転勤が決まった夜から、澪の中で時間の流れ方が変わった。
一日が短い。
短いのに、感情は増える。
嬉しさと不安が同じ場所に居座って、どちらも出ていかない。
翌朝、澪は目覚ましより早く目が覚めた。
胸がざわついている。
頭は静かなのに、心だけがうるさい。
「距離ができる」
それは現実の話なのに、体が先に反応する。
喉が乾く。
肩が硬い。
呼吸が浅い。
澪はベッドの端に座って、指先を握った。
昨日の自分が決めたことを、今日の自分が守れるか。
その確認をするように。
台所でお湯を沸かし、カップを両手で包む。
あたたかさが掌に染みる。
それだけで、少し戻る。
ノートを開いた。
書く瞑想の、いつもの順番。
「怖い」
「寂しい」
「でも終わらせたくない」
「私は私のままがいい」
書くと、感情が暴れなくなる。
暴れるのは、言葉が行き場を失う時だ。
澪はそれを知っている。
昼過ぎ。
蒼からメッセージが届いた。
「今日、電話できる。
20時くらい」
短い。
でも、約束がある文。
澪はそれだけで胸が軽くなった。
「うん。
20時で大丈夫」
返して、スマホを伏せた。
期待しすぎない。
でも、喜びは否定しない。
澪の中で、そのバランスが少しずつ育っていく。
そして20時。
澪は部屋の灯りを少し落とした。
何かの儀式みたいに、静けさを作る。
相手の声を、ちゃんと受け取れる自分でいるために。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
つながる。
「もしもし」
蒼の声。
少し緊張している声。
でも逃げる声じゃない。
「もしもし」
澪はゆっくり返した。
声の温度を整えるように。
「今日、どうだった」
蒼が聞く。
「普通」
澪は言う。
「普通に仕事して、普通にご飯食べて」
「でも、普通の中にずっとあなたがいた」
言った瞬間、少し恥ずかしくなる。
でも、言えるようになりたいと思った。
恥ずかしさより、本音を選ぶ。
蒼が短く息を吐いた。
「……ありがとう」
「ありがとうじゃない」
澪は笑う。
「これは私のため」
蒼も少し笑った。
その笑い方が、昨日より柔らかい。
しばらく、他愛ない話をした。
仕事のこと。
天気のこと。
コンビニで買ったコーヒーが妙に美味しかったこと。
そういう小さな話の中で、澪は安心していく。
「恋愛の話」だけが恋愛じゃない。
生活を共有するような会話が、ふたりを繋ぐ。
澪はそれを大事にしたかった。
けれど、話題が落ち着いたところで、蒼の声が少しだけ変わった。
音が低くなる。
言葉の前に、迷いが混ざる。
「澪」
蒼が言った。
「転勤のこと、ちゃんと話したい」
澪の胸がきゅっとなる。
でも、逃げない。
澪は頷くように声を出した。
「うん。
聞く」
蒼は少し間を置いてから言った。
「行き先、地元の近くになる」
「地元」
その二文字が、澪の中の想像を広げる。
蒼の過去。
家族。
澪がまだ知らない領域。
「なんで?」
澪はできるだけ静かに聞いた。
詰めるためじゃない。
把握するため。
蒼は言った。
「父親が、ちょっと良くなくて」
澪の呼吸が一瞬止まった。
でも、すぐに戻した。
ここで慌てると、言葉が重くなる。
「そうなんだ」
澪は言った。
「大丈夫なの?」
蒼は苦笑した。
「大丈夫って言えるほどじゃない」
「でも、今すぐどうこうってわけでもない」
「ただ、こっちに来いって言われて」
澪は唇を噛んだ。
昨日、蒼が言い切れなかった本音の核はこれかもしれない。
転勤の理由は、仕事だけじゃなかった。
人生の事情が絡んでいる。
「言ってくれればよかったのに」
澪は、責めるより先にそう言った。
それが素直な感覚だった。
蒼の声が少しだけ揺れた。
「言えなかった」
澪は静かに聞く。
「どうして」
蒼は、しばらく黙った。
その沈黙が怖くならないように、澪はコップの水を一口飲んだ。
“沈黙を危機にしない”
今夜はそれを試す夜だ。
蒼が言った。
「澪に、同情されたくなかった」
澪は息を吐いた。
「同情しないよ」
蒼は続ける。
「でも、されるって決めつけてた」
「俺、そういうところがある」
澪は、少しだけ胸が痛くなる。
蒼は人を信用していないわけじゃない。
自分が信用されることが怖いのだ。
信用されたら、壊した時に罪が重くなる。
蒼の中には、そんな恐れがある。
蒼がさらに言った。
「昔」
「家のことで一回、全部がぐちゃぐちゃになったことがある」
澪は黙って聞いた。
今は、質問で掘り返しすぎない。
蒼が話せる速度で話すのが、今夜の正解だ。
蒼は言った。
「その時、俺は何もできなかった」
「何かしたくて、でも何もできなくて」
「結果だけ残って」
「それがずっと、俺の中で怖さになってる」
澪は静かに言った。
「だから、言えなかったんだね」
蒼は小さく笑った。
「澪、怖いくらい分かるね」
澪は言った。
「分かるんじゃなくて」
「ちゃんと聞いてるだけ」
蒼が息を吐く。
その音が少しだけ軽い。
言葉にできた人の呼吸だ。
「ごめん」
蒼が言った。
「俺、澪のことになると」
「失敗したくなくて」
「失敗したくないのに、失敗しそうで」
「それで、黙る」
澪は胸の奥で、自分の過去の癖も思い出した。
寂しいと言えない。
言えないから我慢する。
我慢が限界になって爆発する。
結局、関係が壊れる。
似ている。
ふたりは違うようで、怖さの形が似ている。
だから惹かれたのかもしれない。
澪は言った。
「じゃあ、ルールを使おう」
「今、言葉にできないなら」
「言葉にできないって言っていい」
蒼が少し笑った。
「それ、強いね」
澪も笑った。
「強くなりたいだけ」
蒼が真面目な声に戻る。
「俺、転勤しても」
「逃げない」
「電話する」
「会うために動く」
「だから」
「澪にも、ひとつお願いがある」
澪の胸が静かに緊張する。
お願い。
それは頼ることでもある。
「何?」
澪は聞いた。
蒼は言った。
「俺が黙りそうになったら」
「怒るんじゃなくて」
「一回だけ、短く言ってほしい」
「消えないで、って」
澪の目の奥が熱くなる。
それは、蒼が初めて「助けて」と言う形だった。
大きく頼るのが怖い人が、やっと出せるサイズの頼り方。
澪は言った。
「分かった」
「一回だけ言う」
「二回目は、あなたが言う番」
蒼が笑った。
「うん」
その笑いは、軽かった。
軽いのに、嘘がない。
澪はその音に救われた。
通話を切った後。
澪はベッドに横になった。
目を閉じると、さっきの会話が何度も再生される。
でも、今日は嫌な再生じゃない。
整っていく再生だ。
そのまま、澪は眠った。
夢を見た。
深い青の空。
川の上に、光の橋がかかっている。
橋は最初、細い糸みたいだった。
でも澪が息を吐くたびに、糸は少しずつ太くなる。
橋の向こうに、蒼が立っている。
遠い。
でも、消えていない。
澪が一歩踏み出すと、蒼も一歩踏み出した。
同じ速度。
同じ距離。
その瞬間、誰かの声がした。
澪の声でも、蒼の声でもない。
もっと静かで、内側の声。
「追わない」
「でも、途切れない」
朝、澪は目を覚ました。
胸の奥が不思議に落ち着いている。
転勤がなくなるわけじゃない。
不安がゼロになるわけでもない。
でも、怖さに飲まれない自分がいる。
澪はノートを開いて、短く書いた。
「距離は別れじゃない」
「距離は試練でもない」
「距離は、言葉を育てる」
そして、最後に一行だけ。
「消えないで、を言える私になる」
澪はペンを置いた。
窓の外は、淡い朝の光。
昨日より少し、世界が軽い。
でも、澪は知っている。
ここからが本当の始まりだ。
距離ができた時、人は癖で動く。
不安で追うか。
怖くて閉じるか。
そのどちらでもない道を選ぶには、次の試練が必要になる。
そして次の試練は、もうすぐ来る。
蒼の転勤準備が本格化した時。
忙しさの中で、また“沈黙の癖”が顔を出すかもしれない。
その時、澪はルールを使えるだろうか。
蒼は一言を言えるだろうか。
恋は、気持ちだけで進むものじゃない。
運用で守られる。
運用で育つ。
澪は、昨日より少し強い。
強いというより、静かに整っている。
第7話 おわり。