咲くことだけが、自然じゃなかった。
最近知った「極楽RADIO」というお気に入りのプレイリストを聴いていた。苦しくて当たり前泣いて当たり前それでも朝はまたくるからそのまま貴方でいいんだよ泣きたいなら泣いていいただそこにいてくれたらいいんだよふと流れてきた歌詞に、心が止まった。私はこれまで、「どんな感情があってもいい。」そう感じられるようになってきた。でも、“当たり前”だっただろうか。「あってもいい。」その言葉には、どこか「なくてもいいんだけどね。」そんな気持ちが残っていた気がした。以前書いたドット絵 の記事では、「黒があるから、この絵なんだ。」そんな言葉になっていたけど、でも今思うと、「あってもいい」は、どこか許可を出している感覚だったのかもしれない。本当は、もっと自然に、どんな状態の自分も受け入れたかったんだなと思った。セッションで「たんぽぽ」の話をすることもあった。「私、バラがかっこいいと思ってたんです。でも、雑草かもしれないし、観葉植物かもしれない。冬をダメな季節にしていたんですよね。」言葉では理解したつもりだったけど、今回気づいた。私はまだ、『咲くこと』を特別にしていた。「ただ時が来たから咲いただけ。」その言葉の奥には、“咲く時は来るもの”そんな期待や評価が、まだ少し残っていたのかもしれない。全てただそうなんだ。というだけで泣く日も笑う日も咲く日も冬の日も全部、ただ、その時なんだな。そんなことを考えながらこの記事を言葉にしていると、頭の中で小さな声がした。「前も同じような言葉で記事、書いてなかった?」「え…確認してみようかな……。」そう思った、その瞬間。極楽RADIOから、「未完成で完成〜♪」という歌が流
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