小学4年生くらいのときだったと思う。
朝、洗面台に立って洗った顔をタオルで拭きながら、
ふと「感情をなくせばいいんだ」とひらめいた。
辛いと思うから辛くなるのだ。
辛いと思わなければ辛くならない。
我ながら良い考えだ!と思ったのを、うっすらと覚えている。
辛いことが続いていて、
「辛い」ということを感じ続けることに限界がきていたのだと思う。
だからだと思うけれど、私は子ども時代の記憶がほとんどない。
未だに子ども時代のことを聞かれるのが少し苦手。
覚えていないから答えられない。
きっと、無感情で無表情な、居てもいなくても分からないような、
そんな子どもだったと思う。
いわゆる「かわいくない子」。
年齢に沿った子どもらしさがなくて、
過度な幼さと、一方で真逆の大人びた落ち着きと、
両極端しか持ち合わせていなかったと思う。
「楽しい」という感情や感覚は
20代の後半に初めて自覚できた。
きっと子どものときにもあったのだろうけれど
記憶がない。
「楽しい」という感情や感覚を自覚したときは、
「これが楽しい!って感じなのか!」と驚いた。
初めて感じる、その感じに、
自分で自分にとまどっていたと思う。
私は自分を感じらていなかった。
中身がなくて、空っぽで、
何がしたいのか分からなくて、
私の人生が終わるその日まで
何とか生きていかないといけないから
いつまでこれが続くんだろう、と
げっそりした。
生きることを諦めていた。
「生きたい」というエネルギーがわいてこなかった。
苦しさを感じないようにしているつもりでも、
無自覚な苦しさが積もりに積もりピークに達すると、
「自分」という根幹が大きく揺れ始める。
周囲との関係性の極端な悪化や、
病気としてあらわれることもある。
それは、
「魂を活かしていいよ」
「魂に沿った生き方をえらんでもいいよ」という、
「魂の発動」のきっかけまでこれた、ということ。
重い苦しみから「魂」への扉が開かれていくことが多い。
自分の本当の望みを明確にして、
その望みを大切にする生き方を選ぶこともできるよ、ということ。
自分の一番奥深くにあるものへ、
自分の内側に集中してみて、探しにいってみる。
「本当」の手前には、たくさんの「見せかけ」があるから、
それも1つ1つ見極めながら進めていく。
「たましいはそれに関心を向けない人には、その姿を顕さない」
河合隼雄
自分の「本当」を自分が求めたり望むから、
掴むことができるようになる。
自分の「純粋性」を信じてみる。
それまでは、その「純粋性」が「この世」で自分を苦しめる邪魔なものと思っていたかもしれない。
だから「純粋性」にフタをして、「この世」に合わせるために、
あれもこれもと付け足して、「この世」に馴染ませようと頑張ってきたかもしれない。
だけど、その頑張りが報われず、
むなしさや、さみしさや、不安や、悲しみや、焦りや、
そういったものがぬぐえないのなら、
自分の「本当」を自分が求めている、ということだと思う。
自分の「本当」を自分が望むこと。
「望んでもいい」と純粋に思えたとき、
それまで意識の表面をすべるようにしか機能していなかった言葉の奥に
「魂」があるかないかを感じられるようになってくる。
自分の発する言葉に「自分の本当」かどうかを
感じられるようになる。
そして、自分以外の人のそれにも全く同じように感じられるようになる。
自分を感じてみよう。
良いことと感じることも、悪いと感じることも、
怖れずに感じてみる。
自分の「本当」は自分をいつだって応援し支えてくれている。
大丈夫。