💎心配またよし!
何の心配もなく、何の憂い(うれい)(悩み)もなく、何の恐れもない
ということになれば、この世の中はまことに安泰(あんたい)、
きわめて結構なことでありますが、実際はそうではありません。
人生常に何かの心配があり、憂いがあり、恐れがあります。
しかし、本当は、それらのいわば人生の脅威ともいうべきものを懸命に
そしてひたすらに乗り切って、刻々と事なきを得てゆくというところに、
人間としての大きな生きがいをおぼえ、
人生の深い味わいを感じるということが大事なのです。
この心がまえがなければ、この世の中はまことに呪わしく
人生は、ただいたずらに暗黒ということになってしまいます。
憂事に直面しても、
これを恐れてはならない。
しりごみしてはならない。”心配またよしです”。
心配や憂いは、新しくものを考え出す一つの転機ではないでしょうか!
そう思い直して、正々堂々とこれと取り組むのです。
力を絞るのです。知恵を絞るのです。
するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのです。
新しい道が開けてくるのです。
まことに不思議な事ですが、この不思議さがあればこそ
人の世の味わいは、限りもなく深いといえると思います。
💎視野を広く!
世の中は広い。
その広い世の中を狭い視野で進めば行き詰ります。
人生は長いです。
その長い人生を狭い視野で歩めば息が切れます。
視野の狭い人は、わが身を処する道を誤るだけではなく
人にも迷惑をかけます。
だからお互いの繫栄の為にお互いの視野の角度を
グングン広げなければなりません。
十度の視野は十五度に!
十五度の人は二十度に!
もっとも百八十度まで広げてみても、それでようやく
ものごとの反面がわかっただけだから、
本当はグルリと三百六十度を見渡さなければなりません。
それが、真の融通無碍(ゆうずうむげ) つまり、
解脱(げだつ)というものではないでしょうか。
だがなかなかにこうはいきません。
百八十度も広がればたいしたもので
普通は、せいぜい十五度か二十度ぐらいの視野で
日々を歩んでいるのではないでしょうか。
だから争いが起こる、悩みが起きる、そして、繁栄が損なわれるのです。
視野を広く、どんなに広げても広すぎることはありません。
おたがいの繁栄と平和のために、誰もが
広い視野を持つように心がけたいものです。
融通無碍(ゆうずうむげ):すべてに行きわたり滞りがない事。
解脱(げだつ) :迷いを脱して悟りの世界に入ること。
💎絶対の確信!
この世の中、この人生、
人はすべからく絶対の確信を持って力強く歩むべしと言われます。
それはまことにそうだけれども、よく考えてみれば、
この人の世に、絶対の確信などあり得るはずがありません。
持ち得るはずがありません。
刻々に変わりゆくこの世の中、あすをも知れぬ人の世で
神か仏でない限り、絶対に間違いのない道など本当はないのです。
だからこそ、おたがいに過ち少なく歩むために
あれこれと思い悩み精いっぱいに考える。
その果てにどうにもほかに道がなさそうで、だから
この道がいちばんよさそうで、そう考えて、それでもまだ心もとなけれども
心もとないままではしかたがないから、
そこに勇気を奮って歩み続けるのです。
自らを励まし励まし歩み続けるのです。
確信ありげに見えても、本当は手さぐりの人生で
まことにつつましやかなものなのです。
たよりないといえばたよりないかもしれませんが、
”持てもしない絶対の確信に酔うよりも”
この心がまえで謙虚に歩む方が、われも他人も傷つくことが少なくて
結局は最良の道になるのではないでしょうか!
💎ものの道理!
人間おたがいに落ち着きを失ってくると
他人の庭の花がなんとなく赤く見えてきて、
コツコツまじめにやっているのは自分だけ、
人は、皆ぬれ手でアワ、ラクをしながら何かボロイことをやっているように
思えてならなくなります。
だから自分も何か一つと思いがちだが、そうは世間は許しません。
人情として、ときにこんな迷いを持つのもムリはないけれど
この世の中に、決してボロイことはないのです。ラクなことはないのです。
あるように見えるのは、それはこちらの心の迷いで、本当は、
どなた様もやはり一歩一歩地道につみ重ねてきた着実な成果を
表しておられるのです。
だから、努力もせずにぬれ手でアワみたいなことをやってみても
それは虫が良すぎるというものです。
一時はそれですごせても決して長続きはしません。
結局は、失敗ということになるのです。
これがものの道理であって、この道理をはずれた望みを持つというのは
それこそ「欲が深い」というものです。
「欲が深いは、失敗のもとです!」
やはり、ものの道理に適した道を一歩一歩歩んでいきたいものです。
💎自問自答!
自分のしたことを他の人々が評価する。
ほめられる場合もあろうし、けなされる場合もあります。
冷ややかに無視されることもあろうし
過分の評価にびっくりすることもあります。
さまざまな見方があって、さまざまな評価があります。
だから、うれしくなって心おどる時もあれば
理解の乏しさに心を暗くするときもあります。
一喜一憂は人の世の習いです。
賛否いずれもありがたいわが身の戒めと受け取りたいものです。
だがしかし、やっぱり大事なことは、他人の評価もさることながら
まず「自分で自分を評価するという事」です。
自分のしたことが、
本当に正しかったかどうか?
その考えその振る舞いには本当に誤りがなかったどうか?
素直に正しく自己評価するという事です。
「そのためには、素直に自問自答を繰り返し行わなければなりません。
みずからに問いつつ、みずから答える。
これは決して容易なことではありません。
安易な心構えでできることではないのです。しかし、
そこから真の勇気が湧いてくるのです。
真の知恵もわいてくるのです。」
もう一度自問自答して下さい。
もう一度みずからに問い、みずからに答えて下さい。
すべからくみずからそうなって下さい。
💎人間だけが~!
この世の中、見方によってはすべて人と人との約束の上に
成り立っているといってもよいと思うのです。
友人との待ち合わせの時間の約束から
金銭物品の貸借の約束、
さらには社則や国家の法律というものも
おたがいの生活を秩序だて円滑にするための
ひとつの大事な約束事であるといっても過言ではないと思うのです。
約束はお互いの信用の上に花開きます。
だからこれらの約束を守るか守らないかは
人間の精神の高まりを示すひとつのバロメータであって、
道義とか道徳というものも、こうしたところにその成果の如何を
表してきます。
自分に都合が悪くなったからと言って、
平気で約束を破るというのは、これはまさに動物の世界です。
人間だけがおたがいにかわした約束は、
これをキチンと守るという天与の高い精神の働きを持っているのです。
もしもこの精神が力弱くなったら、その影響は社会全体のあらゆる面に
物心ともに大きなマイナスとなって現れてくるのです。
単に待ち合わせの時間をムダにするというようなことだけでは
事はすみません。
おたがいに約束は守るべきなのです。
💎自得する!
これは人間の本質です。
獅子は我が子をわざと谷底に突き落とします。
激しい気迫です。
厳しい仕打ちです。
だがその厳しさの中で幼い獅子は決してへこたれません。
必死なのです。真剣なのです。そして、
いくたびかころび落ちながらも一歩一歩谷底から這い上がるのです。
這い上がる中で初めて自立を会得するのです。
他に依存せず、みずからの力で歩むことの大事さをみずからの体で悟るのです。つまり自得するという事です。
そこから獅子本来のたくましさが芽生えてくるのです。
自得するには、厳しさが、勇気が必要です。
ときには泣き出したいような途方に暮れるようなこともあるはずです。
泣くもよし、嘆くもよしです。
「しかし、次の瞬間には、新たな勇気を生み出さねばなりません。」
厳しさこそ、自得への第一歩ではないでしょうか!
たくましい自立への道を、みずから悟る貴重な道しるべではないでしょうか。
勇気をだそう! 元気をだしましょう!
激動する世界の中で、日本の国も容易ではありません。
だから、おたがい一人一人も決して容易ではありません。
自得への厳しい日々を覚悟したいものです。
💎大衆への奉仕!
大衆は愚衆である。
だからこの愚かな大衆に意見を聞くよりは、
偉大なる一人の賢人が現れて、その独裁によって政治が行われることが
もっとも望ましい。
かつての大昔、誰がこんな考え方を世に説いて
それが今日に至るも、なお一部には達見として尊ばれているようです。
たしかに大衆にはこうした一面があったかもしれません。
そしてこうした考え方から
多くの誤った独裁政治、権力政治が生み出され
不幸な大衆をさらに不幸に陥れてきたのです。
しかし、時代は日とともに進み、人もまた日とともに進歩します。
今や大衆は、きわめて賢明でそしてきわめて公正でもあります。
この事実の認識を誤るものは、民主主義の真意を踏み外し
民主政治の育成を阻害して、みずからの墓穴を掘り進むことになるはずです。
繰り返しいいますが、今日、
大衆はきわめて賢明であり、またきわめて公正でもあります。
したがって、これを信頼しこれに基盤を置いて
この大衆に最大の奉仕をするところに、
民主政治の真の使命があり、民主主義の真の精神がひそんでいると思うのです。国家繁栄の道もここから始まるのです。
💎世間というもの!
世間というものは、きびしくもあり、また暖かくもあります。
そのことを、昔の人は、「目明き千人めくら千人」という言葉で
あらわしました。
いい得て妙であります。
世間にはめくらの面もたくさんあります。
だから、いいかげんな仕事をしていいかげんに過ごすことも
時には見逃されてすぎてしまうこともあります。
つまり広い世間にはそれだけの包容力があるというわけですが
しかしこれになれて世間を甘く見て馬鹿にしたなら
やがては目明きの面にゆきわたって身のしまるような
きびしい思いをしなければならなくなるのです。
また、いい考えを持ち、真剣な努力を重ねても
なかなかにこれが世間に認められない時があります。
そんな時には、ともすると世間が冷たく感じられ、自分は孤独だと考え
希望を失いがちとなるのです。
しかし、悲観することはないのです。
めくらが千人いれば、目明きも千人いるのです。
そこに、世間の思わぬ暖かさが潜んでいるのです。
いずれにしても、世間は厳しくもあり、暖かくもあるのです。
だから、世間に対してはいつも謙虚さを忘れず、また希望を失わず
着実に力強く自分の道を歩むように心がけたいものです。
💎なぜ~!
子供の心は素直です。
だからわからぬことがあればすぐに問う。
”なぜ、なぜ”と。
子供は一生懸命なのです。熱心なのです。
だから与えられた答えを自分でも懸命に考えるのです。
考えて納得がいかなければどこまでも問い返す。”なぜ、なぜ”と。
子供の心には私心がありません。
とらわれがありません。いいものはいいし、悪いものは悪い。
だから思わぬものごとの本質をつくことがしばしばあります。
子供はこうして成長をしていくのです。
”なぜ”と問うて、それを教えられて、その教えを素直に自分で考えて
さらに”なぜ”と問い返して、そして、日一日と成長してゆくのです。
大人も同じです。
日に新たであるためには、いつも”なぜ”と問わねばなりません。
そしてその答えを自分でも考え、また他にも教えを求めます。
素直で私心なく熱心で一生懸命ならば”なぜ”と問うタネは随所にあるのです。
それを見失って、
きょうは昨日の如く、あすもきょうの如く
十年一日の如き形式に堕した時、その人の進歩はとまります。
社会の進歩も止まってしまいます。
繁栄は、”なぜ”と問うところから生まれてくるのです。
💎本領(ほんりょう)を生かす!
完全無欠を望むのは、人間の一つの理想でもあり、
また願いでもあります。
だからおたがいにそれを求めあうのもやむをえないけれども
求めてなお求めえられぬままに、知らず知らずのうちに
他も苦しめ、みずからも悩むことがしばしばあります。
だが、しかし人間に完全無欠という事が本来あるのでしょうか?
松の木に桜の花を求めるのは無理。
牛に馬のいななきをもとめるのも無理。
松は松。桜は桜。牛は牛であり馬は馬である。
つまり、この大自然はすべて、個々には完全無欠でなくとも、
「それぞれの”適性の中”でその本領を生かし、たがいに与え与えられつつ
大きな調和の中に美とゆたかさを生み出しているのです。」
「人もまた同じです。
おたがいにそれぞれに完全無欠でなくとも
それぞれの適性の中で、精いっぱいにその本領を生かすことを心がければ
大きな調和のもとに自他ともに幸福が生み出されてくるのです。
この素直な理解があれば、おのずから謙虚な気持ちも生まれてくるし
人を許す心も生まれてくるのです。
そしてたがいに足らざるを補い合うという協力の姿も生まれてくるのです。」
男は男、女は女、オカマはオカマ!
牛はモーで、馬はヒヒン、猫はニャーで、犬はワンで、ウサギは~???
繁栄の原理はきわめて素直なものなのです。
💎日に三転す!
この宇宙に存在するものは、すべて刻々に動いています。
万物流転、昨日の姿は、もはやそのままでは今日は存在しないし
一瞬一瞬にその姿を変えつつあります。
いいかえれば、これはすなわち日に新たということで
”日に新たな生成発展”ということがこの宇宙の大原理であるといえると思うのです。
人間もこの大原理の中に生かされている。昨日の姿は今日はないのです。
刻々と移り変わって、刻々に新たな姿が生み出されてくるのです。
そこにまた人間社会の生成発展があるのです。
人の考えも同じです。
古人は「君子は日に三転す」と教えました。
一日に三度も考えが変わるということは、
すなわちそれだけ新たなものを見出し、生み出しているからこそで
これこそ君子なりという分けです。
日に一転もしないようではいけないという事です。
おたがいにともすれば、かわることにおそれを持ち、
変えることに不安を持ちます。
これも人間の一面であると思いますが、しかし、これは
”すでに何かにとらわれてた姿ではあるまいか。”
一転二転は進歩の姿、さらに日に三転よし、四転よしです。
そこにこそ生成発展があると観ずるのも一つの見方ではないでしょうか。
💎懸命(命がけ)な思い!
人生は坦々たる大道を行くが如し、という人もあれば
嶺あり谷あり起伏の連続、という人もいます。
いずれが真実か見る人によってそれはさまざまです。
しかし、おたがいにまずは坦々たる大道とはいいかねるこの日々ではないでしょうか⁈
峠を越えればまた峠があります。
仰ぎ見つつ息つく間もなくまた登り始めます。
つまりこれが人生なりとの諦念もそこにおのずから湧いてくるような日々なのです。
しかし、もしこれを神のような立場から見たならばどうなるでしょうか?
おたがいに起伏の連続と見ているこの人生も、
実は、それは起伏でも何でもないのであって、坦々たる大道ではないかということになるかもしれないのです。
つまり、坦々たる大道として与えられているこの人生を
わが心至らずに、わが心眼ひらかざるために、嶺あり谷ありと感じているのかも知れないのです。
いつの日か、年を重ねることで、この真実が見極められるでしょう。
けれども、今は、ただおたがいに懸命に我が道を歩むほかないはずです。
懸命な思いこそ、起伏があろうと、坦々していようと、
ともかくも我が道を照らす大事な灯(ともしび)なのです。
💎心を高める!
禅の修行はなかなかに厳しいものです。
ちょっと身じろぎでもすればたちまちパンパンと警策がお見舞いをします。
痛いとも言えないし、苦しいともいえない。
きびしい戒律にとりかこまれて、箸の上げ下げすらも自由ではないのです。
自堕落になれた人間には、瞬時も我慢ならないでしょう。
しかし、このきびしい戒律も、回を重ね、時を経るに従って、それがしだいに
苦痛でなくなってくるのです。
戒律を戒律と思う間は苦痛です。
しかし、その戒律がいつしか身について日常坐臥(にちじょうざが)に
自然のふるまいとなってあらわれるとき、もはやそれは苦痛ではなくなるのです。
そして、この厳しさを苦痛と感じなくなった時、
そこから鍛え抜かれた人間の美しさがにじみ出てくるのです。
人間は本来偉大なものです。見事なものなのです。
しかし、その見事さは、ほうっておいては現れないのです。
易(やす)きにつくのが人間の情であるとしても
易きがままの日々をくりかえすだけならば、そこには、ただ
人間としての弱さが露呈されるだけのはずです。
おたがいに与えられた人間としての美しさを磨きあげるために
厳しさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものです。
💎紙一重(かみひとえ)!
天才と狂人とは紙一重といいますが、
この紙一重の違いから何という大きな隔たりが生まれてくるのです。
たかが紙一重と軽(かろ)んじてはいけないのです。
そのわずかの違いから、天才と狂人ほどの大きな隔たりが生まれてくるのです。
人間の賢さと愚かさについても、
これと同じことが言えるのではないでしょうか。
賢と愚とは非常な隔たりなのです。
しかしそれは紙一重の違いから生まれるのです。
すなわち、ちょっとしたものの見方の違いから、
偉い人と愚かな人との別が生まれてくるのです。
どんなに見ようと人それぞれの勝手です。
だからどんな見方をしようとかまわないようではあるけれど
紙一重のものの見方の違いから
賢と愚、成功と失敗、繁栄と貧困の別が生まれてくるのですから
やはりいいかげんにものの見方をきめるわけにはいかないという事です。
考えてみれば、お互いの生活は、すべて紙一重の違いによって
大きく左右されているのではないでしょうか。
だからこの紙一重のところをつかむのが大切となるのではないでしょうか。
これにはただ一つ、「素直な心」になることです。
「素直に見るか見ないか」、ここに「紙一重の鍵」がひそんでいるのです。