第9話「沈黙の夜」
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蒼が地元へ戻ると連絡してきてから、三日が過ぎた。
最初の一日は、澪も落ち着いていた。
「今は家族の時間なんだろう」
そう思える余裕があった。
二日目。
蒼から短いメッセージが来た。
「父、入院した。
少しバタバタしてる。
また連絡する」
それだけ。
でも、澪はそれで十分だった。
状況が分かれば、想像の暴走は止まる。
問題は三日目だった。
朝。
連絡はない。
昼。
既読もつかない。
夜。
スマホは静かなまま。
澪はソファに座り、何度も画面を見てしまう。
分かっている。
忙しいのだろう。
病院のこと、家族のこと。
それでも胸の奥で、別の声が囁く。
「また消えたのかもしれない」
その言葉が浮かんだ瞬間、澪は目を閉じた。
この感覚を知っている。
昔の恋でも、同じだった。
相手の事情が見えないとき、
人は自分の不安を真実だと思い始める。
澪は立ち上がり、ノートを取り出した。
ペンを握る。
「今、怖い」
「怖い理由は、沈黙」
「沈黙の意味は、まだ分からない」
「物語を作らない」
澪は深く息を吐いた。
そして、もう一行書いた。
「私は追わない。
でも、私は消えない」
その夜、澪は連絡を送らなかった。
ルールを守るためではない。
蒼を試すためでもない。
ただ、澪自身が
「恐れで動く自分」になりたくなかった。
夜が深くなる。
時計は23時を過ぎた。
静かな部屋。
遠くで電車の音がする。
澪はふと、河川敷を思い出した。
あの日、蒼が言った言葉。
「逃げない」
それを信じたい。
でも、信じるという行為は
時にとても孤独だ。
スマホが震えた。
澪の心臓が跳ねる。
画面を見る。
蒼だった。
メッセージではなく、
着信。
澪は一瞬、呼吸を止めた。
そして通話ボタンを押す。
「もしもし」
声が少し震えた。
電話の向こうで、蒼の呼吸が聞こえる。
静かな、重い呼吸。
「……澪」
その声を聞いた瞬間、
澪は何かが違うと感じた。
蒼の声は、
疲れているだけじゃない。
壊れそうだった。
「どうしたの?」
蒼は少し黙った。
そして、ゆっくり言った。
「父……今日、倒れた」
澪の胸がきゅっと締まる。
「命に関わる感じではないって言われた」
「でも、検査が続いてる」
蒼の声が少し掠れる。
「家族、みんな不安で」
「俺も何をしていいか分からなくて」
沈黙。
電話越しに、
病院の機械音のような微かな音が聞こえる。
澪は何も言わなかった。
慰めの言葉は、
今はきっと違う。
蒼がぽつりと言った。
「澪」
「うん」
「俺……」
言葉が途切れる。
数秒の沈黙。
そして蒼は言った。
「怖い」
その一言は、
澪の胸を深く揺らした。
蒼が「怖い」と言ったのは、
これが初めてだった。
強く見える人ほど、
その言葉を出すのに時間がかかる。
澪は静かに答えた。
「怖いよね」
蒼は少し息を吐いた。
「父のことも怖い」
「でも……それだけじゃない」
澪は黙って聞く。
蒼は続けた。
「この状況で」
「澪を守れるか分からない自分が怖い」
澪の胸が熱くなる。
蒼は言った。
「俺、ちゃんとしてる恋愛をしたいって思ってる」
「でも今は、
仕事も
家族も
全部ぐちゃぐちゃで」
「澪を巻き込んでいいのか分からない」
澪はゆっくり息を吸った。
この言葉の意味を理解する。
蒼は、
離れる理由を作ろうとしている。
優しさで。
澪は目を閉じた。
昔なら、ここで言った。
「大丈夫だよ」
「私は平気」
「支えるから」
でも、それは違う。
それは自分を消す言葉だ。
澪は静かに言った。
「蒼」
「うん」
「私を守ろうとしなくていい」
蒼が黙る。
澪は続けた。
「私は私を守れる」
沈黙。
蒼の呼吸が止まったような気がした。
澪はさらに言った。
「でもね」
「消えないで」
その言葉は、
責める声じゃなかった。
願いでもない。
ただ、
関係を繋ぐ一言。
蒼は長く息を吐いた。
そして、静かに言った。
「消えない」
その声は、
今までで一番弱くて、
でも一番本当だった。
電話はそれほど長く続かなかった。
蒼は「また連絡する」と言い、
通話は終わった。
澪はスマホを胸に当てた。
心臓がまだ速い。
でも、不思議と泣きたくはなかった。
窓の外を見る。
夜の空。
遠くのビルの灯り。
澪は思う。
恋は、
楽しい時間だけで続くものじゃない。
むしろ、
誰かの弱さを見たときに
逃げないかどうかで決まる。
その夜、澪はノートに書いた。
「私は救わない」
「でも、逃げない」
そして最後に、
「これは依存じゃない。
これは選択」
澪はペンを置いた。
静かな部屋。
でも、
この物語はここで終わらない。
むしろここから、
本当の転機が始まる。
蒼の父の状態。
転勤。
距離。
そして、
もう一つ。
蒼自身がまだ言っていない
ある秘密。
その秘密を知ったとき、
澪は大きな選択をすることになる。
第9話 おわり。