に精査していたのでは埒が明かず気が滅入るばかりでうれしくないので、ひとまずテクストで起こる現象に焦点を合わせるならもっと別のアプローチが必要になる。
 数学者アラン・チューリングは晩年、反応拡散系におけるパターン形成の数学モデルを提唱した。反応拡散系が何かは各自適当に調べてもらうとして、いわゆる生命現象とは非物理的な(生物学的な)挙動によってもたらされているという認識だった当時、チューリングはこの研究によって生命現象の物理現象的側面を示唆したという解釈がある。
 これを踏まえて少し想像を逞しくさせてみると、「わたし」という存在はなにか別の、「わたし」ですらない無機的なものによって「わたしらしさ」を維持させられている可能性が否定できなくなる。小説であれば「わたし」によって書かれる小説が「わたしの意思」によって形作られていくようでいて、「小説らしい形」に擬態することによって「わたしの意思」が形作られているのかもしれない。わたしたちは言葉を道具と思っている。みんなと言わずとも、少なくともそういう認識を持ったわたしたちが大半であると見做して差し支えないだろう。なのにわたしたちは道具と思っている言葉に実は使役されながらテクストという空間に言葉によって記述される。試しに手を動かしてみるとよくわかるが、「わたし」というのは意外と出鱈目に文章を書けず、出鱈目に書いたと思っていてもなぜかどうして小説に似た文章は容易く書けてしまうのであり、小説の「難しさ」と「容易さ」はわたしたちと言葉が暗黙の裡に結んだ──あるいは勝手に巻き込まれた──共犯関係として姿を見せる。
 出鱈目とは言ってはみたが、しかしそれも単純な話ではない。コンピュータで乱数を発生させるにしてもそのための秩序立ったアルゴリズムが必要で、そして世の多くの予測困難な出鱈目さを持った現象にしてもその過程のひとつひとつは明瞭なアルゴリズムを持っている。その例として数学者や物理学者はパイを捏ねてみせる。ごく素朴な構造を引き伸ばして折り畳むという単純な操作をただ繰り返すだけで、捏ね上げられたパイは出鱈目さと呼べる複雑さを獲得し、それは「非線形現象」や「カオス」として領域外の人間の目に触れ耳に入る。
 ひとつひとつは明確にわかるが全体として何がなんだかわからないというのは冒頭で挙げた友人の言葉とぴたりと一致する。それは小説もまた複雑系科学の射程に入る現象なのではないかとわたしは妄想し、わたしがこうして書く言葉はそれぞれ勝手気ままに暴れ回る気体分子のようでいて、全体としてはマクスウェル分布を成すような形式を持ってしまう。エントロピーが上限に達したところで筆を置き、温度や圧力や体積などの有意な量が抽出されうるこの文章を、いま、あなたたちは読んでいる。
 書かれてしまった小説は著者の手を離れそれ自体が自立して存在する。
 作品単体ではそれ以上に変化が起こりえない「熱的に死んだ小説」とも言えるけれど、他の系へと開かれることで、それが抱えた雑多な分子が新たな外部へと流れ出していく。
 例えば文芸批評へ。
 例えば引用された作品へ。
 例えば市井の読者へ。
 誰かが誰かのテクストと対面した瞬間に系を隔てるバルブがかちりと開く音がする。
 開けた誰かはひどく知性に長けた悪魔だという説もあるが、悪魔祓いと悪魔信仰の狭間で右往左往するわたしたちを尻目に、文学は我関せずとばかりに状態Aから状態Bへ遷移を始めている。わたしたちは何を読むのかとたずねる者があるならば、現状それは言葉ですと言うしかない。ただそれが言葉の形をした何かであり、同時に何かのふりをした言葉であるならば、相応の言葉を新たに用意するのが筋なのだろう。積み上げられた輪郭も不確かな仮定の上に立つ「新たな言葉」はいつだって遥か遠くまで遅延されたまだ見ぬ死を目指し、次の著者へと続いていく。

「よくわからない小説」の分類

小説の理解のポイントを「細部」と「全体」にわけ、こんなマトリクスを作ってみた。実際の授業スライドから引用する。

スライド7

今回対象にしたのは、左上の「全体はわかるが細部がわからない」と「全体はわからないが細部はわかる」の2つだ。文芸批評などするとき、この「ねじれた読後感」にはなにか妙な(=おもしろい)現象が起きている。そしてそれは、別に読書に限ったことでもなく、別の分野に目をうつせば違うかたちでも「等価な研究」がされていたりもする。

これらについて、ひとつ話終えると休憩も兼ねた質問タイム(倉数さんとの雑談)を挟みながら、15枚程度のパワポを90分かけてしゃべった。
学生の頃の学会発表を思い出した。

熱力学・統計力学の話

「全体はわかるが細部がわからない」については、主に熱力学・統計力学の話をした。ふだん、ほとんどの人間がなんの疑いもなく使用する「温度」という概念についての「なぞなぞ」を出題し、それに10分ほどで回答してもらった。そこから統計力学のコンセプトの説明(「個と集団」=「細部と全体」の関係)をした。
文学の授業でマクスウェル分布の話をしていいものか少し悩んだけれど、この授業では講師が「よくわからないことを言う」のが大事にも思えたのでしれっとしゃべった。この辺りは課題作品「これはペンです」の読解、特に「叔父は複数いるのか?」「叔父は何者なのか?」「なぜ叔父が具体的な個人として作中で描写されないのか?」などへの解釈に直結する。

授業の多くはこのセクションに時間を使ったのだけれど、見せたスライドが地味過ぎて「映え」がないのが難点。

非線形科学・複雑系の話

「全体はわからないが細部はわかる」については、非線形科学(複雑系)の話をした。単純な操作の繰り返しで予測不能という意味での「複雑さ」が生まれてくる例として、「パイこね変換」を感覚的に紹介した。

画像2

これは「小説って一文一文はそんなに難しくないのに、どこでどう間違えたのか全体としてどんな話なのかわからなくなることがある」みたいな感覚とほぼ同じみたいな文脈で紹介した。
それからせっかくなので、より視覚的に「複雑さ」をイメージしやすいように二重振り子もみてもらった。二重振り子は「現象の初期値鋭敏性」みたいなデモンストレーションだけど、今回は「映え」みたいな感じで気楽にみてもらうことにした。

授業中に感じたこと

オンライン授業のメリットとデメリットを両方とも感じた。

メリット
・出席率が良い(授業は午前九時なのに出席者が多い!ワイは一限なんか出たことないぞ!家から出ずに出席できるからでは?という雑談をした)
・学生がネット環境にあるので、その場で調べてもらったり、Googleドキュメントを使った手作業を共有できる(手を動かす系の授業構成にするとスムーズかも)
デメリット
・話しているときの学生の温度感がわからない(基本的にミュート&カメラオフ)
コミュニケーションについてはもっと「筆談」をうまく使えたなという反省がある。ただ、チャットやGoogleドキュメントを利用するにしても、「なんでもいいから書いて!」だと逆に何を書いていいのかわからない。
家でPCの前で黙って座っているなんて結構ツラいので、もう少し手を動かせる設問を用意してもよかった。今回は1問だけだったけど、2〜3問くらいが良さそう。集中力が切れそうなタイミングで手を動かしてもらうみたいな工夫はわりと大事。

二人の学生さんから最後に質問をいただいたのだけど(うれしい!)、全体的にコミュニケーション面が気になった。それもそれでもったいない話なので、授業中に取り組んでもらった「なぞなぞ」の回答について、すべてにぼくの短評を書かせてもらった。合っているとか合ってないとかの観点じゃなく、どの「筋肉」を使って思考しているかの確認みたいな感じで受け取って欲しい。回答は読んでいてふつうに楽しかった。またやりたい。

参考図書

今回の授業後に読むと気づきがありそうな本をピックアップし、紹介した。

▪︎ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
▪︎蔵本由紀『非線形科学』
▪︎蔵本由紀『非線形科学 同期する世界』
▪︎マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』
▪︎郡司ぺギオ幸夫『群れは意識をもつ』
▪︎三村昌康『現象数理学への冒険』
▪︎トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(志村訳でも佐藤訳でも可)

気軽に読める読み物から、ちょっと数式がわかると楽しい(しかし感覚的な理解は十分可能)背伸びするものまで、という基準で選書した。特に読んで欲しいのは、『読んでいない本について堂々と語る方法』、『非線形科学』、『群れは意識をもつ』かな。
また、ピンチョンを紹介したのは理系作家(!?)の金字塔という意味なのと、「競売ナンバー49の叫び」もまた「これはペンです」のような統計力学的な構造が強くみられる作品だからだ。ちょうど新刊『ブリーディング・エッジ』も出たので、今回をきっかけにピンチョンにもぜひ挑戦して欲しい。

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