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すべてのブログから「#人生のリメイクシリーズ」タグの検索結果

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エピローグ「人は、一人では奇跡に出会えない」 ~人生は、人との縁でできている。~

私は、12年前に出会った一頭の馬と、もう一度出会いました。あの日は、奇跡だと思いました。でも、今なら分かります。あれは、偶然ではありませんでした。東京へ出たから、宮本と出会いました。宮本と出会ったから、競馬という世界を知りました。競走馬。牧場。馬主。騎手。競馬は、ただのギャンブルではなく、たくさんの人が支えている世界だということを、宮本が教えてくれました。高校時代、ヒデ夫婦と出会いました。東京で過ごした三年間。風呂も、エアコンもないアパート。ボロシェ。キス釣り。アルバイト。新婚旅行。笑い話ばかりの青春でした。地元へ戻ってからも、30年以上、変わらない居場所がありました。誰も悪くない、理不尽な出来事が起きる。飲食店を経営していると、そんな日は何度もありました。そんな時、私は、店を早仕舞いしました。売上より、大切なものがあったからです。向かう先は、いつも「串ひで」でした。可愛さんは、笑いながら、ズバッと一言。ヒデは、「そうか。」「まぁ飲め。」それだけです。でも、それで十分でした。翌日には、また前を向くことができたからです。会社が破産した時も、私は、ヒデに聞きました。「いる?」皿。厨房機器。食材。消耗品。「いる。」それだけでした。営業を再開してからも、「いる?」畑で採れた野菜。仕入れた食材。ロットが大きい商品。今でも変わりません。30年以上、私たちは、ずっと同じ会話をしています。可愛さんは、競馬をしません。それなのに、あの日、たった一言、言いました。「ロイヤルファミリー見た方がいいよ。」あの一言がなければ、私はドラマを見ていません。ドラマを見たあと、宮本へLINEしました。返ってきた
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30年以上変わらない居場所がある ~帰りたくなる場所には、いつも二人がいた。~

人生では、たくさんの人と出会います。でも、30年以上、変わらず付き合える人は、そう多くありません。私にとって、ヒデ夫婦は、友人という言葉だけでは足りません。困った時も、嬉しい時も、何気なく帰れる場所。私には、30年以上変わらない居場所があります。高校時代、私はヒデと出会いました。ヒデは同級生。そして、高校時代から付き合っていたのが、可愛さんでした。高校卒業と同時に、私たちはそれぞれ東京へ向かいました。私は北千住。ヒデ夫婦は立石。風呂なし、エアコンなしのアパート「ひかり荘」で暮らしながら、親戚の焼き鳥屋で修業を始めました。私は調理師専門学校へ通いながら働き、その後、レストランクルーズ船「シンフォニー」へ。当時は、ありがたいことに給料も良く、月に一度、ヒデ夫婦のアパートで宅飲みをするのが、楽しみでした。ただ、夏だけは行きません。エアコンが無かったからです(笑)。若い頃は、一緒にキス釣りへ行ったり、アルバイトをしたり、本当にいろいろな時間を過ごしました。私のポルシェも、ヒデ夫婦からは、「ボロシェ。」と呼ばれていました。今でも笑い話です。一番迷惑を掛けたのは、ヒデ夫婦の新婚旅行かもしれません。飲み過ぎて、寝たまま吐いてしまい、後始末をしたのは、新婚の可愛さんでした。数十年たった今でも、串ひでへ行くと、その話になります。先日も、アルバイトさんから、「新婚旅行まで一緒に行ったんですね。」と言われ、「えっ?何で知ってるの?」と思わず笑ってしまいました。今でも、店の伝説になっているようです。その後、お互い地元へ戻り、ヒデ夫婦は、修業を重ねた焼き鳥で、「串ひで」を開業しました。私は飲食店を多店舗
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人の優しさは何気ない一言に宿る。  ~笑いながら、いつも私を見ていてくれた。~

前回、私にとってヒデ夫婦は、30年以上変わらない居場所だと書きました。今回は、その奥さん、可愛さんのお話です。可愛さんは、決して優しい言葉ばかり掛けてくれる人ではありません。むしろ、思ったことを、そのまま口にします。私のポルシェも、可愛さんが命名しました。「ボロシェ。」たった四文字。でも、今でもそう呼ばれています(笑)。婚活を始めようとした時も、「登録したら、アプリ名教えて。」と言われました。「なんで?」と聞くと、「私がだますから。」思わず吹き出しました。また別の日には、「なんで、こんなにいい子で、外見も悪くないのに彼女できないかね?恋愛観が高校生かっ(笑)」さらに、「とものりは、すぐにだまされるからね。」ズバズバ言います。でも、私は腹が立ちません。可愛さんの言葉なら、どんなにとげがあっても、素直に聞けるんです。私のことを思って、言ってくれている。それが、言葉の端々から伝わってくるからです。飲食店を経営していると、誰も悪くないのに、理不尽な出来事が起こります。酔ったお客様への対応。納得できないクレーム。頑張っても、どうにもならない日があります。そんな日は、店を早仕舞いして、串ひでへ向かいました。売上を失ってでも、行きたい場所でした。飲食店を経営している人だからこそ、伝わることがあります。説明しなくても、分かってもらえることがあります。だから私は、愚痴をこぼしに行くのです。可愛さんは、真剣な顔で励ましたりはしません。いつものように笑いながら、ズバッと一言。その一言で、気持ちが軽くなる。そんなことが何度もありました。可愛さんの何気ない一言は、私の人生を変えたこともありました。猫を飼
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私は、「こっからだよ。」という言葉で前を向いた。 ~人生は、何度でもやり直せる。~

ある日、テレビで、能登半島地震の特集を見ていました。被災したお寿司屋さんが、営業再開へ向けて、店を掃除している姿が映っていました。その瞬間、私の記憶は、一気に過去へ戻りました。2004年の中越地震。そして、2007年の中越沖地震。あの日、私が見た景色。感じた恐怖。避難所へ届けた豚汁。毎日握り続けたおにぎり。すべてが、昨日のことのようによみがえりました。私は、テレビを見ながら、一時間以上、涙が止まりませんでした。番組の途中で、店主は息子さんへ、こう言いました。「こっからだよ。」その言葉を聞いた瞬間、さらに涙があふれました。番組が終わり、テレビを消しても、しばらく動くことができませんでした。静かな部屋で、ただ、これまでの人生を思い返していました。震災。自己破産。そして、もう一度、店の暖簾を掲げるために、店を掃除した日。どれも、決して簡単な道ではありませんでした。でも、振り返ってみると、私は、そのたびに、立ち上がってきました。もちろん、一人ではありません。家族。仲間。お客様。多くの人に支えられて、ここまで来ることができました。だから、あの店主の「こっからだよ。」という言葉は、テレビの中だけの言葉ではありませんでした。私自身へ向けられた言葉でもありました。そして今も、私の中で生き続けています。これから先も、私の背中を押してくれる、大切な言葉なのだと思います。これから先も、思うようにいかない日があるでしょう。失敗することも、あるでしょう。でも、そのたびに、私は、あの言葉を思い出します。「こっからだよ。」もし今、このブログを読んでいるあなたが、苦しみの中にいるなら。焦らなくていい。人生は、
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私は、800個のおにぎりを握った。 ~「ともちゃん、どこまでできる?」~

2007年7月16日。午前10時13分。新潟県中越沖地震が発生しました。私は、深夜の営業を終え、眠っていました。突然、大きなタンスが、私の上へ倒れてきました。慌てて、タンスを押しのけ、裸足のまま外へ飛び出しました。気が付くと、足から血が流れていました。でも、そんなことは、どうでもよかったのです。私は、すぐに車へ乗り込み、店の様子を見に向かいました。途中で見た光景は、今でも忘れられません。家は、まるで紙で作ったように、ぺしゃんこになっていました。マンホールは、人の背丈より高く、地面から飛び出しています。別の店舗へ入ると、棚から落ちた焼酎の瓶が割れ、店の中は、息ができないほど、アルコールの臭いが充満していました。「またか…。」そう思いました。三年前の、中越地震が頭をよぎりました。翌日、村長から連絡が入り、私は村長室へ向かいました。そこには、東京電力柏崎刈羽原子力発電所へ、お弁当を納めていた会社の方もいました。村長は、その方へ、「どこまで対応できますか?」と尋ねました。でも、すぐには答えが出ませんでした。すると、村長は、私を見て、こう言いました。「ともちゃん、どこまでできる?」村長は、2,000個のおにぎりを希望していました。私は、「800個ならできます。」と答えました。店で一番大きな炊飯器は、二升炊きです。一度に炊ける量。握る時間。働く人数。すべてを計算すると、一日800個が限界でした。できない約束は、したくありませんでした。柏崎の本社で、ご飯を炊き、刈羽店で、私、社員、アルバイトが、握る担当、包装する担当に分かれ、塩おにぎりを作りました。最初の一週間は、毎日800個。その後は、避
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私は、人生で一番悔しい決断をした。 ~それでも、前へ進むしかなかった。~

私が、人生で、一番苦しかった決断。それは、「蔵良」を終わらせることでした。人生を懸けて育ててきた会社。たくさんの従業員や、たくさんのお客様に支えられ、少しずつ大きくしてきた会社。その「蔵良」が、この世からなくなりました。負債は、約1億6千万円。法人破産と、自己破産。会社がなくなる。それは、登記が消えることではありません。建物がなくなることでもありません。夢がなくなること。仲間との思い出の場所が、なくなること。人生の一部が、なくなることでした。私は、あの日のことを、今でも忘れることができません。でも、私が一番つらかったのは、会社を失うことではありませんでした。当時、娘は、中高一貫校の高等部でした。一番多感な年頃です。後になって、学校の先生が、娘を気に掛けてくださっていたことを知りました。きっと、学校では、いろいろなことを言われたでしょう。陰口も、あったかもしれません。父親として、本当に申し訳ない気持ちでした。もし、時間を戻せるなら。そう思ったことは、一度や二度ではありません。でも、私は、会社を続けることよりも、家族が生きていくことを選びました。当時の私は、これ以上、前へ進む方法が見つかりませんでした。だから、会社を終わらせる決断をしました。悔しかった。本当に悔しかった。でも、今振り返ると、あれは、私にとって、必要な決断だったと思っています。もし、あのまま意地だけで続けていたら、家族も、私自身も、壊れていたかもしれません。人生は、一度終わったように感じました。でも、終わっていませんでした。私は、もう一度、店を始めました。店の名前は、「くらよし」。そして、一度は手放した自宅も、買い戻
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「いる?」その返事は、いつも「いる。」だった。 ~その一言の先には、いつも行動があった。~

前回、可愛さんの優しさは、何気ない一言に宿っていると書きました。今回は、ヒデのお話です。ヒデは、あまり多くを語りません。でも、30年以上付き合ってきて、一番助けられたのは、言葉ではなく、行動でした。私が自己破産した時、店には、まだたくさんの物が残っていました。皿。厨房機器。本社倉庫の寸胴や消耗品。そして、冷凍庫いっぱいの食材。電気が止まれば、すべて廃棄になります。私は、ヒデに電話しました。昔から、私たちの会話は変わりません。「いる?」「いる。」それだけです。私は、車いっぱいに食材を積み込みました。チーズ。鶏肉。その他にも、いろいろな食材。全部合わせると、100キロ近くあったと思います。それを一人で、串ひでまで運びました。後日、「あの食材を入れるために、ストッカー買ったよ。」そう聞いて、思わず笑ってしまいました。私は、運ぶことしか考えていませんでした。入れる場所まで、考えていなかったのです。その後も、ヒデには、必要か?聞いて、店へ来て、必要な皿や厨房機器だけを持っていきました。また別の日には、本社倉庫へ来て、寸胴や消耗品など、必要な物だけを持っていきました。必要だから受け取る。必要だから使う。私たちは、30年以上、ずっとそんな関係です。私には、積水ハウスのアパートがありました。自己破産で、そのアパートも手放すことになりました。破産管財人から、「買ってくれる方がいたら紹介してください。」と言われました。私は、ヒデに話しました。「俺は得にもならないから、ヒデがほしいなら。」ヒデは、約2,000万円で、きちんと購入してくれました。助けてもらった、という話ではありません。値引きでも、特別
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私は、未来の自分へ投資した。 ~30年後も、仕事を楽しむために。~

来週、私は、店の大型冷凍冷蔵庫を買い替えます。でも、目的は、新しい冷蔵庫が欲しいからではありません。未来の自分へ、投資するためです。営業を再開した時、私は、大型の冷凍冷蔵庫に、40万円以上かけてメンテナンスをしました。当時は、これで安心できる。そう思っていました。ところが、半年も経たないうちに、「修理はできません。」と言われました。私は、正直、「あのメンテナンスは何だったんだろう。」と思いました。もちろん、機械は壊れるものです。誰かを責めたいわけではありません。でも、この出来事が、私の考え方を変えました。それまで私は、設備は、業者に頼るしかないと思っていました。しかし、これからは違います。未来の自分が、管理しやすい設備を選ぶ。そう決めました。現在、店には、幅1200mmの大型冷凍冷蔵庫があります。これを、幅630mmの冷蔵庫と、幅630mmの冷凍庫、二台へ変更します。一台を、二台にする。一見すると、手間が増えるように思えるかもしれません。でも、私にとっては逆です。小型なら、自分でも動かせます。アルバイトにも手伝ってもらえます。故障しても、交換が簡単です。100Vなので、子ブレーカーごとに管理できます。もし故障しても、原因がすぐ分かります。大型一台が止まるより、営業への影響も少なくなります。大型冷凍冷蔵庫は、すでに一台、750幅の冷蔵庫と冷凍庫へ変更しました。そして来週、もう一台も、630幅の冷蔵庫と冷凍庫へ変わります。私は、少しずつ、店を変えています。今の自分のためではありません。10年後。20年後。30年後。未来の自分が、困らないためです。私は、あと30年、仕事を楽しみたい。
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30年来の友人に救われた。 ~自己破産した私を、30年以上変わらず支えてくれた友人がいた。~

人生は、誰と出会うかで、大きく変わります。私にも、人生を変えてくれた、一人の友人がいます。30年以上、付き合いが続いている友人です。私が高校を卒業し、新潟から東京へ出た頃のことでした。私は、調理師専門学校へ通いながら、飯田橋にあった高級中華料理店、「摩天楼大飯店」で、サービスマンのアルバイトを始めました。ところが、学校で学ぶことよりも、現場で学ぶことの方が、何倍も楽しかったのです。私は、調理師専門学校を辞め、接客の仕事を選びました。その頃、店へヘルプで来ていた元社員の方に、相談しました。「もっと上の接客を学びたいんです。」すると、「うちへ来るか。」そう声を掛けていただきました。その職場が、東京湾を運航するレストランクルーズ船、シンフォニーでした。そこで、私の人生を変える、一人の友人と出会います。彼の名前は、宮本。私の一つ年上で、大学へ通いながら、シンフォニーでアルバイトをしていました。でも、普通の大学生ではありませんでした。競馬が、とにかく大好きだったのです。大学を休学してまで、北海道の牧場で競走馬に携わる。そんな人でした。競馬の話をしている時の宮本は、本当に楽しそうでした。そんな宮本に誘われ、私は競馬場へ行くようになりました。一番印象に残っているのは、私が二十歳の誕生日を迎えた日のことです。1993年11月21日。朝から冷たい雨が降る、マイルチャンピオンシップの日でした。土曜日。シンフォニーの仕事を終えたのは、夜10時過ぎ。日の出桟橋を出ると、そのまま車で京都競馬場へ向かいました。運転するのは、私一人です。京都へ着いたのは、朝4時頃でした。「やっと寝られる。」私は、そう思いま
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私は、300人分の豚汁を作った。 ~善意は、時に受け入れられない。~

2004年10月23日。午後5時56分。新潟県中越地震が発生しました。私は、出前の準備をしている最中でした。店の外へ飛び出すと、自分の足元の地面が、揺れるたびに、パカパカと開いたり閉じたりしていました。電気も、水道も、ガスも止まりました。冷蔵庫も、冷凍庫も止まっています。このままでは、店の食材はすべて駄目になります。私は考えました。捨てるくらいなら、温かいものを食べられない人へ届けよう。店で一番大きな、直径50センチほどの寸胴を使い、社員やアルバイトと一緒に、約300人分の豚汁を作りました。柏崎の本社から水を運び、バーベキュー用に備えていたプロパンガスを使って、何とか炊き上げました。出来上がった豚汁を積み、避難所へ向かいました。一番多くの人が避難している避難所でした。私は、役場の職員へ、無償で配りたいと伝えました。すると、返ってきた言葉は、「もし食中毒になったら、どうするんですか?」でした。私は、「今は、そんなことを言っている場合ではない。」そう思いました。でも、何も言えませんでした。社員が、「切ないですね…。ほかの避難所へ行ってみましょう。」そう言いました。私たちは、その避難所をあとにしました。道路は歪み、車に積んだ大きな寸胴の豚汁は、走るたびに、バシャ、バシャと揺れます。次の避難所へ向かいました。でも、そこには、十人ほどしかいませんでした。配れたのは、三杯だけでした。時間も遅くなり、その日の炊き出しは終わりました。翌日、柏崎の本社で、残った大量の豚汁を、私自身が捨てました。仕方ありませんでした。数週間後、私は、村長へ、この出来事を話しました。村長は、最後まで話を聞き、こう言
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私は、生き続けたから、この奇跡に出会えた。 ~12年前の一頭の馬が、私の前に現れた。~

人生は、本当に、何が起こるか分かりません。まさか、12年前に出会った一頭の馬と、もう一度会える日が来るなんて。私は、夢にも思っていませんでした。そのきっかけは、いつもの飲み会でした。高校時代から30年以上付き合いのある、ヒデ夫婦。お互いの店が終わると、深夜まで営業しているラーメン屋で、三人で飲むことがあります。その日も、いつものように、三人で飲んでいました。すると、可愛さんが言いました。「ロイヤルファミリー見た方がいいよ。」可愛さんは、競馬をやりません。そんな可愛さんが勧めるドラマなら、見てみよう。そう思いました。家に帰り、第1話、第2話を見ました。そして、放送日の日曜日。第3話を見ました。ドラマの中で、牧場を営む野崎のおっちゃん。管理する馬は、決して多くありません。それでも、牧場はきれいに整備され、馬たちは、大切に育てられていました。その姿を見た、山王耕造が言いました。「それだけで、信頼に値する。」その言葉を聞いた瞬間、涙が止まりませんでした。なぜ、あんなに涙が出たのか。今でも、うまく説明できません。ドラマが終わり、一時間ほど経った頃。30年来の親友、宮本へLINEを送りました。「ロイヤルファミリー見てる?」返ってきた言葉は、思いもよらないものでした。「馬の名前みた?」そして、もう一言。「ケンタッキーミント(笑)」私は、何のことか分かりませんでした。エンドロールを見ていなかったからです。慌てて見返しました。そこには、確かに、「ケンタッキーミント」という名前がありました。でも、私は、まだ半信半疑でした。そこで、ドラマの映像を見返しました。ロイヤルハピネスの額にある、馬印を確認し
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