見たことある物語で、いいじゃないか
仰々しくなくてもいいのではないか、と最近よく思う。
ものすごく新しいものを書こうとしなくてもいい。誰も思いつかなかった設定を持ってこなくてもいい。読者の度肝を抜くような構造を考えなくてもいい。ページをめくった瞬間に「これは文学史が変わるぞ」と思わせなくてもいい。
もちろん、そういうものを書けるなら、それは素晴らしい。誰も見たことのない景色を言葉で立ち上げられる人は、本当にすごいと思う。自分の内側にしかない世界を、きちんと他人の目にも見えるように差し出せる人は、尊敬する。
でも、いつもそんなものばかりを目指していたら、たぶん、多くの人は書けなくなる。
少なくとも僕は、書けなくなる。
書く前から、こんな声が頭の中で鳴りはじめる。
これはどこかで見たことがあるんじゃないか。
この展開は、ありがちなんじゃないか。
この人物は、昔読んだ小説の誰かに似ているんじゃないか。
この舞台は、もう誰かが使っているんじゃないか。
この題材は、使い古されているんじゃないか。
そうやって、まだ一行も書いていないうちから、自分の中の校閲者だか批評家だか裁判官だかが、赤ペンを持って立ち上がる。そして、こちらが椅子に座るより先に言う。
それ、新しくないですよ。
いや、わかっている。
そんなことは、自分でもわかっている。
世の中に物語はたくさんある。小説も映画も漫画もドラマもアニメも、もう数え切れないほどある。恋愛も、別れも、再会も、殺人も、家族の秘密も、喫茶店も、図書館も、猫も、手紙も、雨の夜も、古いアパートも、商店街も、遺品整理も、失踪も、記憶喪失も、タイムリープも、余命ものも、全部どこかで見たことがある。
どこかで聞いたことがある。
誰かがもう、やっている。
それでも、僕たちはまだ物語を書く。
なぜか。
完全に新しいものだけが、物語ではないからだ。
そもそも、僕たちが好きになった物語の多くは、決して完全に新しかったわけではないと思う。好きになった理由は、設定の新しさだけではなかったはずだ。登場人物の声がよかった。会話の間がよかった。町の匂いがよかった。ラストの余韻がよかった。主人公のだらしなさに救われた。脇役の一言が、妙に胸に残った。物語の筋だけを取り出したらどこかで見たことがあるのに、その作品だけの温度があった。
たぶん、そこなのだ。
物語の新しさは、設定だけに宿るわけではない。
もっと細かいところに宿る。
ため息のつき方に宿る。
朝のパンを焦がしたときの言い訳に宿る。
雨が降ってきたとき、傘を持っていない人が空を見る、その目の動きに宿る。
好きな人に会う前に、鏡の前で前髪を直して、直したのに結局何も変わっていないことに気づく、その小さな間に宿る。
猫に触りたいのに触らせてもらえず、ようやく触れた瞬間、人生の重大事件みたいに喜んでしまう、その情けなさに宿る。
つまり、物語は骨組みだけでは決まらない。
骨組みが似ていても、肉のつき方が違えば別の生き物になる。
声が違えば別の人間になる。
だから、見たことがある物語でいいじゃないか、と思う。
いや、もちろん、盗作はだめだ。
ここははっきりさせておきたい。
誰かの文章をそのまま写すこと。誰かのキャラクターを名前だけ変えて使うこと。具体的な構成や台詞や場面を、自分のもののように持ってくること。それは違う。そこに開き直ってはいけない。創作という言葉でごまかしてはいけない。
でも、影響を受けることは悪ではない。
型を借りることは悪ではない。
王道に乗ることは悪ではない。
売れている流れを見て、「ああ、こういうものが今、読まれているのか」と考えることも悪ではない。
むしろ、それはかなり現実的な態度だと思う。
作家は仙人ではない。霞を食って生きているわけではない。誰にも読まれなくても平気です、という顔をしながら、本当は読まれたい。できれば感想もほしい。できれば売れてほしい。できれば次も読みたいと言われたい。もっと言えば、書くことで生活の一部を支えたい。そう思うことは、そんなに恥ずかしいことだろうか。
僕は、恥ずかしいことではないと思う。
売れそうなものには乗っとけ。
この言葉だけ取り出すと、ずいぶん乱暴に聞こえるかもしれない。創作を金に寄せるのか。流行に媚びるのか。作家性はどこへ行ったのか。そんな声もあるだろう。
でも、売れそうなものに乗ることと、自分を捨てることは、まったく同じではない。
たとえば、喫茶店の物語が読まれているとする。だったら喫茶店を書いてみる。猫の出る話が好まれているなら、猫を書いてみる。日常の謎が求められているなら、小さな謎を置いてみる。恋愛ものが読まれているなら、誰かを好きになる話を書いてみる。そういう入口を選ぶことは、別に卑怯ではない。
読者が入りやすい扉を用意することだ。
問題は、その扉の先に何を置くかである。
流行の喫茶店を書いたとしても、そこに自分の好きな湿度を置けばいい。自分が見てきた光を置けばいい。自分だけが気にしてしまうカップの縁の欠けや、椅子の軋みや、閉店間際の床の冷たさを書けばいい。
猫を書いたとしても、猫をただ可愛い道具にしなくてもいい。触らせてくれない猫にすることもできる。人間の都合を軽く無視する猫にすることもできる。肝心なときだけ、仕方ないなという顔でそばに来る猫にすることもできる。
恋愛を書いたとしても、美男美女がきれいに結ばれるだけでなくていい。言えなかった一言が十年後に残っている話でもいい。別れたあとに、相手の好きだったパン屋だけが生活に残ってしまう話でもいい。告白よりも、帰り道の歩幅のほうが大事な物語でもいい。
流行は入口であって、結論ではない。
王道は型であって、檻ではない。
そこを間違えなければ、売れそうなものに乗ることは、むしろ戦略になる。
そして、戦略を持つことは、創作を汚すことではない。
僕たちはなぜか、創作に対してだけ、純粋でなければならないと思い込みすぎているところがある。書きたいものだけを書け。世間に合わせるな。自分の内側から出てくるものだけを信じろ。そういう言葉はかっこいい。たしかに、必要なときもある。自分の核を守るためには、そういう強さがいる。
でも、それだけでは続かないこともある。
書きたいものがわからない日もある。
自分の内側が空っぽに見える日もある。
何を書いても誰にも届かない気がする日もある。
そんなときに、世の中で読まれているものを眺めることは、敗北ではない。むしろ、書くための足場になる。
ああ、今はこういう悩みを持っている人が多いのか。
こういう主人公に共感が集まるのか。
こういうタイトルだと手に取られやすいのか。
こういう短さ、こういうテンポ、こういう余白が読まれているのか。
それを知ったうえで、自分ならどう書くかを考えればいい。
完全な無人島で創作しているわけではない。読者がいて、時代があって、流行があって、場所があって、媒体がある。noteならnoteの読みやすさがある。文芸誌なら文芸誌の温度がある。KindleならKindleの手触りがある。SNSならSNSの速度がある。
その場所に合わせて書くことは、作家性の放棄ではない。
届けるための工夫だ。
料理に似ているかもしれない。
自分だけが食べるなら、味つけは自由でいい。焦げてもいいし、しょっぱくてもいいし、妙な組み合わせでもいい。だが、誰かに食べてもらうなら、少し考える。相手は濃い味が好きか。辛いものは大丈夫か。量は多すぎないか。見た目はおいしそうか。温かいうちに出せるか。
考えたからといって、その料理が嘘になるわけではない。
むしろ、食べてもらうために考える。
物語も同じだと思う。
読者に届くように考えることは、読者に媚びることとは違う。相手の存在を無視しないということだ。
もちろん、何でもかんでも流行に寄せればいいわけではない。売れているからという理由だけで、自分がまったく興味のない題材に飛びついても、たぶん長続きしない。書いている途中で、空気が抜けた風船みたいになる。読者にも伝わる。これは書き手が本当に見ていないな、とわかる。
だから大事なのは、流行と自分の重なる場所を探すことだと思う。
世の中では猫の物語が読まれている。自分も猫が好きだ。なら書ける。
喫茶店の物語が好まれている。自分も古い店の空気が好きだ。なら書ける。
日常の謎が読まれている。自分も大事件より、暮らしの小さな違和感に惹かれる。なら書ける。
創作論が読まれている。自分も書けなさについてなら、いくらでも書ける。なら書ける。
そこに重なりがあるなら、乗ればいい。
売れそうなものには乗っとけ、というのは、何も考えずに飛びつけという意味ではない。
自分の足で乗れる波なら、乗ってみろということだ。
波に乗るには、そもそも海に入らなければならない。浜辺で腕を組んで、「あの波はありきたりだ」「あの波は商業的だ」「あの波はもう誰かが乗っている」と言っているだけでは、ずっと濡れない。濡れないまま、波を批評する人になる。
それはそれでひとつの立場かもしれない。
でも、書きたいなら、濡れたほうがいい。
失敗しても、飲み込まれても、少し恥をかいても、乗ってみたほうがいい。
書くというのは、たぶん、そういうことだ。
そして、書きはじめるとわかる。
ありがちな物語を書くことは、意外と難しい。
王道を書くことは、簡単ではない。
むしろ、奇をてらうより難しいことがある。
たとえば、「主人公が成長する話」を書こうとする。そんなものは無数にある。けれど、実際に書くとなると、主人公がどこで傷つき、どこで踏みとどまり、誰の言葉に救われ、何を失い、何を選ぶのかを決めなければならない。成長という言葉で片づけられない細部が必要になる。
「男女が出会って別れる話」を書く。これも無数にある。けれど、どこで出会うのか。なぜ惹かれるのか。なぜうまくいかないのか。別れたあと、何が残るのか。最後に名前を呼ぶのか、呼ばないのか。そういう選択のひとつひとつに、その書き手の体温が出る。
「探偵が謎を解く話」を書く。これもありふれている。けれど、その探偵が何に気づく人なのかで、物語は変わる。足跡に気づくのか。人の嘘に気づくのか。台所の匂いに気づくのか。置きっぱなしのスリッパに気づくのか。猫の機嫌に気づくのか。謎を解くとは、世界のどこを見るかということでもある。
つまり、型は同じでも、視線が違う。
その視線こそが、書き手のものなのだと思う。
だから、見たことある物語でいい。
ただし、自分の目で見る。
聞いたことある話でいい。
ただし、自分の耳で聞く。
ありきたりな展開でいい。
ただし、自分の言葉で運ぶ。
そうすれば、それはただのコピーにはならない。
もう少し言うと、読者は必ずしも、まったく新しいものだけを求めているわけではない。
人は、知っている形に安心する。
タイトルを見て、「ああ、こういう感じの話かな」と思えることは、悪いことではない。むしろ手に取りやすさになる。表紙や紹介文で、ある程度の予感ができるから読む。これは泣ける話かもしれない。これは静かなミステリかもしれない。これは猫が出てくる優しい話かもしれない。これは創作に悩む人のエッセイかもしれない。
読者は、知らない場所に行きたい一方で、まったく地図のない場所には不安も感じる。
だから、どこかで見たことのある入口は、読者への親切でもある。
喫茶店の扉。
図書館の机。
雨の日のバス停。
古いアパートの二階。
夜更けのコインランドリー。
猫のいる部屋。
消えた手紙。
置き忘れた傘。
どれも見たことがある。
でも、見たことがあるからこそ、読者はそこに入ってこられる。
そのうえで、奥の部屋に、自分だけのものを置く。
たとえば、喫茶店の物語なら、ただコーヒーを出すだけではなく、その店の窓にだけ夕方の光が斜めに落ちることを書く。図書館の物語なら、本棚ではなく、閉館十五分前の館内放送の声を書く。猫の物語なら、可愛さではなく、触らせてくれない冷たさと、たまに許される奇跡を書く。
そういう細部が、物語を自分のものにしていく。
だから僕は、オリジナルという言葉にあまり怯えすぎないほうがいいと思っている。
オリジナルは、最初から完成品として存在するものではない。
書いているうちに、にじみ出てしまうものだ。
隠そうとしても出てしまう癖。好きな言葉。いつも見てしまう景色。気にしてしまう音。許せないもの。なぜか笑ってしまうもの。恥ずかしいほど繰り返してしまうテーマ。そういうものが、いつのまにか文章に混ざる。
むしろ、最初から「自分だけの完全なオリジナルを書こう」と力むと、そのにじみが止まる。
肩に力が入る。
文章が立派になりすぎる。
登場人物が、こちらの思想を背負わされて、不自然に歩きはじめる。
場面が、意味を持ちすぎる。
台詞が、看板みたいになる。
そうなるくらいなら、少し力を抜いて、見たことのある物語の椅子に座ってみたほうがいい。王道のテーブルに肘をついて、ありきたりな湯のみでお茶を飲んでみたほうがいい。そのほうが、かえって自分の声が出ることがある。
創作において、ありきたりは敵ではない。
ありきたりをどう扱うかが問題なのだ。
たとえば、「雨」はありきたりだ。
でも、雨をどう見るかは人によって違う。
傘を忘れた人の雨。
洗濯物を干したまま出かけた人の雨。
失恋した帰り道の雨。
猫が窓辺で不満そうに見ている雨。
図書館の窓を細く濡らす雨。
古い喫茶店の看板を、少しだけ若返らせる雨。
同じ雨でも、置かれる場所で違う。
同じ言葉でも、前後の沈黙で違う。
だから、題材の新しさだけにこだわりすぎると、かえって大事なものを見落とす気がする。
奇をてらったものばかりでなくてもいい。
むしろ、奇をてらいすぎると、読者より先に書き手が疲れてしまうことがある。驚かせなければ。裏切らなければ。誰も思いつかないものを出さなければ。そうやって自分を追い込んでいくうちに、物語が人間から離れていく。
たしかに、仕掛けは大事だ。
意外性も大事だ。
でも、それだけでは、読み終えたあとに何も残らないことがある。
逆に、展開としては予想できたのに、なぜか残る物語がある。
ああ、こうなるだろうなと思っていたのに、実際にその場面が来ると胸が動く。泣かせにきているとわかっているのに、泣いてしまう。最後に再会するんだろうなとわかっていても、その再会の一言がよければ、ちゃんと読んでよかったと思う。
王道には、王道の強さがある。
予想できることと、退屈であることは違う。
予想できる道でも、歩き方がよければ人はついてくる。
桜が咲く季節に、また桜かと思いながら、それでも見上げてしまうように。夕焼けが赤いことを知っていながら、それでも立ち止まってしまうように。ありきたりなものには、何度でも人の心に届く力がある。
作家は、その力を使っていい。
むしろ、使えるものは使ったほうがいい。
王道も、流行も、型も、ジャンルも、先人たちが残してくれた道具だ。道具を使うことを恥じる必要はない。大工がノコギリを使うように、料理人が包丁を使うように、作家は型を使えばいい。
問題は、その道具で何を作るかだ。
同じ包丁を使っても、できる料理は人によって違う。
同じギターを持っても、鳴る音は人によって違う。
同じノートを開いても、書かれる言葉は人によって違う。
だったら、同じ型から始めても、最後に残るものは違っていい。
そして、違ってしまう。
人は、自分から完全には逃げられない。
どれだけ誰かに憧れても、どれだけ好きな作家の文章を真似しても、どこかで自分の癖が出る。句読点の置き方。間の取り方。人物の見方。終わらせ方。笑わせ方。暗くなりきれないところ。優しくしすぎるところ。逆に、変なところで意地悪になるところ。
それは欠点でもあるけれど、同時に救いでもある。
真似しようとしても、完全には真似できない。
だからこそ、影響を恐れすぎなくていい。
むしろ、最初は誰かを真似るくらいでいいのではないかと思う。
好きなものがあるなら、なぜ好きなのかを考える。会話が好きなのか。余白が好きなのか。町の描写が好きなのか。人があまり説明しないところが好きなのか。タイトルのつけ方が好きなのか。終わり方が好きなのか。
それを分解して、自分の作品に持ち帰る。
もちろん、そのまま持ってくるのではない。
構造として学ぶ。
リズムとして学ぶ。
読者にどんな気持ちを残しているのかを学ぶ。
模倣という言葉は、扱い方を間違えると危うい。だから慎重でありたい。けれど、学ぶことの中には、必ず真似ることが含まれている。絵も、音楽も、料理も、スポーツも、最初は誰かの形を見て覚える。文章だけが、いきなり完全な自分から始まるわけがない。
最初から自分の文体なんて、なくてもいい。
書いて、読んで、真似て、直して、また書いているうちに、だんだん出てくる。
それでいい。
むしろ、そのほうが健康的だ。
「誰にも似ていないものを書かなければ」と思いすぎると、書くことが特殊な儀式みたいになる。ろうそくを立てて、深い森に入り、自分の魂と対話しなければ一行も書いてはいけないような気がしてくる。
でも、物語はもっと日常的でいい。
台所でお湯を沸かすように書いていい。
洗濯物を畳むように書いていい。
机の上の消しゴムを少しどかすように書いていい。
もちろん、苦しい日もある。簡単ではない。でも、書くことを神聖化しすぎると、入口がどんどん高くなる。高くなった入口の前で、こちらはずっと靴を脱いだり履いたりしている。
もう少し、気軽に入っていいのではないか。
見たことある物語で、いいじゃないか。
聞いたことある話で、いいじゃないか。
王道で、いいじゃないか。
売れそうなものに乗って、いいじゃないか。
そのかわり、書くときはちゃんと自分の手を動かす。
自分の目で見る。
自分の温度で書く。
そこだけは、誰かに預けない。
創作における誠実さとは、完全に新しいことではなく、自分の手で書くことなのだと思う。
誰かに似ているかもしれない。どこかで見たことがあるかもしれない。流行に乗っていると思われるかもしれない。それでも、その一文を自分で選び、その人物の名前を自分で呼び、その場面の光を自分で調整したなら、そこには自分の責任がある。
責任があるものは、自分の作品になる。
逆に、どれだけ奇抜な設定でも、どれだけ新しそうな構造でも、自分の責任で書いていなければ、どこか薄い。見た目は派手でも、奥に手触りがない。
僕が読みたいのは、必ずしも誰も見たことのない物語ではない。
誰かがちゃんと見た物語だ。
ありふれた道を、その人がどう歩いたかを読みたい。
喫茶店なら、その人がどの席に座ったのかを知りたい。
図書館なら、その人がどの棚の前で立ち止まったのかを知りたい。
猫なら、その人が触れなかった時間を知りたい。
恋なら、その人が言えなかった言葉を知りたい。
そこに、その人の物語がある。
だから僕は、これからもたぶん、見たことのあるものを書く。
喫茶店を書くかもしれない。
図書館を書くかもしれない。
猫を書くかもしれない。
雨の夜を書くかもしれない。
売れそうな題材に、ふらふらと寄っていくかもしれない。
でも、それでいいと思っている。
ふらふら寄っていった先で、自分にしか拾えないものが落ちていることがあるからだ。
流行の道を歩いていたはずなのに、道端の石にだけ妙に惹かれることがある。みんなが店の看板を見ているときに、自分だけが裏口の錆びた蝶番を見てしまうことがある。そういうところから、物語は少しずつ別の顔をしはじめる。
最初は売れそうだから選んだ題材でも、書いているうちに、自分の過去とつながることがある。
最初は王道だから選んだ展開でも、人物が勝手に違う方向を向くことがある。
最初はよくある話だったはずなのに、最後には妙に自分らしい話になっていることがある。
それを信じてもいいのではないか。
書く前から、あまりにも厳しく自分を裁かなくていい。
新しくないからだめ。
ありがちだからだめ。
売れそうだからだめ。
流行っているからだめ。
そんなふうに全部をだめにしていたら、書けるものがどんどんなくなる。
そして最後には、「書かないこと」だけが一番高潔な態度みたいになってしまう。
でも、書かない高潔さより、書いたあとの少し不格好な誠実さのほうを、僕は信じたい。
たとえ似ていても、書く。
たとえ王道でも、書く。
たとえ売れそうな匂いがしても、書く。
たとえ誰かに「こういうの前にもあったよね」と言われても、書く。
そのうえで、直す。
磨く。
自分の声を足す。
余計な借り物を外す。
自分の生活の匂いを入れる。
人物に、ちゃんと息をさせる。
そこまでやれば、物語は少しずつこちら側に来る。
最初は借りてきた服みたいだったものが、だんだん体になじんでくる。袖をまくり、襟を直し、ポケットに自分の鍵を入れる。そうすると、もうそれは完全な借り物ではなくなる。
創作とは、そういう作業でもあると思う。
何もない場所から、突然、金色の物語を掘り当てることではない。
誰かが歩いた道に入り、自分の歩幅で歩き直すこと。
古い型に、自分の体温を通すこと。
見たことのある景色の中から、自分だけが立ち止まってしまうものを見つけること。
その積み重ねなのだと思う。
だから、僕はもう少し、自分に許可を出したい。
仰々しくなくてもいい。
奇をてらわなくてもいい。
どこかで見たことがあるような物語でもいい。
聞いたことがあるような話でもいい。
売れそうなものには、乗れるなら乗ってみればいい。
ただし、最後まで自分の手で書く。
そこだけ守ればいい。
完全なオリジナルを探して、机の前で固まっているより、ありきたりな一行でも書いたほうがいい。
「雨が降っていた」でもいい。
「猫は今日も触らせてくれなかった」でもいい。
「古い喫茶店の札が、なぜか営業中になっていた」でもいい。
「図書館の閉館十五分前、私はまだ帰りたくなかった」でもいい。
そういう見たことのある一行から、物語は始まる。
そして、始まってしまえば、少しずつ変わる。
書き手の癖が混ざる。
生活が混ざる。
失敗が混ざる。
照れが混ざる。
本当は言いたくなかったことが、少しだけ顔を出す。
その瞬間、物語はただの型ではなくなる。
だから、見たことある物語で、いいじゃないか。
むしろ、見たことがあるから、そこに入っていける。
聞いたことがあるから、耳を澄ませられる。
ありきたりだからこそ、そこに自分の小さな違和感を置ける。
奇をてらわなくても、物語は書ける。
売れそうなものに乗っても、作家は消えない。
消えるかどうかは、何に乗ったかではなく、そこで何を見たかで決まる。
僕はそう思っている。
だから今日も、少しありきたりな題名をつける。
少し見たことのある場面から始める。
どこかで聞いたことのある悩みを書く。
そして、その奥に、自分だけのため息をひとつ置いておく。
読者がそれに気づくかどうかは、わからない。
でも、気づかれなくてもいい。
書いた人間だけが知っている小さな体温が、文章のどこかに残っていればいい。
物語は、完全な新しさだけでできているわけではない。
むしろ、古いもの、見慣れたもの、聞き慣れたもの、誰かが通った道、売れている型、王道の展開、そういうものの上に、少しずつ自分の足跡を重ねていくものなのだと思う。
その足跡が、たとえ小さくても。
少し曲がっていても。
誰かの足跡の隣に並んでいても。
それでも、自分の足で踏んだなら、それは自分の跡だ。
だから、書こう。
見たことある物語で、いいじゃないか。
聞いたことある物語で、いいじゃないか。
売れそうなものに乗って、いいじゃないか。
そのかわり、ちゃんと最後に、自分の言葉で降りてくればいい。