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自分でコントロールしている感覚が、日常の気分を別物に変える

先日、キャンプの予定を話していたとき、こんなことを聞かれました。「何がそんなに楽しいの?」純粋な好奇心からの質問です。いい景色、美味しい食事、ゆっくり流れる時間——言葉にしようとすると、どれもどこかしっくりこない。なぜなら、それらは「楽しさの条件」であって、本質ではないからです。では、何がそんなにしっくりきているのか。その問いをしばらく持ち歩いていたら、ある答えにたどり着きました。楽しさの正体は、「コントロール感」だったキャンプの楽しさは、「景色」や「食べ物」という外側の要素ではありませんでした。それは自分の内側の「心の変化」、つまり気分の良さそのものでした。準備しているときも、道中も、現地にいるときも、ずっと気分がいい。その理由を突き詰めると、「どこに行って、何をして、何を食べるか、準備も含めてすべてを自分がコントロールして楽しんでいる」という感覚そのものが、私にとってのキャンプの最大の価値だったのです。この感覚を、日常のタスクに移植できないかこの「人生を自分でコントロールしているときの圧倒的な気分の良さ」は、実は日常のあらゆる場面に応用できます。私たちは、勉強や仕事などの「やらなきゃいけないこと」に直面したとき、つい「やらされている感」になってしまい、気分が落ちてしまいがちです。だったら、あのキャンプのときのような「自分で決めて、自分でコントロールして楽しむ感覚」を、どうやって日常のタスクに持ち込むか。たとえば、タスクの進め方や時間配分を、あえて自分で完全にプロデュースしてみる。義務の作業を「自分を成長させるための準備」として意味づけを変えてみる。そうやって「やらされるもの
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やりたいことは、探すより先に「余力」を作ると見えてくる

数年前、一番下の子どもが3歳になった頃のことです。日々のバタバタの中に、ポコッと「小さな時間」が生まれました。ただなんとなくスマホを見て過ごすこともできた、そんな何気ない日常のワンシーン。しかし実は、この日常に生まれたほんの少しの余力こそが、これまでの自分の豊かさや考え方、そして「自分が本当にやりたいこと」を見直す決定的なきっかけになりました。ここから、私の人生の書き換えが始まったのです。「小さな余力」を次の豊かさに変えるロードマップ頭に少しの余白ができた私は、これまでの「なんとなく流される日常」をやめ、生まれた余力を「次の余力を生むための行動」へ順番に投資していくことにしました。私が出した具体的な一歩は、以下のような流れです。1. 臨床と教育の勉強(インプットからアウトプットへ)まずは自分の仕事の専門性を深めるために、ただ本を読むだけでなく、勉強会の資料作りに余力を使いました。アウトプットすることで、自分の知識が深く腑に落ちていきました。2. 人生の土台づくり(家計の見直し)脳にゆとりができると、人生を俯瞰する視点が生まれます。そこで次に行政や固定費、投資(NISAなど)の構造をカチッと整えました。お金の将来的な不安を消したことで、心にさらに強固な「次の余力」が生まれました。3. 発信とさらなる成長への循環新たに生まれた余裕を使って、noteやSNSでの発信をスタートしました。発信するためにさらに深く勉強するという、最高のサイクルが回り始めたのです。余力は、人生の主導権を取り戻すための「投資」もしあの時、頭が「あれもこれも」と渋滞して、余力ゼロのまま走り続けていたらどうなって
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「今の自分」をそのまま受け入れたとき、初めて自分を活かせるようになった

【ココナラブログ版】「今の自分」をそのまま受け入れたとき、初めて自分を活かせるようになったある日、ふと立ち止まって気づきました。「自分は今、誰のために走っているんだろう」と。世の中には、「もっと成長しよう」「もっとスキルを磨こう」「もっと多くのものを手に入れよう」という言葉があふれています。もちろん、新しい自分に出会うための成長や努力は素晴らしいものです。けれど、誰かが決めた「理想の姿」を目指して走り続けるうちに、ふと息苦しさを感じたり、自分の現在地を見失ってしまうことはないでしょうか。私たちが人生を歩むうえで、何よりも大事なこと。それは、外側の基準に合わせて自分を変えることではなく、「自分を見つめ、気づき、理解すること」だと私は思っています。「成長するだけが全てじゃない」という解放私たちは、つい「今の自分に足りないもの」ばかりを探して、それを埋めるための成長を追い求めてしまいがちです。けれど、成長するだけが人生の全てではありません。他人の期待に応えるためや、誰かに認められるための努力で心をすり減らすくらいなら、自分が心から「やりたい」と思うことをやる時間を、もっと大切にしていいはずです。「もっと上へ」という外側の声からいちど自由になって、自分のやりたいことに素直になる。そこから、本当の意味で自分の人生が始まります。自分の現在地を知り、「自分を最大限活かす」自分を深く理解するということは、自分以外の何者かになろうとするのをやめる、ということです。無理に性格を変えようとしたり、自分の性質を否定したりする必要はありません。大切なのは、今の自分をそのまま受け入れること。自分の持ってい
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整った毎日が少し物足りないのは、人生の主導権を握れた証拠だった

ある朝、いつものように一日の仕組みが静かに動き始めるのを感じながら、ふとこんなつぶやきが心の中に湧き上がってきました。「……これが、少し面白みに欠けるのかな」と。今の私は、とても充実しています。日々の生活や仕事、勉強の仕組みが整っていて、毎日の判断も容易です。迷いやノイズはできるだけ抑えるようにコントロールしています。かつてのように「どうやって時間を捻出しようか」「何から手を付けたらいいのか」と頭を悩ませて、目の前のタスクに溺れるような感覚は今はありません。自分で自分の領域をコントロールできている、という圧倒的な安定感があります。決して現状に不満があるわけではありません。むしろ深く満たされています。それなのに、すべてが自分の手の中でスムーズに回りすぎているせいで、どこか毎日の変化や刺激が薄くなっているような、不思議な感覚を覚えるのです。急かされるのではなく、「次を選ぶ準備」ができているもちろん、やらなきゃいけないことや、学びたいことがすべて消えてなくなったわけではありません。むしろ、今でもたくさんあります。ただ、以前と決定的に違うのは、それらに「急かされていない」ということです。タスクの波に飲み込まれてその場しのぎで処理するのではなく、日々の仕組みが整って時間が作れているからこそ、「さて、次は何に手を付けようか」とじっくり腰を据えて考えることができています。この感覚について、少し深く考えてみました。人間は、思い通りにいかない状況を自分で工夫して、一つひとつ整理していく「プロセス」そのものに、面白さや充実感を覚えるようにできているのではないか、ということです。少し前までの私は、ま
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新しい何かを足さなくていい。すでに「あるもの」に気づくだけで、心が満たされていく

大人になってからも、なぜかずっと心に残っている温かい光景があります。昔、私の母が出産前の入院をしていたときのことです。毎朝、私が小学校へ登校する時間になると、母は病院の窓辺に立ち、歩いていく私に向かって手を振ってくれていました。入院中という、母自身もしんどかったはずの状況です。それでも毎朝欠かさず、私の姿を目で追い、気遣ってくれていました。当時はその意味を深く考えていませんでしたが、ただ「毎朝見守られている」という確かな安心感だけが、幼い私の心に深く染み込んでいました。親になって初めて気づいた、見守る目自分が親になり、登校する我が子を家の前で見送るようになって、ようやく気づいたことがあります。角を曲がって見えなくなるまで、子どもの後ろ姿をじっと目で追う。自分が「見守る側」になって初めて、あのとき病院の窓辺に立っていた母が、どんな気持ちで私を見ていたのかが本当に分かりました。そこにあったのは、「今日も無事で、いってらっしゃい」という、言葉にすらならない純粋な気遣いでした。特別な成果を上げているから見守るのではない。ただそこに存在している大切な姿を、ただ見守る。そんな温かいまなざしを、私は知らず知らずのうちに受け取っていたのだと思います。「成果」がなくても、私たちはすでに受け取っている日々忙しく過ごしていると、私たちはつい「もっと早く進まなければ」「目に見える成果を出さなければ」と、自分を焦らせてしまいますよね。「自分は何もできていない」と、自分で自分を置いてきぼりにして、責めてしまう日もあるかもしれません。けれど、少しだけ立ち止まって、思い出してみてほしいのです。私たちが今日を生
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