画面の端で光っている通知を、彼女は何度も見ていた。
差出人の名前は、一ノ瀬 蒼。
たったそれだけで、呼吸の深さが変わる。
胸の奥がきゅっと狭くなる感覚と、逆にどこかが静かに開く感覚が、同時に起きていた。
嬉しい。
でも、怖い。
この二つが同じ強さで並ぶ夜は、返事を打つ指を止める。
内容は短かった。
「久しぶり。
急にごめん。
少しだけ、話せる?」
それだけ。
責める言葉もない。
言い訳もない。
感傷に寄せるような文もない。
だからこそ、余白が多かった。
その余白に、彼女は自分の記憶を何度も流し込んでしまう。
あの日、ちゃんと話せなかったこと。
最後に会った時の、蒼の表情。
言葉より先に伝わってきた、諦めにも似た静けさ。
ずっと仕事が忙しいと言っていたこと。
こちらも余裕がなくて、優しくできなかった日が続いたこと。
どちらが悪いとも言えないのに、終わった後はなぜか「自分が何かを間違えた」と思ってしまう。
そういう別れ方だった。
彼女はスマホを伏せて、マグカップに残っていた冷めた紅茶をひと口飲んだ。
ぬるい。
味がよく分からない。
心がざわついている時は、舌も鈍くなる。
窓の外では、ビルの灯りが規則的に並んでいる。
遠くから見れば整って見える夜景も、近づけば、それぞれに別の事情を抱えた部屋の集まりなのだろう。
明るい部屋。
暗い部屋。
人の気配がある部屋。
帰る人を待っている部屋。
彼女はそんなことを考えながら、自分の部屋の静けさに耳を澄ませた。
返事をした方がいい。
でも、今返すと、気持ちが先走る。
無理に冷静なふりをしても、文章の端に滲む。
昔の彼女なら、ここで二つの方向に揺れていた。
ひとつは、すぐ返す。
「久しぶり。
どうしたの?」と、何でもないふりをして。
もうひとつは、返さない。
読んでいないことにして、時間だけ過ぎるのを待つ。
けれど今は、そのどちらも違う気がしていた。
返事をするか、しないかの前に。
まず、自分の心がどこに立っているのかを見失いたくない。
それが、ここ数か月でようやく身につき始めた習慣だった。
彼女はノートを開いた。
仕事のメモでも、予定帳でもない。
誰にも見せない、自分のためのノート。
気持ちが散らかる夜だけ開く、静かな避難場所。
ページの上に、今日の日付を書く。
その下に、短く一行。
「蒼から連絡が来た。
嬉しい。
でも怖い。」
たったそれだけで、少し呼吸が戻る。
気持ちは、頭の中にあると巨大になる。
文字にすると、輪郭が出る。
輪郭が出ると、対処できる。
彼女は続けて書いた。
「怖いのは、また期待してしまうから。
嬉しいのは、まだ嫌いになれていなかったから。」
書いてから、少しだけ笑ってしまった。
嫌いになれていない。
そんな当たり前のことを、まるで秘密みたいに抱えていた自分が可笑しかった。
その時、机の上のスマホが一度だけ震えた。
反射的に手を伸ばしかけて、止める。
見なくてもいい。
今は先に、自分を落ち着かせる。
そう決めた。
洗面所へ行き、手を洗う。
ぬるめの水を手首に流す。
少し長めに。
緊張した日ほど、手首を冷やすと頭の熱が下がる。
鏡に映る自分は、思ったより疲れた顔をしていた。
最近ずっと忙しかった。
新しいプロジェクトの引き継ぎ。
上司の雑な指示。
気を遣う会議。
家に帰ってからも、何かに追われているような感覚が抜けない日が続いていた。
そんな時に来た「久しぶり」の四文字は、ただの連絡以上に効く。
心の柔らかいところに、真っすぐ触れてくる。
彼女はタオルで手を拭きながら、小さく息を吐いた。
「今の私は、どうしたい?」
誰かにどう思われるかではなく。
正しい返事は何かでもなく。
今の自分が、明日の自分に残したい選択は何か。
この問いは、すぐに答えが出る時と、出ない時がある。
今夜は、半分だけ答えが見えていた。
返事はしたい。
でも、感情の勢いのままは嫌だ。
その「半分」が分かるだけでも十分だった。
部屋に戻ると、スマホの通知は蒼ではなく、同僚の里奈からだった。
「明日早いのに起きてる?
例の資料、データ見つかった笑」
いつもの軽い文面に、少し救われる。
彼女は事情は言わず、「起きてる。
ありがとう、助かる」とだけ返した。
日常のやりとりは、心を現実に戻してくれる。
恋愛で揺れている時ほど、生活の手触りが大事になる。
机の上のノートを閉じて、もう一度スマホを手に取る。
蒼のメッセージ画面を開く。
既読をつける前に、しばらく画面を見つめた。
不思議と、前より怖さが少し薄れている。
ノートに書いたことで、自分の気持ちを置き去りにしなかったからだろうか。
それとも、今日という日に限って、心のどこかが「逃げなくていい」と言っているからだろうか。
彼女はようやく既読をつけた。
それだけで、また胸が跳ねる。
相手に見えないはずなのに、自分の中では大きな一歩だった。
返信欄を開く。
「久しぶり。
大丈夫だよ。
どうしたの?」
打って、消す。
軽すぎる。
「連絡ありがとう。
急でびっくりしたけど、元気でしたか?」
打って、また消す。
優等生すぎる。
「少しなら大丈夫。
今夜は遅いから、明日でもいい?」
そこで指が止まった。
これだ。
気持ちを閉じすぎていない。
でも、相手のペースに全部合わせてもいない。
彼女は文章を見直した。
余計な言葉を足さない。
過去の話も入れない。
探るような一言も入れない。
今の自分が安心して出せる温度で。
それだけを守る。
送信ボタンの青い色が、いつもより少し眩しく見えた。
押す。
送れた。
送った直後に、急に体の力が抜ける。
大きなことをしたわけではないのに、心は小さな山を越えた時みたいに静かだった。
彼女はスマホを置いて、ベッドに座り込んだ。
窓の外で、風が強くなっている。
カーテンが少し揺れた。
その揺れ方が、なぜか懐かしかった。
昔、蒼と一緒にいた頃。
帰り道に風の強い橋を渡りながら、蒼が「こういう日って、余計なもの飛ばされる気がする」と言ったことがある。
彼は時々、現実的な顔をしているのに、ふとスピリチュアルみたいなことを言う人だった。
星座の話を信じるわけじゃないのに、満月の日は少し静かになる。
占いを笑うわけじゃないのに、「結局、自分がどうしたいかだよね」と最後に言う。
彼女はそこが好きだった。
ふわふわしていないのに、見えないものを切り捨てないところ。
自分の感覚を、無理に説明しなくてもいいと思わせてくれるところ。
画面がまた震えた。
蒼からだった。
「ありがとう。
明日で大丈夫。
少し聞いてほしいことがある。」
短い。
でも、前よりもずっと誠実に見えた。
彼女は返信せず、画面を閉じた。
今夜はここまででいい。
会話を続けようと思えば続けられる。
でも、心が整ったまま眠りたい。
それも立派な選択だ。
ベッドに入ってから、彼女は天井を見上げた。
何かが始まる時には、派手な合図があると思っていた時期がある。
運命みたいな再会。
ドラマみたいな言葉。
一気に埋まる距離。
でも本当は、始まりはもっと静かだ。
返せなかった返事を返せた夜。
感情をぶつけずに、自分の温度で言葉を選べた夜。
そういう小さな回復の積み重ねの先に、関係の再スタートがあるのかもしれない。
眠りに落ちる直前、彼女はふと、胸の真ん中に薄い光が灯るような感覚を覚えた。
大げさなものではない。
祈りとも違う。
ただ、「私は私を置いていかなかった」という静かな安心だった。
その安心は、誰かに愛される前に必要な土台みたいに思えた。
翌朝。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
いつもより少しだけ、頭が軽い。
カーテンを開けると、空はまだ淡い青で、街全体が目を覚ます途中の色をしていた。
スマホを見る。
蒼から新しいメッセージは来ていない。
それなのに、不思議と落ち着いている。
待つ時間に飲み込まれていない。
昨夜、自分の心を先に整えたからだろう。
彼女はコーヒーを淹れながら、今日やることを頭の中で並べた。
午前は会議。
昼までに資料修正。
夕方に里奈と最終確認。
そして、夜。
蒼の「聞いてほしいこと」を聞く時間。
その言葉を思い出した時、胸の奥にまた小さな揺れが起きた。
でも、もうそれを怖いだけの揺れとは感じなかった。
揺れること自体が悪いわけじゃない。
揺れた時に、自分の中心へ戻れるかどうか。
今の彼女は、少しずつそれを覚え始めている。
出勤前、玄関で靴を履きながら、彼女は一瞬だけ立ち止まった。
昨日までなら見過ごしていたような、ごく小さな感覚。
「今日は、何かがほどける日になる。」
根拠はない。
けれど、不思議とそう思った。
当たるかどうかは、どうでもいい。
大事なのは、そう感じられるくらい、自分の心に戻ってこられていることだった。
ドアを開ける。
朝の空気は冷たい。
でも、息はしやすい。
彼女はスマホをバッグにしまい、駅へ向かって歩き出した。
まだ何も解決していない。
蒼が何を話したいのかも分からない。
関係が戻るのか、戻らないのかも分からない。
それでも、昨夜の自分より、今日の自分は少し進んでいる。
恋が動く時、最初に動くのは相手ではなく。
自分の内側の「整い方」なのかもしれない。
そのことを、彼女はまだ言葉にできないまま。
けれど確かに感じながら、朝の人波の中へ入っていった。
第3話 おわり。