ゆとり教育が招いた社会問題と子どもたちの問題

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今回は「ゆとり教育」について改めてどんな点が問題だったのか?深堀りしていきたいと思います

「ゆとり教育」の旗振り役として1990年代後半に活躍したのは当時の文部省の官僚だった寺脇研氏でした。
当時問題視されていた「いじめ」問題に対して「偏差値教育」と寺脇氏が呼んでいたのです。子供を画一的な指標で見るような教育が「いじめ」の原因であるとしていました。

寺脇氏の主張を見ると「〈偏差値教育〉の追放」というところに目を奪われがちですが・・寺脇氏はそれ以外にもPTAの改革・生活科教育や職業教育など多岐にわたっています。

ただただ「学習内容の削減」やスローガン的な「偏差値の追放」などは教育界や経済界を中心に反発を生み出しました

西村和雄氏は戸瀬信之氏らと共に『分数ができない大学生』(東洋経済新報社/ちくま文庫)などを刊行し現代の大学そして若者においていかに学力の低下が深刻化し・それが国力をそぎ落とすものであるかを盛んに述べました

まず寺脇氏ですが2000年代終わりにかけて自分の言動の正当性を主張する書籍を相次いで出しています。
例えば・・・ほとんどが自分に近しい主張の人との対談で構成された『格差時代を生き抜く教育』(ユビキタ・スタジオ・2006年)や『それでもゆとり教育は間違っていない』(扶桑社、2007年)そして自身へのバッシング・さらには社会学者などによる格差社会論に対して反論を試みた『さらばゆとり教育』『百マス計算でバカになる』(共に光文社ペーパーバックス)を出し・その後は官僚論を刊行し(『官僚批判』(講談社、2008年)『文部科学省』(中公新書ラクレ、2013年)など)近年では現在の安倍晋三政権における保守色が強くなると『教育の国家支配がすすむ』(青灯社、2017年)などという教育論が多くなります

「偏差値追放」というスローガンに隠れがちではありますが・・・寺脇氏の目指していた教育論というのは・・むしろ子供たちの多様性を尊重し・・・また教育を地域に開くものであるということが言えるのかもしれません。
そのようなことは後に寺脇氏がNPOなどのオルタナティブな教育実践者と積極的に対談を行って自分の主張の正当性を主張していることからも裏付けられます(単に利用しているだけとも捉えることはできますが)。

寺脇氏については・・教育を社会に開くことで子供の人生観を豊かにしたいという想い・また和田氏については競争を否定することにより階層が固定された社会を目指すのか・・というものが主張の背景にありました。

しかし・・・そういった社会観と実践法のすりあわせは「学力低下」論・そして若い世代が「劣化」しているという言説の圧倒的な物量にかき消され後には「ゆとり世代」と呼ばれる若者への偏見のみが残ったのです(そしてそれに対しては和田氏も少なからず荷担していた)。

これこそが「ゆとり教育」論争の不幸と言うことができます。

不毛というのは・・これらの論争において明らかに置き去りにされたものがあることです。それこそが「ゆとり世代」とバッシングされた若い世代への偏見の払拭です。

学生そして新入社員や若手社会人に対する教育や指導などは・・もはや「ゆとり教育」「ゆとり世代」という概念とは切っても切り離せないものとなっています。

それは柘植智幸氏や大堀ユリエ氏などといった若手社員指導法の本の著者が…積極的に書名に「ゆとり教育」という言葉を使っていることにその一端が見られます。

「ゆとり教育」論がもたらしたものの弊害について改めて考えなければならないのです

大きく違うのは昔と今では違って今そのゆとり教育になったことでどの様な人達が多くなったのか?学力などに関して大きく響いてきているので問題になっているのではないか?だと思います。
ゆとり教育を悪く思うような人もいますが・・基本的には生徒1人1人の学力が低下したと思われたりすることが多いです

しかしながらこれだけではなく・・教える側にも問題があるのではないでしょうか?

実は今と昔では勉強方法であったり休日などといったものも大きく異なっています。
特に勉強に関してでは・・学力だけではなく道徳的なものも追加され評価の方法までも変わってしまいました
ゆとり教育では学習内容の削減がありました

昔というのは基本的に詰め込み教育と呼ばれるものでした

「その結果になるのは何故なのか?」というような思考力が昔は全体的に低い状態であったのでそれを重視するために削減をして知識量だけではなく思考力や経験といったものが重視されるようになったという事です。

これは今で言う会社でも同じような事が言えますよね。
知識だけではなく実際にしてみないと意味が無いです。

ここで重要なのは削減されたものはどのようにして補うのかという話になりますが、実はこの削減されたものは高校での学習で習うようになったのです。
なのでよく聞くのが「昔は中学で習ったけれど今は無いのか」というような事は…まさにこのゆとり 教育があり学習内容も変わったからなのではないかと思います。

総合学習の時間を追加
総合学習の時間を追加するというような事もあるでしょう。
これはどういう事かと言うと…どうしても苦手な科目であったり不足しているというような科目というものがありますよね。
それを重点的に総合的に学習をする時間としてこの総合的な学習の時間が追加されました

しかしながら・・・ゆとり教育でこれを行うことにより学力が増えたというような事もあれば・逆に減ったという例もあり…今では削減をされている傾向にあるのではないかと思います。

これも実は昔は詰め込み教育であったものを変えようとして実施されたものの1つであり・自分で考える・学ぶといった思考力を鍛える際にあるような時間でもあったのです。

選択学習の追加
選択学習の追加というような事もありました。
これは中学生の頃などに体験をしたというような人も多いかもしれませんが、選択科目というようなものが出てきたと思います。

自分が気になる分野に対してどんどん取り組むというような形で選択学習というようなものが追加されました。
基本的には今で言う5教科が主でしたが・・それ以外の科目として選択式にしていたのもあるのではないかと思います。

相対評価から絶対評価に変更
ゆとり 教育で変わった内容のもう1つとしては相対評価から絶対評価に変わったという事になります

相対評価というようなものはクラスで50人いたとしてその50人の平均での評価をするという形です。
例えば50人中上位10人がA判定というような・・いわゆる平均でその上の人数の評価が決まっていました
しかしながらこの評価というのはどうしても個人差というようなものが出てきます

誰もが同じ体力であり誰もが同じ条件であるというような事は先ずないです。
身体が弱い人は体力が少なく筋力が無い人というのは力が入らないので体育的なものに関してはどうしても低くなってしまいます

相対評価の場合は全体の平均ですが…絶対評価の場合は1人1人を評価していくというような形になったのです
絶対評価に変わることで全体で見るのではなくその個人の実力を見て評価をするというような形になりました

いわゆる今の実力からどれだけ成長をすることができるのか・・・という事が絶対評価という事になります

日本は文科省が威張っていて「学習指導要綱」というのを作り先生は教科書とこの要綱にそって教えるだけだから…まず先生の「ゆとりの教育」が必要だったが・・それを省いたので何を教育すればよいのか・・先生が自ら考える力がなかった結果...失敗に終わったのです

せっかくゆとりの教育で「自分で考えられる人」を作ろうとしているのに召使の勉強から離れたくないというのであるから実に馬鹿らしいと思いませんか?これでは日本は自立できないと言っても過言ではありません

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