💎家族は生きる上で何にもまして大切なものなのです!
人生には、さまざまな時期があります。
現代人で言えば、赤ん坊から幼少期があり、学生の時期があり、
働く時期があって、老後があるということになるでしょうか。
時間的には、働く時間が一番長いはずです。
そこで働くことに主眼が置かれてしまいます。
定年退職してからを余生などというのは仕事至上主義に毒されている証拠と
思われませんか⁈
よく考えてみると、”余りの生”などというものがあるのでしょうか。
どの時期のどの一瞬もそれきりの生なのです。
働いている間は充実の生で、その後は余りの生だというのは、
命に対して失礼千万な話だと思われませんか⁈
ちなみにインド人は人生を四つの時期に分けています。
学生期、家住期、林中期、遊行期です。
学生期は文字通り、勉学に謹み真理を学ぶことに主眼が置かれる時期です。
家住期は職業に専念する時期です。
家に住むことがすなわち、職業に専念することになります。
林住期は隠居の時期です。そして、最後の遊行期は悠々自適に暮らすことと
いってもいいと思います。
しかし、この林住期と遊行期の違いは?
教育ということから考えると、
学生期はみずから勉強する時期、教育を受ける時期、
それを経て入る家住期は父親や母親になって子供を教育する時期になると思います。
林住期はさらに年月を経て祖父母になり、おじいちゃん、おばあちゃんとして
孫を教育する時期という事です。
そして、遊行期は教育ということから離れて気ままに生きる時期になる。
こうすると四つの時期が明確に分かれるわけです。
つまり、インド人は子育てということを中心にして人生を考えているという事です。
この点で今の日本人とは大きく違っているところです。
子供を産まないのだからそれも仕方のないことと思います。
日本人の出生率(合計特殊出生率)は1.29人(平成16年)です。
この数字の意味するところは、子育てをしない大人の増加を意味しています。
この数字は今も変化なしかあるいはもっと低くなっているのではないでしょうか?
子育ての時期は、まさに働く時期と重なります。
そこから”子育ての時間”がすっぽり抜け落ちたら、ますます働くことにしか
目が向かなくなるはずです。
仕事には、経済的仕事、つまりおカネになる仕事と非経済的仕事が
あるわけですが、日本人にとっての仕事は前者です。
しかし、かつては働く人間に
「おカネのために仕事をしてるんじゃない」というプライドがあったのです。
いくら大枚をはたかれても、札束を積まれても「意に沿わない仕事はしない」
と啖呵(たんか)のひとつも切る気概を持っていたんですね。
カネの為の仕事を馬鹿にしていたのです。
それが今はすっかり逆転してしまって金、金、金に成り下がっているはずです。
プライドのないエコノミックアニマル(おカネの奴隷)、
それが現代日本人の実像のはずです。
やはりどこか歪んでいると思われませんか?
故に本来の人間の感覚にもどりつつという事が必要となるのです。
だから孔子のいうところの面従腹背という感覚が必要となってくるのです。
昔、阪神タイガースに看板選手であったランディーバースという選手がいました。子供が水頭症になったので、”そばについていてやりたい”という理由で
帰国したのです。シーズン中に!
阪神球団は、再三来日を呼びかけましたが、バースは頑として受け付けなかったのです。
”病気の子供のそばにいること以上に大事なことはない”と言いたかったと思います。
当然のことなのです。このフィーリングが!!!
ところがこの点が日本人とは大きく違うところなのです。
紙一重です。
自ずとこのフィーリングの違いは、人生の結果に大きな隔たりをもたらすのです。
💎「建前家族」から「本音を言い合う家族」へのフィーリング!
「みんな私に”お母さんの面倒をみるなんて大変ね”というけれど
私は好きで世話をしているの。楽しいからやっているのよ。
”大変ね”なんて心外だわ」
確かにそう思うのです。
しかし、日本人は老後の親と子の関係を
「親の世話=大変、苦労」という図式に無理やりはめ込もうとします。
親の世話は、子どもの義務であり、誰もが心ならずもやっていると
考えすぎていると思うのです。
現実に楽しいからやっている人も少なくないはずです。
そこに目を向けようとはしないだけと思うのです。
結婚というものが肉体の快楽を貪り、楽しい時間だけを共有するのが結婚生活
夫婦の在り方だと考えていませんか?
ともに苦労する喜びというものを忘れていませんか?
それから、家族の中にたった一人でも不幸と思える人がいたら
家族全体が不幸という事なのです。それが家族というものではないでしょうか!犠牲の上に成り立つ家族全体の幸せなど存在しないはずです。
たとえば、田舎から妻の両親が出てくることになった。夫は妻に言います。
「お父さん、お母さんが来るのだったら、その日はみんなであそこの
レストランに食事をしに行こう」
当日はあいにく朝からの雨です。夫はこう思うんですね。
「雨かぁ。約束はしたものの、この雨じゃ行くの嫌だな。
家でゆっくりしていた方がいいににな」
しかし、妻の顔を見て思い返します。
「嫁さんにああ言っちゃったし、やっぱりレストランに行かないとまずいな。
俺がちょっと我慢をすればいいことなんだから、行くしかないか」
一方、妻の方はと言えばこんな思いが渦巻いています。
「両親も慣れない東京に出てきて疲れているんだから、今日は家で食事を
した方がいいんじゃないかしら。私もその方が楽だし。
でも、夫があんなに言ってくれているのだから、やっぱり行かなくちゃいけないわね」
そこで妻は、両親にレストラン行きを誘います。両親は思います。
「私ら田舎者だし、家でお茶漬けでもさらさらというのが一番いいんだけど。
でも、婿殿もああいってくれるし、娘もレストランに行くのを楽しみにしているみたいだから、家にいたいだなんていえないな。
ここは無理してでもいくか。」
こどもたちはどうでしょう。
「宿題もあるし、行きたくないなぁ。だけど、お父さんもお母さんもあんなに
張り切っているし、おじいちゃん、おばあちゃんも喜んでいる。
まぁいいや、ここはレストランに行くのが孫のつとめかもな」
かくて、雨の中、家族全員でレストランに向かいます。
日曜日で混んでいるレストランでは散々待たされてサービスもおざなりです。
沈みがちな気分を何とかいい方向に向けようと、
帰りはタクシーを奮発するものの、タクシーの運転手の粗暴な対応に
腹立たしさばかりが募って!
極端な例かもしれませんが、なきしにもあらずです!
楽しいレストランでの食事が家族全員を不幸にしている皮肉な構図です。
この原因はどこにあったのでしょうか?
「自分さえ我慢すれば!」という犠牲的精神をそれぞれが発揮したことに
あるのは明白です。
誰か一人でも「この雨だし今日はやめにしない!」と率直に言えば、
家族全員が心から楽しんで鍋でも囲み、最後はお茶漬けでしめる食事になったはずです。
家族の中での犠牲的精神は、幸せをもたらすどころか不幸につながるという事を考えるべきと思うのですが。
誰もが本音を言える。それが家族です。
しかし、本音が言えない家族が日本中を席巻しているのが現実でしょう。
なぜそうなってしまっているのか?
家族の一人ひとりにとって本当の意味で家族が基盤になっていないからです。
家庭にいながら夫は会社の事を考えている。
妻は妻で夫がゴロゴロしているのに眉をひそめています。
子供もも気持ちは家族にあらずです。
「オヤジが家にいるとうっとうしいな!おふくろの機嫌も悪いし、
友だちの家にでも行くか」と。
今は、家庭で家族それぞれにあったスマホの取り扱いまっしぐら!
これでは弧人がたまたま同じ空間にいるにすぎません。
夫は会社と仕事が、妻は自分の時間が、子どもは友人が
そして、さらにスマホがそれぞれ大事なのです。
一大決心が必要です。
「家族が絶対的に一番大事だ!家族が生きるための基盤なんだ!」と
強くその思いを持つことです。
表面を取り繕うことに汲汲(きゅうきゅう)としている建前家族を脱し、
本音の家族になるにはこの思いしか道はないのです。
💎しがらみを断ち切るフィーリング!
しがらみ=世間のものさし&常識のものさし
「虚仮(こけ)」=内容に真実味がない事。実体がないこと。
世間というものが嘘偽りに満ち満ちていることは聖徳太子が指摘しています。
「世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」
聖徳太子が残している言葉です。
世間は、嘘偽りだらけで、ただ仏のみが真であるというのが言葉の意味合いです。
世間のいい加減さとは、
戦時中、世間はこんなスローガンを掲げました。
「欲しがりません、勝つまでは!」
国民にすべからく耐乏生活を強いたわけです。
ところが、戦争後の復興期から経済成長期になると、世間はどうなったでしょうか?
舌の根も渇かぬうちにそれまで敵として固く戒めていた「贅沢」をあおるようになりました。
散々「贅沢は敵だ」といっておきながら、
今度は平気で「贅沢は素敵だ」といったのです。
「鬼畜米英」は一転して「アメリカ万歳」となり、天皇は、勝手に人間になりました。
この二枚舌こそ世間の本質です。
それから、日本人にはこういうことがよくあります。
”俺があれだけ信じていたのにあの野郎に裏切られた”と怒るという事です。
裏切られると感じるのは、裏切られるようなものを信じた人間が
”バカ”という事です。
自分の馬鹿さ加減を恥じることはことはあっても怒る理由などは
どこにも存在しないのです。
神仏のみが信じるに足るものです。
世間や人間関係など嘘っぱちで信じるに値しないのです。
世間に裏切られた、人に裏切られたなどと悔やんだり、恨み言を言ったりするのは、はなはだ認識不足なのです。
それらはすべて「虚仮」なのです。
つまりは、まともに相手にするような人間ではないという事です。
💎いらないもの(必要のないもの)を買わされるカラクリを
知っておくフィーリング!
大枚をつぎ込んで高級品とされるものを購入し続けている人は、
その本当の価値を知っているのでしょうか?
高級車に二千万円?二千万円の価値とは?
道路にでれば大渋滞です。
高速道路に乗ったところで飛ばせません。
飛ばしたらお浄土行きです。
高級車も移動手段としての車という点から考えたら
使い勝手は五十万円のポンコツ車となんら変わりません。
価値は五十万円の価値です。
では残りの千九百五十万円は、いったい何に対してつぎこまれているのでしょう!
「欲しい、欲しい」という欲望がかきたてるイライラ感など
マイナスの価値を埋めるためにつぎ込まれているのです。
実質価値が五十万円のものに二千万円も払って
みずからが作り出したマイナス価値をチャラにしているのですから
馬鹿げた話です。
しかも、欲望を植え付けるおカネは、自分が払っているのだから
始末が悪い。
メーカー側は、
「豊かな生活のシンボル」「ステイタスの象徴」「モテる男の必需品」
か知りませんが、美辞麗句を並べ立てた広告コピーを打ち出し
巨額をかけたCMの垂れ流し。
あくまでもカッコいいのは、車です。
買って乗ったからと言って、その人がカッコよくなるはずはありません。
あしからず!!!
それらの費用の一切合切は、実質価値五十万円を二千万円で売ることで
賄われているのです。
この「カラクリ」にこそ気づくべきです。
だいたい「欲しいもの」を感覚だけで買うとロクな事にはならないのです。
”あなたの欲しいものを買うな。あなたの必要とするものを買いなさい”と
いうことです。
欲望の何たるかを見抜いている言葉といえると思います。
次にマイホームです。
日本においてマイホームは買うべきではないと思います。
家族の幸せの基盤の様に宣伝されて「欲しい、欲しい」を喚起させる
マイホームですが、それを手に入れたら何がもたらされるでしょう。
日本では家を建てられる場所は、都会では不可能です。
お父さんは朝子供をたちが寝ている間に朝食もそこそこに家を出ます。
お母さんは子どもを送り出すとローン返済のためにパートに出ます。
子供たちが学校から帰ってきても迎えるお母さんはいません。
夫婦疲れ切っているのでそこには会話がなく、風呂を浴びたら寝床に倒れ込みます。幸せの基盤の上で展開されるのはこんな毎日なのです。
それぞれが孤独で家族の絆は断ち切られてしまいます。
会社からほどほどに近いマンションあるいは借家暮らしではいけなのでしょうか?これだとコミュニケーションが十分にとれると思うのですが....!
住宅という事にまで経済活動の種という感覚が蔓延しているのです。
どうもこの辺は日本という国は江戸時代から変わっていないと思っている次第です。
💎老後、嫁姑問題、世捨て人、大地震へのフィーリング!
みなさんはどんな老後を迎えたいと思っていますか?
「そう贅沢は言わない。家族が明るく健康で朗らか(ほがらか)に暮らせれば、それで....]
「明るく、健康、朗らか」が、いわば安楽な老後の三種の神器という分けですが、こんな考え方が多数派なのでしょう。
しかしなぜ
「明るい老後でなくてはいけない」
「健康な老後でなくては困る」
「朗らかに暮らせる老後がいい」のでしょうか?
答えははっきりしています。
世間のものさしが老後はそうあるべきだ、としているからです。
ネクラが個性だという人には、辛いことでしょうね。
病気になった人には針の筵(むしろ)です。
個性を否定され、病んだ自分を恨んで老後を生きなければならないのですから。
朗らかに暮らすのもしんどいことです。
たとえば、こども世代と一緒に生活することにでもなったら、
必ず嫁姑問題が立ちはだかります。
嫁と姑の対立は、人類が何万年も悩んできた問題です。
しかもいまだに解決策は見つかっていません。
にもかかわらず、朗らかに暮らすにはこれを解決しなければなりません。
いがみ合いは朗らかな暮らしの天敵です。
「私は、嫁にこれほどまでに協力してやっているのに、
嫁の事をできる限り考えてやっているのに、
あの嫁ときたらちっとも私のことをわかっていない。
私がやっていることに応えてくれない。」
これが頑張っている姑の言い分です。
一方嫁だって負けてはいません。
「私がどれだけお義母さんに気を使っているかわかってるのかしら?
こんなに尽くしているのにその百分の一、いいえ、千分の一の
思いも返してくれやしない」
両者、頑張った挙句相手に腹を立てているのだからおかしな話です。
嫁も姑も相手のことなど考えなければ、腹も立たないし
はるかに楽しく暮らせるのです。
考えることが楽しければ考えれいいし、楽しくないのなら考えなければ
いいのです。
楽しくもないのに義務的に考えるから鬼嫁になるのだし意地悪ばあさんになるのです。
「どうぞ、ご自由に生きて下さい」というかかわり方なら決して腹は
立ちません。
また、夫婦間で、
私は、「あなたのために~」「あなたの為を考えて~」ということに
押し付けがましさを感じます。
女房は亭主に向かって「あなたの為にこんなに一生懸命にいるのよ」
などと言いますが
「ほっといてくれ」と言いたいですね。
一生懸命に考えるのも、一生懸命何かするのも、言ってみれば自由だが
それならせめて
「あなたのことを一生懸命に考えさせてください。
あなたの為に一生懸命何かさせてください。
あなたにはお邪魔かもしれないし、ご迷惑かもしれませんが
すみません、ひとつお願いしますね」というくらいの後ろめたい
気持ちでやってほしいものです。
ある人が世捨て人になって山奥に入ります。
山奥までの険しい道の途中には底を川が流れる深い谷があって
丸木橋が一本かかっています。
この丸木橋が山奥と里をつなぐ唯一のライフラインなわけです。
世捨て人は考えます。
「もし、この丸木橋が壊れたらどうしよう。
里に下りられなくなったら食料はどうすればいいんだ。」
不安だらけでいた世捨て人があるときふと悟るわけです。
丸木橋が壊れて里に下りられなくなったら、
それは仏様がそう決められてことなんだ。
仏様がお決めになって、私の命が尽きるだけの事じゃないか。
そう思ったとたん不安は、雲散霧消(うんさんむしょう)して
安らかに暮らせるようになったというんですね。
明るく健康で朗らかに暮らす老後、なんてことを思い描くから、
それに縛られて「そうならなかったらどうしよう」と不安にもなるのです。
丸木橋一本に悩む世捨て人と同じです。
どんな青写真も全部絵にかいた餅でしかありません。
いくら思い描いたって、暗く病気がちで鬱々とした老後がやってくるかも知れないのです。仏様がお決めになることですから人知の及ぶところではないという事です。
大地震というものについて。
危機管理などと言ってリュックサックに懐中電灯やラジオ、非常食に
水などを詰めておくように奨励もされています。
実際に、政府の沙汰に従っている人が少なくないんでしょうね。
しかし、よく考えて見て下さい。
そんなリュックサックを準備しておいたとしても役にたつと思いますか?
大地震が予測不能であることは誰でも知っています。
つまり大地震は、不意に襲ってくるのです。
その時どこにいるか?これも予測不能です。
地下鉄に乗っているかもしれません。
喫茶店で打ち合わせをしているかもしれません。
スーパーでショッピングカートを押しているかも知れないのです。
だとすれば、家に置いてあるリュックサックは何の役にも立ちません。
リュックサックが役に立つのは、大地震予知が可能になって
「今日午後三時二十分に大地震が発生しますから、外出を避けて
家でリュックサックを抱えていてください。」
という事前情報が出せる状況になった時だけです。
もちろん大地震に対する備えをしなくてもいいと言っているのではありません。
行政は、綿密に準備しておくべきです。
シュミレーションを行い、
物資をどのルートで運ぶか、火災対策はどうするのか
医療サービスはどうするのかなどなど
およそ想定されることに対しての策はできうる限り立てておかなければいけない。それが行政の仕事であり、そのために国民は、税金を払っているわけですから。
個人は何もする必要はありません。
行政が迅速に動けば食料も水も、ヘリコプターを飛ばして運ぶのは
造作もないことのはずです。
懐中電灯やラジオだって他府県から提供してもらう算段をつけておけば
不自由はしません。
老後についても行政にはしてもらわなければ困ることはいくらでもあるでしょう。しかし、私たちひとりひとりが考えること、やることは何もないんですね。
明るく健康で朗らかに、なんて幻のスローガンを掲げることはすぐにやめましょうよ。
今を少しでも楽しく生きればそれでいいんです。