第4話「聞いてほしいこと」

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昼の光は、夜の揺れを少しだけ薄める。
でも、消すことはできない。

澪は午前の会議を淡々と終えた。
資料の修正も、上司の雑な言い回しも、いつも通り受け流した。
けれど、心の奥だけはずっと違う場所にいた。

「夜、蒼の話を聞く」
それだけが今日の中心にある。

仕事は仕事。
恋は恋。
そう分けてきたはずなのに。
今日は境界線が少しだけ柔らかい。

昼休み。
澪は屋上へ上がった。
風が冷たくて、頭が冴える。
スマホを見る。
蒼からの新しいメッセージはまだない。

それでも不思議と焦りはなかった。
昨日、返せた。
自分の温度で返せた。
それだけで、心の奥に小さな安心が残っている。

澪はコートのポケットに手を入れ、胸の奥で一度だけ確認した。
「私は、何を怖がってる?」

答えは、簡単だった。
また期待して、また傷つくこと。
言葉の端に揺れが出て、相手に「重い」と思われること。
そして何より。
自分が自分を見失うこと。

その時、スマホが震えた。

「今日、少しだけ時間もらえる?
夜じゃなくても大丈夫なら、昼でも」

蒼からだった。
短い。
でも、必死さが混じっている。

澪の心臓が早くなる。
昼に会うのは想定外だ。
想定外は、澪を揺らす。
揺らすけど、同時に“逃げられない”状態を作る。

澪は、すぐ返信しなかった。
息を吐く。
一拍置く。
それだけで、自分が戻る。

そして短く返した。

「今なら15分だけ。
屋上にいる」

送った瞬間。
手のひらが少し汗ばむ。
澪は空を見上げた。
雲が薄い。
太陽がぼんやりと透けている。
まるで、何かが決まる前の空みたいだった。

数分後。
屋上の扉が開く音がした。
足音。
止まる。

澪は振り返らなかった。
先に顔を見てしまうと、感情が動きすぎる気がした。

「……澪」
名前を呼ばれて、澪の肩がわずかに揺れる。

聞き慣れた声。
でも、少しだけ痩せた声。
以前より低く、静かだった。

澪はゆっくり振り返った。

蒼はそこにいた。
黒いコート。
髪は少し伸びている。
目の奥が疲れているのに、視線だけは真っ直ぐだった。

会ってしまった。
それだけで、澪の胸は痛いほど熱い。

「急にごめん」
蒼が言った。
「夜まで待てなくて」

澪は頷くだけで返した。
言葉が出ない。
出そうとすると、声が震えそうだった。

沈黙。
冷たい風が間に入る。

蒼が先に息を吐いた。
「……聞いてほしいことがある」

澪は小さく頷く。
頷けるだけで十分だ。
今は“話す”より“受け取る”が優先だと、心が知っている。

蒼は手をポケットから出して、拳を軽く握った。
握って、開いて。
迷いが指先に見える。

「俺さ」
蒼は視線を外し、空の方を見た。
「ずっと、連絡しようと思ってた」

澪は、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。

「でも、できなかった」
蒼の声が少しだけ苦くなる。
「自分の中が整ってなくて。
言葉を選べば選ぶほど、何も言えなくなって」

澪はそれを否定しなかった。
「そんなの嘘でしょ」とも言わなかった。
責めたい気持ちがないわけじゃない。
でも今は、それよりも先に確かめたいことがあった。

蒼は続けた。
「一つ、ちゃんと謝りたい」

澪の喉が詰まる。
風が強くなる。
それでも蒼の声は、ぶれなかった。

「俺は、澪を置いた」
「澪が何を感じてたか、分かってたのに」
「分かってるのに、逃げた」

澪は目を伏せた。
泣きたくない。
でも、目の奥が熱い。

「……謝られても」
澪はやっと言葉を出した。
声は小さかった。
「すぐ許せるわけじゃない」

蒼は頷いた。
「分かってる」
「許してほしいって言う資格はない」

その言葉は、澪の胸に静かに刺さった。
“謝る”って、こういうことなんだ。
許されるためじゃなく、事実を引き受けること。

蒼はさらに言った。
「俺さ、最近ずっと……怖かった」

澪は顔を上げた。
「何が?」

蒼の喉が動く。
答えるまでに一拍置いた。

「澪が、ちゃんと幸せになること」

澪は一瞬、意味が分からなかった。
幸せになるのが怖い?
そんな訳ない。
でも蒼の表情は真剣だった。

「俺がいなくても澪は生きていけるって、分かってた」
「でも、それを見せつけられるのが怖かった」
「自分が要らない存在になる気がして」

澪は、胸の奥が苦しくなった。
蒼の弱さが見える。
そしてその弱さが、前よりずっと人間らしい。

蒼は続けた。
「だから、離れた」
「離れたら落ち着くと思った」
「でも逆だった」

澪は言葉を探した。
探したけれど、すぐに出てこない。

蒼が少し笑った。
苦笑に近い。

「自分で自分の首絞めてるって分かってたのに、止められなかった」

澪は、やっと一つだけ言えた。
「……それって、ズルいよ」

蒼が澪を見る。

澪は続ける。
「私が幸せになるのが怖いって言うの、ズルい」
「それ、私の人生を使って自分の不安を埋めようとしてるのと同じじゃない?」

言った瞬間、澪は自分でも驚いた。
言えた。
ちゃんと。
感情で殴ってない。
でも、本音だ。

蒼は目を逸らさなかった。
逃げなかった。

「……そうだと思う」
「だから、俺は変わりたい」

その言葉で、澪の呼吸が一瞬止まる。
変わりたい。
その言葉を、澪は何度も聞いてきた。
過去の恋でも。
過去の自分でも。

でも、今日の蒼の言葉は少し違った。
「変わりたい」じゃなく
「変わる必要がある」
そんな重さがあった。

蒼は言った。
「澪がどう感じてるか」
「それをちゃんと聞きたい」
「俺の言い訳じゃなくて」

澪は、胸の奥で何かが揺れた。
でもすぐに、地面に足を置いた。

「じゃあ、聞くよ」
澪は言った。
「私は、ずっと寂しかった」
「でも、寂しいって言うのが怖かった」
「言ったら、重いって思われる気がして」

蒼の目が少し潤む。
でも涙は落ちない。
落とさないようにしている。

澪は続ける。
「寂しいのに我慢して、我慢したのに限界になって」
「そのとき、あなたはいなくなった」

蒼の肩がわずかに落ちた。
「……ごめん」

澪は首を横に振った。
「謝って終わりにしたくない」
「終わりにしたら、私の寂しさがまた置き去りになる」

蒼は頷いた。
「終わりにしない」

沈黙が落ちた。
でも今度の沈黙は、怖くなかった。
怖い沈黙じゃなく、整える沈黙。

澪は空を見上げた。
風が少し弱くなっている。

そしてふと、昨日の夢の言葉が浮かぶ。
焦らないで。

澪は、蒼を見た。
「私たち、すぐ戻れると思う?」

蒼は一瞬迷ってから、正直に言った。
「分からない」
「でも、戻りたい」
「戻れるように、俺はやる」

その「分からない」が、逆に信頼できた。
分からないと言える人は、誤魔化さない。

澪は小さく息を吐いた。
「じゃあ、ひとつだけルールを作ろう」

蒼が頷く。
「何?」

澪は言った。
「沈黙したくなったら、消えるんじゃなくて」
「“今は言葉にできない”って一言だけ言って」

蒼はすぐ頷いた。
「できる」

澪は続ける。
「私も、寂しい時に我慢しすぎない」
「“寂しい”って言えるようにする」

蒼の目が少し柔らかくなる。
「……ありがとう」

澪は首を振った。
「ありがとうじゃない」
「これは私のため」

蒼は笑った。
その笑い方が、少しだけ昔に戻っていた。

昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで鳴った。
澪は時計を見る。
時間は本当に15分しかなかった。

蒼が言った。
「夜、ちゃんと話したい」

澪は頷いた。
「うん。
でも、今日のところはここまででいい」

蒼は少し驚いた顔をした。

澪は言う。
「ここまでで、私の心は十分動いた」
「これ以上は、揺れすぎる」

蒼は頷いた。
「分かった」
「ちゃんと、整える」

澪は階段へ向かいながら、胸の奥で静かに確認した。
私は、私を裏切らなかった。
期待で走らず、恐れで閉じず。
ちゃんと自分の温度で進んだ。

それだけで、今日の空は少しだけ明るく見えた。

夜。
本当の会話が始まる。

そして。
澪はまだ知らない。
蒼が「聞いてほしいこと」を言い切れなかった理由が、もう一つあることを。

続く。
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