第9話:壊したくないのに、もう戻れない
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会議室を出たあとも、
涙はしばらく止まらなかった。
(……なんであんなこと言ったんだろう)
頭では分かっている。
距離を取るのは、正しかった。
でも。
(……もう、隠せない)
あの瞬間。
言葉にはしていないのに、
全部伝わってしまった気がした。
オフィスに戻ると、
いつも通りの空気が流れていた。
キーボードの音。
電話の声。
人の気配。
その中にいるのに、
自分だけが、少し浮いている。
(……戻れない)
前みたいに、
何もなかった顔で話すことができない。
でも。
「澪さん」
呼ばれて、心臓が跳ねる。
振り返る。
蒼さんだった。
「この件ですが」
いつも通りの声。
いつも通りの距離。
でも。
(……違う)
空気が、確実に変わっている。
「はい」
私は、できるだけ平静に返した。
資料を見ながら話す。
視線は、画面に向けたまま。
でも。
分かる。
見られている。
前とは違う意味で。
「…ここ、もう少し詰められますか」
指摘は、いつも通り。
「はい、やってみます」
声も、いつも通り。
でも。
沈黙が、長い。
その沈黙が、
妙に息苦しい。
「……」
ふと、顔を上げる。
視線が、ぶつかる。
一瞬で、逸らした。
(……無理)
もう、普通には戻れない。
その日の夜。
仕事を終えて、外に出ると、
雨が降っていた。
(……最悪)
傘を持っていない。
少し迷って、
そのまま歩き出した。
濡れてもいいと思った。
頭の中を、
全部流してしまいたかった。
「澪さん」
背後から、声。
振り返る。
蒼さんだった。
「……傘、使ってください」
差し出された傘。
「…大丈夫です」
反射的に断る。
「風邪ひきますよ」
変わらないトーン。
でも。
(……優しい)
それが、逆に苦しい。
「…いいです、本当に」
距離を取らなきゃいけないのに。
こんなことされたら、
(……無理になる)
「……そうですか」
それ以上、何も言わなかった。
ただ。
そのまま、隣に立った。
同じ方向を向いて。
(……なんで)
距離を取るはずなのに。
なぜか、離れない。
雨の音だけが、響く。
沈黙。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
(……このままでいい)
そう思ってしまった。
「……無理、しなくていいです」
ぽつりと、蒼さんが言った。
「……え?」
「全部、分かろうとしなくていいです」
その言葉が、胸に落ちる。
(……分かってる)
でも。
「……もう、遅いです」
気づいたら、口にしていた。
「……戻れないから」
静かに、言葉が落ちる。
雨音に紛れて、消えていく。
蒼さんは、何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ、近づいた。
その距離が。
すべてを、物語っていた。
壊したくないのに。
もう、戻れない。
続く。