心が動く場所を、私たちは現実と呼ぶ

心が動く場所を、私たちは現実と呼ぶ

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コラム
 私たちは、自分の「死」についてあれこれと思索を巡らせることがあります。
 しかし、どれほど深く考えても、実はその答えに辿り着くことはできません。なぜなら、自分自身の死を、自分自身で直接体験し、認識することは不可能だからです。
 哲学的に言えば、「一人称の死」というものは存在しません。

 それでも私たちが死を恐れ、あるいはその意味を問い続けるのはなぜでしょうか。
 それは「その人の行動に影響を与えるものこそを、その人は現実と捉える」という人間の性質があるからです。
 まだ見ぬ死への問いが、いま現在の私たちの生き方や選択を大きく変えるからこそ、死は私たちにとって切実な「現実」として立ち現れてきます。

 一方で、私たちは他者の死を客観的に知ることもできます。例えば、街頭の電光掲示板に「本日の交通事故死者数」が掲げられているのを目にすれば、今日何人の方が亡くなったのかを正確に把握できます。
 これは「二人称、あるいは三人称の死」であり、私たちはそれを社会的な事実として共有しています。

 将来、科学や生理学のアプローチが進めば、私たちは脳の化学反応による情動や喜怒哀楽のメカニズムとして、死のプロセスを客観的に語れるようになるかもしれません。

 しかし、それらの感情は本来、他者との関わりの中で意味を持つものです。
 例えば、無人島に孤立したロビンソン・クルーソーのように、完全に社会から切り離されたとき、私たちの精神や「死」の意味はどう変容するのでしょうか。
 そう考えると、私たちが抱く死への恐怖や悲しみすらも、他者との関係性の上に成り立つ「社会的な概念」の一種であると気づかされます。
 しかし、そうした社会の枠組みとは、全く異なる次元で死を見つめる視点もあります。
 それが仏教の生死観であり、特に空海が拓いた真言宗(密教)においては、生と死の捉え方が劇的に異なります。

 真言宗では、この肉体のまま仏になる「即身成仏」を説き、生と死を断絶されたものとは考えません。
 世界を構成する地・水・火・風・空・識という要素は、すべて宇宙の命そのものである「大日如来」の現れです。
 したがって、死とは「無」になることではなく、個としての境界線が消え、大きな宇宙の循環へと還っていくプロセスに過ぎません。
 一人称の死という恐怖は、この「生死一如」の思想によって鮮やかに超越されるのです。

 私たちが「死」をどのように定義し、どのように表現するか。
 それはある意味で、社会の概念を組み立てる「デザイン」そのものであると言えるのではないでしょうか。
 真言宗の深い死生観もまた、私たちが生きる世界を再構築するための、大いなる精神のデザインなのかもしれません。

                           沙門蒼俊  合掌
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