絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む

すべてのカテゴリ

2 件中 1 - 2 件表示
カバー画像

意識が遠のく感覚と身体の苦しさを感じる中で感じた孤独死について

皆様、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか?少しずつ蒸し暑い日が増えてきた気がします。どの方もご無理せずに、日々を過ごされてくださいね。さて、昨日は朝起きてから体調が急に悪くなり、立つこともできず、息をすることも苦しい状態で倒れていました。数時間ほどそのような状態が続き、真剣に孤独死について考えました。その時の自分は救急車を呼ぶか迷っていました。ただ、いざ救急車を呼ぼうとしても、そもそもの問題として声も出すことができないような状態で、電話機も近くにない状態でした。電話をしに行くことさえできない状態で、孤独死をする人たちはこのようにして死んでいくのかもしれないと真剣に感じた出来事でした。また、本当に苦しい時は声を出すこともできません。助けを外に求めることもできず、一人で苦しんで死んでいく方は、今の日本の社会では増えているのだと思います。その後、意識が遠のく中で、いろいろなことを考えました。死なないとは頭で理解していても、今感じている苦しみから逃れたいと言う気持ちは強く感じました。意識が遠のいていけば楽になれると感じた自分もいました。ただ、意識は完全にはなくならず、苦しみだけを耐え続ける時間が長く続きました。今も痛みはかすかに残ってはいるのですが、日常生活は送れています。孤独死については問題になっていますが、今後ますます増えていくのだと思います。孤独死をする方の多くは動くこともできず、ただ地面に横になって自分や身体の中にある苦しみと向き合う時間が続くのだと思います。身体が震えてきて、息をすることも難しくなった状態で、自分の人生がこのように終わってしまうのは嫌だと心の底から感じました
0
カバー画像

心が動く場所を、私たちは現実と呼ぶ

 私たちは、自分の「死」についてあれこれと思索を巡らせることがあります。 しかし、どれほど深く考えても、実はその答えに辿り着くことはできません。なぜなら、自分自身の死を、自分自身で直接体験し、認識することは不可能だからです。 哲学的に言えば、「一人称の死」というものは存在しません。 それでも私たちが死を恐れ、あるいはその意味を問い続けるのはなぜでしょうか。 それは「その人の行動に影響を与えるものこそを、その人は現実と捉える」という人間の性質があるからです。 まだ見ぬ死への問いが、いま現在の私たちの生き方や選択を大きく変えるからこそ、死は私たちにとって切実な「現実」として立ち現れてきます。 一方で、私たちは他者の死を客観的に知ることもできます。例えば、街頭の電光掲示板に「本日の交通事故死者数」が掲げられているのを目にすれば、今日何人の方が亡くなったのかを正確に把握できます。 これは「二人称、あるいは三人称の死」であり、私たちはそれを社会的な事実として共有しています。 将来、科学や生理学のアプローチが進めば、私たちは脳の化学反応による情動や喜怒哀楽のメカニズムとして、死のプロセスを客観的に語れるようになるかもしれません。 しかし、それらの感情は本来、他者との関わりの中で意味を持つものです。 例えば、無人島に孤立したロビンソン・クルーソーのように、完全に社会から切り離されたとき、私たちの精神や「死」の意味はどう変容するのでしょうか。 そう考えると、私たちが抱く死への恐怖や悲しみすらも、他者との関係性の上に成り立つ「社会的な概念」の一種であると気づかされます。 しかし、そうした社会の枠
0
2 件中 1 - 2