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即身成仏という祈り――真言宗の修行が教えてくれる、宇宙と私を結ぶ知恵

 日々の喧騒に追われていると、ふと自分の心を見失いそうになることがあります。 仏教における厳しい修行の数々は、一見すると現代の私たちから遠い世界のことのように思えますが、その根底にあるのは、誰もが抱える迷いや苦しみから自由になるための、極めて実践的な知恵です。 特に、弘法大師・空海が開いた真言宗の教えには、今を生きる私たちの心にも深く響く、瑞々しい世界観が広がっています。 真言宗の教えが目指す究極の境地、それは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。これは、はるか遠い未来や死後に仏になるのではなく、この肉体を持ち、生きている今この瞬間に、自分自身が仏の境地に達するという思想です。  そのために、真言宗では独自の修行を行います。修行の本質は、決して単なる苦行ではありません。それは、自らの「身(身体)・口(言葉)・意(心)」という3つの営みを、仏と一体化させていく「三密(さんみつ)の修行」というプロセスなのです。 具体的には、仏と同じ「印」を指先で結び(身)、神秘的な力を秘めた言葉である「真言」を唱え(口)、心に仏の姿を鮮やかに思い描き(意)ます。 こうして自分の身体、言葉、心を仏と完全に一致させることで、私たちの奥底に眠っている「仏の心」を呼び覚ましていくのです。 また、滝行や断食、険しい山中を歩くといった肉体の限界に挑む厳しい行も、すべてはこの即身成仏への道のりです。 過酷な環境の中で自分自身の慢心や、物事への執着といった「煩悩」を焼き尽くし、心を極限まで浄化していきます。 そうして得られた強い精神力や功徳(エネルギー)は、決して自分一人の満足のためだけには使われません。 それ
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樒の根元に還る雀の涙

 私の師僧のお寺には、施餓鬼(せがき)供養塔が静かに佇んでいます。 施餓鬼とは、仏教において飢えと渇きに苦しむ「餓鬼」や、拠り所のない無縁仏に食を施して供養する儀式のこと。 私の師僧は毎日、この石塔にお米を丁寧に乗せ、真言を唱えていらっしゃいます。 そのお米を目当てに、日中になるとスズメなどの野鳥が次々と集まり、お腹を満たしていくのがいつもの光景でした。 厳しい修行のさなか、境内を包む小鳥たちの健やかなさえずりは、私にとって無上の癒やしであり、それ自体がひとつの美しい供養の姿のようでもありました。 しかし、ここ数か月、異変が起きていました。 供えたお米がまったく減らなくなり、あれほど賑やかだった鳥のさえずりも、ぴたりと途絶えてしまったのです。 静まり返った境内で、私の胸には小さな、けれど確かな寂しさが澱(おり)のように積もっていきました。 その理由を知ったのは、修行として縁側の雑草を刈っていたときのことです。 生い茂る草をかき分けた縁側の下に、ぽつんと、小さなスズメの亡骸を見つけました。それはきっと、猫に襲われたのでしょう。 この場所で猫にやられた雀が流した涙が、目に見えない警戒の気配となって、仲間たちを遠ざけていたのだと気づきました。 理由が分かった納得感とともに、「ずっと見つけてあげられなくてごめんね」という痛切な思いが、胸の奥から湧き上がってやみませんでした。 私は、密教に用いられる霊木・樒(しきみ)の根元に深く穴を掘りました。そして、拙いながらも一言一言に祈りを込め、真言を唱えながら、その小さな命を優しく土へと還してあげたのです。  雀の流した目に見えない涙が、どうか樒
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心が動く場所を、私たちは現実と呼ぶ

 私たちは、自分の「死」についてあれこれと思索を巡らせることがあります。 しかし、どれほど深く考えても、実はその答えに辿り着くことはできません。なぜなら、自分自身の死を、自分自身で直接体験し、認識することは不可能だからです。 哲学的に言えば、「一人称の死」というものは存在しません。 それでも私たちが死を恐れ、あるいはその意味を問い続けるのはなぜでしょうか。 それは「その人の行動に影響を与えるものこそを、その人は現実と捉える」という人間の性質があるからです。 まだ見ぬ死への問いが、いま現在の私たちの生き方や選択を大きく変えるからこそ、死は私たちにとって切実な「現実」として立ち現れてきます。 一方で、私たちは他者の死を客観的に知ることもできます。例えば、街頭の電光掲示板に「本日の交通事故死者数」が掲げられているのを目にすれば、今日何人の方が亡くなったのかを正確に把握できます。 これは「二人称、あるいは三人称の死」であり、私たちはそれを社会的な事実として共有しています。 将来、科学や生理学のアプローチが進めば、私たちは脳の化学反応による情動や喜怒哀楽のメカニズムとして、死のプロセスを客観的に語れるようになるかもしれません。 しかし、それらの感情は本来、他者との関わりの中で意味を持つものです。 例えば、無人島に孤立したロビンソン・クルーソーのように、完全に社会から切り離されたとき、私たちの精神や「死」の意味はどう変容するのでしょうか。 そう考えると、私たちが抱く死への恐怖や悲しみすらも、他者との関係性の上に成り立つ「社会的な概念」の一種であると気づかされます。 しかし、そうした社会の枠
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宇宙の呼吸に包まれて――阿字観が教えてくれる、ありのままの自分

 日常の喧騒から少し離れ、静かに自分と向き合う時間。そんなひとときをもたらしてくれるのが、真言密教の伝統的な瞑想法「阿字観(あじかん)」です。 これは平安時代、弘法大師・空海によって日本へと伝えられた、歴史ある心の調律法です。 阿字観では、目の前に掲げられた掛け軸を見つめます。そこに描かれているのは、満月のような丸い輪(月輪)と、その中心にある梵字の「阿(あ)」という一文字。 この「阿」はすべての言葉の始まりであり、宇宙の生命の根源を象徴しています。 呼吸を重ねながらこの文字を心に描き、仏の心を自分の中へと受け入れていくと、やがて「宇宙と自分は一つである」という、おだやかな一体感に包まれていきます。 よく比べられる「座禅」が、頭を空っぽにして無を目指すものだとすれば、阿字観の姿勢はとてもあたたかです。 「悩みや煩悩を抱えたままでいい、ありのままの自分を認めよう」という、自己肯定の優しさに満ちています。息を吐き出すとともにネガティブな感情を外へ送り出し、吸う息とともに宇宙の清らかなエネルギーで満たされていくイメージは、現代を生きる私たちの心をも深く癒やしてくれます。 その基本的な実践は、次のような丁寧なステップで進んでいきます。調身(ちょうしん):姿勢を整えます。足を組み、背筋を伸ばして、肩の力をふっと抜きます。調息(ちょうそく):呼吸を整えます。「あーー」と声を出しながら細く長く息を吐き、吸う時も心の中でその響きを感じる「阿息観」を行います。調心(ちょうしん):心を整えます。半分目を開けた状態で阿字の掛け軸を見つめ、月の光と仏の心を自分の中へと溶け込ませていきます。 このような
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【笑えるエッセイ】君の宗派は。    5% 真言宗

蒼俊は。真言宗。日本の仏教宗派は大体、宗派名割合の目安主な特徴・代表的な教えなど浄土真宗約48% 阿弥陀如来の本願による「絶対他力」と「信心正因」。浄土宗約19% 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで極楽浄土へ往生する。曹洞宗約12% ひたすら座禅を行う「只管打坐(しかんたざ)」を重視する。日蓮宗約10% 「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを重視する。真言宗約5% 弘法大師(空海)が開祖。大日如来を本尊とする密教。臨済宗約5% 公案(問答)を用いた座禅や、水墨画などの文化にも影響。天台宗約2% 最澄が開祖。比叡山延暦寺が総本山。となっております。蒼俊が件の坊主バーへ線香をもって飲みに行きました。浄土宗の方だとはわかりませんでしたが、バーにある仏壇のご本尊が阿弥陀如来様でしたので、「申し訳ございません。私は真言宗徒なので、阿弥陀如来様に真言を唱えました」と申し上げたところ、「(うちのバーは)真言宗の方がいないんですよ~・・・」と、坊主トーク。「そうなんですねー」と言った、翌週・・・・・坊主バーに出勤していました(笑)今でもたまに出勤いたします。ということは現物がいるよ(笑)なお、PVには出演しておりません。                              蒼俊
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祈願を受けた後、何をすればいいのでしょうか?

「祈願を受けた後は、何をすればいいのでしょうか?」「何か特別なことをしなければ、ご利益はいただけないのでしょうか?」このように思われる方もいらっしゃるかもしれません。私は、ご祈願を受けた後に、難しいことをする必要はないと思っています。毎日長時間、お経を唱えなければならない。厳しい修行をしなければならない。そのようなことではありません。まず大切にしていただきたいのは、「祈願したから、あとは仏様にお任せ」で終わらせないことです。祈願とは、願いを叶えるための魔法ではありません。私は、「仏様とのご縁をいただき、自分自身も良い方向へ歩き始めるきっかけ」だと考えています。たとえば、金運上昇を願ったのであれば、お金の使い方を少し見直してみる。家庭円満を願ったのであれば、家族に「ありがとう」と伝えてみる。良縁成就を願ったのであれば、人との出会いを大切にしてみる。商売繁盛を願ったのであれば、目の前のお客様を今まで以上に大切にする。身体健全を願ったのであれば、食事や睡眠など、自分の身体をいたわる。ほんの小さなことで構いません。祈願した願いに向かって、自分にできることを一つ始めてみるのです。そして、もう一つ。私が大切だと思っていることがあります。それは、「感謝すること」です。朝、目が覚めたこと。今日も食事ができたこと。誰かが声をかけてくれたこと。仕事があること。家族がそばにいること。当たり前に思っている日常の中にも、たくさんの「有り難い」があります。「願いが叶ったら感謝する」のではなく、「今あるものに感謝しながら、願いに向かって歩いていく」。私は、この心を大切にしていただきたいと思っています。もちろ
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「こんなお願いでも大丈夫?」祈願に遠慮はいりません

「こんなことを仏様にお願いしてもいいのでしょうか?」祈願についてご相談をいただく中で、このようなお言葉を聞くことがあります。たとえば、「お金のことで困っています」「夫婦関係を良くしたいです」「仕事がうまくいきません」「良いご縁に恵まれたいです」「家族が健康でいてほしいです」どれも、とても現実的な願いです。だからこそ、「こんなお願いをしたら欲深いと思われないでしょうか」と心配される方もいらっしゃいます。しかし私は、願いを持つことそのものが悪いとは考えていません。私たちは皆、それぞれの生活の中で悩み、迷いながら生きています。家族を守りたい。生活を安定させたい。病気から回復したい。仕事を成功させたい。良い人と巡り会いたい。その根底には、「今より少しでも良い方向へ進みたい」という思いがあるのではないでしょうか。大切なのは、願いを持った後です。祈願したから、あとは何もしなくていい。私は、そのようには考えていません。仏様に願いをお預けし、ご加護をいただきながら、自分自身もできることを一つずつ行っていく。その姿勢が大切なのだと思います。例えば、良縁を願うのであれば、人との出会いを大切にする。商売繁盛を願うのであれば、お客様を大切にする。金運上昇を願うのであれば、お金の使い方を見直し、いただいたものへの感謝を忘れない。家庭円満を願うのであれば、まず自分から優しい言葉を一つ増やしてみる。祈願とは、仏様にすべてを任せることではありません。仏様のお力をいただきながら、自分自身も良い方向へ歩み始める。私は、そのための大切な「ご縁」でもあると思っています。そして、願い事を言葉にすることで、「自分は本当は
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真言宗住職になった理由】会社員から住職へ。私が僧侶の道を選んだ理由

「なぜ住職になったのですか?」これは私がよくいただくご質問です。私は生まれたときから僧侶だったわけではありません。約30年間、一般企業に勤め、営業所長やエリアマネージャーとして仕事に励んできました。その一方で、18歳の頃から仏教に関心を持ち、法華経や弘法大師の教えに触れながら学びを続けてきました。仕事では多くの方と出会い、喜びもあれば、人間関係や将来への不安、人生の苦しみに向き合う場面も数え切れないほど経験しました。だからこそ、悩みや不安を抱える方のお気持ちに寄り添える住職でありたいと、日々願っています。その後、ご縁に導かれるように真言密教の修行へ入り、四度加行を満行し、阿闍梨の資格を授かりました。現在は真言宗の住職として、日々祈祷を厳修し、皆さまの幸せを願いながら活動しております。仏教は、悩みを否定する教えではありません。悩みとの向き合い方を学び、心を少しずつ穏やかにしていく教えです。人生には、誰しも迷いや不安を感じる時があります。そんな時、一人で抱え込まず、誰かに話すだけでも心が軽くなることがあります。もし今、人生に迷いや不安を感じておられましたら、お気軽にご相談ください。密教占いでは、生年月日から運勢を拝見するだけではなく、住職として祈りを捧げ、仏教の教えを交えながら、お一人おひとりに寄り添った鑑定を心がけています。皆さまとのご縁に感謝し、これからも心に寄り添える住職であり続けたいと思っております。合掌
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お願いする前に、まず感謝を―祈願で大切にしたい心

8月13日。多くの地域では、今日からお盆を迎えます。ご先祖様をお迎えし、手を合わせる方も多いのではないでしょうか。お盆というと「先祖供養」を思い浮かべますが、私はもう一つ、「今、自分がここにいることへの感謝」を思い出す大切な機会でもあると思っています。私たちは祈願をするとき、「金運を良くしてください」「仕事がうまくいきますように」「家族が健康でありますように」「良いご縁に恵まれますように」と、さまざまな願いを仏様にお届けします。もちろん、願いを持つことは悪いことではありません。苦しい状況から抜け出したい。大切な家族を守りたい。人生を良い方向へ変えたい。そう願うのは、とても自然なことです。しかし私は、願いを届けるときに、もう一つ大切にしていただきたいことがあります。それが、「ありがとうございます」という感謝の心です。願いを叶えていただいたから感謝するのではありません。まだ願いが叶っていなくても、今日一日を迎えられたこと。食事ができること。住む場所があること。誰かが自分を気にかけてくれていること。そして、ご先祖様から命をつないでいただき、今ここに自分がいること。探してみれば、私たちの周りにはたくさんの「有り難い」があります。人は苦しい時ほど、「足りないもの」ばかりを見てしまいます。お金が足りない。運がない。良い人に恵まれない。仕事がうまくいかない。しかし、一度立ち止まって、「今、自分にあるものは何だろう」と見つめてみる。すると、心の向きが少し変わることがあります。私は、祈願も同じだと思っています。お願いするだけではなく、まず感謝する。そして祈る。さらに、自分自身も一歩動く。私が大切
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祈願は、本当に意味があるのでしょうか?

「祈願をお願いしたいけれど、本当に意味があるのだろうか。」そのように思われる方は、決して少なくありません。私も、そのお気持ちはよく分かります。もし祈願が、ただ手を合わせるだけの儀式であれば、大きな意味はないかもしれません。しかし、真言密教における祈願は、それとは少し違います。真言密教では、仏様の智慧と慈悲のお力をいただきながら、ご本人の願いがより良い方向へ向かうよう、一座一座、心を込めて法要を厳修いたします。もちろん、祈願を受けたからといって、何もしなくても願いが叶うわけではありません。しかし、祈願には、人の心を整え、善いご縁へと導く大きな力があると、私は信じています。健康を願うなら、自分の身体を大切にする。金運を願うなら、日々の仕事に励み、感謝の心を忘れない。人間関係を願うなら、相手を思いやる気持ちを持つ。そのような日々の積み重ねに、仏様とのご縁が重なることで、人生は少しずつ良い方向へ動き始めます。これまで多くの方のご祈願をお勤めしてまいりましたが、多くの方から、「気持ちが軽くなりました。」「前向きな気持ちになれました。」「気持ちが整い、一歩前へ進めるようになりました。」というお言葉をいただいております。心が変わると、表情が変わります。表情が変わると、言葉が変わります。言葉が変わると、行動が変わります。そして、行動が変わると、ご縁も少しずつ変わっていきます。私は、その最初の一歩を、仏様のお力とともに後押しすることが、祈願の大切な役割だと考えています。悩みや不安を、一人で抱え込む必要はありません。どうぞ安心して、仏様に願いをお預けください。仏様は、願いを持つ人を責めることはあり
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仏様にも、歩んできた時間があるのかもしれない

先日、知人のお寺の護摩法要に参拝しました。私は密教の修行に関わる中で、仏様と一体となることを大切にしています。護摩の炎を前に手を合わせ、いつものように仏様とのご縁を感じながらお参りしていました。その時、ふと不思議な感覚がありました。「少し重たい……」そんな感覚です。気になった私は、知人に尋ねました。 「あの仏様は、何かいわれがある仏様なのですか? すると、こんなお話を聞きました 「私がこのお寺を受け継いだ時、あの仏様の上の天井が壊れていて、雨がずっと降り注いでいたんです」 その言葉を聞いて、なぜか納得しました。もしかしたら私は、その仏様が長い間受けてこられたものを感じたのかもしれないそう思いました。 もちろん、これは私が感じたことです。でも、その時に改めて思ったことがあります。仏様は、ただ飾られている存在ではなく、そこに関わる人々の祈りや時間、ご縁の中で生きていらっしゃる、と。丁寧にお勤めされているお寺には、やはりそこに流れるものがある。そんなことを感じた一日でした。目に見えるものだけではなく感じるものも大切にしていきたい。そう思わせていただいた参拝でした御祈願を受け付けておりません。これを機に手を合わせてみませんか。💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠💠
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願うということは、思いを届けるということ

先日、疎遠になってしまっている師匠へ、お中元を贈る準備をしました。品物だけでは、どうしても伝わらない思いがあるように感じて、その前に届くよう、お手紙も書きました。何度も書いては消して。どの言葉なら伝わるのか。どの言葉なら失礼にならないのか。考えながら筆を進めました。伝えたいことはたくさんあるのに、いざ言葉にしようとすると、思うようにまとまらないものですね。もちろん、この手紙を書いたからといって、すべてが元通りになるとは思っていません。相手がどう受け取るのかは、私には分かりません。もしかすると、ただの自己満足に見えるかもしれない。そう思う気持ちもあります。それでも、何もしないまま後悔するよりも、自分にできる精一杯の気持ちを届けたいと思いました。結果を求めるのではなく、「伝えたい」と願った自分の心を大切にすること。それもまた、一つの祈りなのではないかと思います。🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー🍀ー仏教では、願いを「ただ叶えてほしい」と思うだけではなく、自分自身の心を整え、行動へとつなげていくことも大切にされています願うということは、思いを届けること。そして、その思いを届ける先は、仏様です。祈願とは、私たちの願いや悩み、感謝の気持ちを仏様へと届ける大切な行いだと私は考えています。僧侶は、その願いを自分の力で叶える存在ではありません。仏様と願う方との間をつなぐ役目をいただいているのだと思います。だからこそ、祈願をお受けするときには、その方がどんな思いで願われているのか、そのお気持ちを大切に受け止めたいと思っています。私自身も、今回師匠へ手紙を書いたことで改めて感じま
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【真言宗住職の自己紹介】なぜ私が密教占いと祈願を行っているのか

はじめまして。私は真言宗の住職として活動しております、宥崔(ゆうさい)と申します。現在は寺院での法務や祈祷を行いながら、YouTubeやTikTokを通じて、多くの方に密教の教えを分かりやすくお伝えしています。YouTube登録者は約9,500名、TikTokフォロワーは約15,000名となり、全国の皆さまとご縁をいただいております。私自身、僧侶になる前は一般企業に勤めておりました。そのため、仕事、人間関係、お金の悩み、将来への不安など、多くの方が抱える苦しみを身近に感じてきました。仏教では「悩みがあること」自体は決して悪いことではありません。悩みがあるからこそ、人は成長し、新しい道を見つけることができます。私は真言密教の修行を重ね、阿闍梨の資格を授かりました。現在も日々読経や祈祷を厳修し、ご縁をいただいた方々の幸せを願っております。ただ未来を当てるだけの占いではなく、「今の自分に何が必要なのか」「これからどのような心で進めばよいのか」そんなことを仏教の視点からお伝えすることを大切にしています。人生に迷いが生じたとき、一人で抱え込まず、誰かに相談することで心が軽くなることがあります。もし今、何かお悩みや不安を抱えておられるなら、お気軽にご相談ください。密教占いでは、生年月日から運勢を拝見し、住職の視点から丁寧に鑑定させていただいております。皆さまとのご縁を大切にしながら、これからも仏教の教えをお伝えしてまいります。合掌
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自分のことではないのですが…家族のために祈願してもいいのでしょうか?

「自分自身の願いではないのですが、祈願をお願いしてもいいのでしょうか?」時々、このようなご相談をいただきます。たとえば、「離れて暮らす息子の仕事がうまくいってほしい」「娘に良いご縁があってほしい」「夫の身体が心配です」「妻が少しでも元気になってほしい」「家族みんなが穏やかに暮らしてほしい」このように、自分のことではなく、大切な方を思って祈願を考えられる方もいらっしゃいます。もちろん、ご家族や大切な方のために祈ることはできます。むしろ私は、「誰かの幸せを願う心」そのものが、とても尊いものだと思っています。仏教には「慈悲」という大切な教えがあります。「慈」は、人に幸せを与えたいと願う心。「悲」は、人の苦しみを取り除いてあげたいと願う心です。ですから、「自分ではなく、この人に幸せになってほしい」という願いも、慈悲の心につながっているのではないでしょうか。ただし、ここで一つ大切にしていただきたいことがあります。それは、「自分の思い通りに相手を変えるための祈願」にはしないことです。たとえば、「あの人が私の言うことを聞きますように」ではなく、「あの人にとって良き道が開かれますように」と祈る。「この人と絶対に結ばれますように」ではなく、「お互いにとって良きご縁であれば、良い方向へ進みますように」と祈る。私は、そのような祈りを大切にしています。祈願とは、人を自分の思い通りに動かすためのものではありません。仏様の御前で、「どうか、この方が良き方向へ進めますように」と願いをお預けするものだと考えています。そして今日は、お盆の二日目でもあります。ご先祖様に手を合わせることも、ある意味では「自分以外の
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金運祈願を受ければ、お金持ちになれるのでしょうか?

「金運祈願を受ければ、お金が入ってくるのでしょうか?」このように思われる方もいらっしゃるかもしれません。最初に申し上げますと、金運祈願を受ければ、何もしなくても突然お金が入ってくる。私は、そのようなことをお伝えするつもりはありません。では、なぜ金運を祈願するのでしょうか。私が大切だと思うのは、「お金との良いご縁」を願うことです。お金は、私たちが生きていくうえで欠かすことのできないものです。食事をする。住む場所を守る。家族を支える。病院へ行く。誰かを助ける。こうしたことにも、お金は必要です。ですから、お金を求めること自体を「欲深いこと」と否定する必要はないと私は考えています。大切なのは、「何のためにお金を必要としているのか」です。自分や家族が安心して暮らすため。仕事や商売を発展させるため。大切な人を守るため。そして、いただいた豊かさを周りの人にも還元するため。そのような願いであれば、仏様の前で素直に願ってよいのではないでしょうか。純聖寺高槻布教所では、金運に関するご相談をいただいた際も、単に「お金が増えますように」と祈るだけではありません。ご依頼者様がお金にまつわる不安から少しずつ離れ、良い仕事、良い人、良い機会に恵まれ、生活がより良い方向へ向かいますようにと御宝前で祈願いたします。そして、もう一つ大切なことがあります。祈願をした後は、ご本人も一歩動くことです。仕事を頑張る。無駄な出費を見直す。人とのご縁を大切にする。いただいたものに感謝する。困っている人がいれば、自分のできる範囲で手を差し伸べる。そうした日々の行いもまた、良いご縁を育てていくのではないでしょうか。金運とは、宝く
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祈願は、いつ受けるのが良いのでしょうか?

「祈願は、お正月や厄年だけに受けるもの。」そのように思われている方も多いのではないでしょうか。もちろん、お正月や節目の時期に祈願を受けることには大きな意味があります。しかし、真言密教では、「今、この瞬間」も大切なご縁の時と考えます。例えば、仕事で悩んでいる時。家族のことで心配がある時。病気の回復を願う時。人生の大きな決断をする時。そのような時こそ、仏様のお力をいただき、心を整える良い機会なのです。私は、多くの方のご祈願をお勤めしておりますが、共通して感じることがあります。それは、「もっと早く相談すればよかった。」というお言葉です。人は悩みが深くなるほど、一人で抱え込んでしまいます。しかし、苦しみを抱えたままでは、冷静な判断が難しくなることもあります。だからこそ、仏様の前で手を合わせ、自分の心を静かに見つめる時間が大切なのです。祈願は、未来を変える魔法ではありません。けれど、自分の心を整え、善いご縁へ向かう第一歩になると、私は信じています。悩みが大きくなってからではなく、小さな不安のうちに仏様へ手を合わせる。その積み重ねが、人生を穏やかな方向へ導いてくださるのではないでしょうか。「こんなことをお願いしても良いのだろうか。」そのように思う必要はありません。仏様は、願いの大小で人を選ぶことはありません。どうぞ安心して、お気持ちをお聞かせください。皆様の願いが少しでも良い方向へ向かいますよう、真心を込めてご祈願いたします。合掌🙏━━━━━━━━━━━━━━━📿 純聖寺高槻布教所では、真言密教の法要に則り、一座一座、心を込めてご祈願を厳修しております。金運上昇・厄除け・家庭円満・身体健全
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遠隔祈願でも、ご利益はあるのでしょうか?

「遠くに住んでいるので、お寺へ行けません。」「遠隔で祈願を受けても、本当に意味があるのでしょうか。」このようなご質問をいただくことがあります。私の答えは、「真言密教では、距離によって仏様のお力が変わるものではない。」と考えています。もちろん、お寺へお参りし、仏様の前で手を合わせることには大きな功徳があります。しかし、様々な事情でお寺へ足を運ぶことが難しい方もいらっしゃいます。病気で外出できない方。仕事や育児、介護で時間が取れない方。遠方にお住まいの方。そのような方々にも、仏様とのご縁を結んでいただきたい。その思いから、私は遠隔でのご祈願も、一座一座、御宝前にて真言密教の法要に則り、心を込めて厳修しております。大切なのは、「距離」ではありません。祈る心と、仏様とのご縁です。私自身、ご祈願の際には、お名前とお願い事を御宝前にお供えし、お一人おひとりの幸せを願いながら読経し、ご加護をお祈りしております。「遠隔だから簡単に済ませる。」そのようなことは決してありません。直接お越しになる方も、遠隔でご依頼くださる方も、同じように真心を込めてお勤めしております。もし、お寺へ行けないことで祈願を諦めている方がおられましたら、どうぞご安心ください。仏様とのご縁に、距離はありません。皆様の願いが少しでも良い方向へ向かいますよう、真心を込めてご祈願いたします。合掌🙏━━━━━━━━━━━━━━━📿 純聖寺高槻布教所では、真言密教の法要に則り、一座一座、心を込めてご祈願を厳修しております。金運上昇・厄除け・家庭円満・身体健全・商売繁盛・良縁成就など、お一人おひとりのお悩みに合わせてご祈願いたします。「
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必要なものは必要なタイミングで届く

先日、たまたまお経の本やお次第などを販売しているサイトを見ていました。そこで、「これは欲しい!」と思うものを発見。こういうものって、迷っている間に売り切れてしまうこともあるので、「買いだ!」と思って注文しました。そのついでに、以前から気になっていた、何年も売り切れになっていた本について、ダメ元で「再販予定はありますか?」と問い合わせをしてみました。すると、「2027年3月頃に再販予定です」とのこと。でもネット販売だし、予約は難しいかな……再販の時期に何度もアクセスするしかないかな・・・と思っていました。ところが。注文して届いた荷物を開けて、納品書を見ると……なんと!!問い合わせした本について、「予約できます」と書いてあったんです。えーーー!?そんなことあります?(笑)たまたまサイトを見た。たまたま欲しいものがあった。たまたま問い合わせをした。心の中で予約できたらいいのにーって考えた。すると予約できるとお店側からお知らせを頂いた。もちろん、お店の方のご親切や仕組みがあってのことだと思います。でも、こういうタイミングって、「必要なものは必要な時にやってくる」という感じがして、なんだか嬉しくなります。僧侶として学びを深めたいと思っている今、こういうご縁はありがたいなぁと思います。焦らず、でもできることを少しずつ。ご縁というものは、不思議な形でつながっていくのかもしれませんね。仏様へ真摯に向かい合っております。お寺を持たない自宅でのお坊さん活動ではありますが願いを届ける力を必要なみなさまへ使いたいと思って毎日仏様と向き合っております😊
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貧乏寺の住職

昨年の6月、貧乏寺の住職を引き継いだ。貧しいどころではなく、全く収入のないお寺でした。まだ1年にも満たないことです。それでも動き出せば、徐々に人は集まるものですし、人が集まればお金も動き出します。お布施をいただき、お寺の収入がゼロではなくなりました。仏さまは、現実的、具体的にも我々をお救いくださいますことが、よく分かります。大きなお寺を世襲して、なんの努力もせず、苦労もなく、仏道から離れて、経済的に裕福であることに胡座をかいて生きる者よりも、多くを学ぶことが出来ています。有り難いことで一杯です。何より、私が拝むことで、依頼者が喜んでくれることが嬉しいし、喜びを感じます。それは、ココナラ経由でお申し込みの「顔が見えない相手」でも同じことです。幸せなことです。
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youtubeチャンネル、はじめました

もうすでに10本以上の動画をアップしています。初めての際には、聴衆がいない中、カメラに向かって話すことが難しかったのですが、少しなれてきました。また、十一面観音供、不動明王息災護摩供のライブ配信もしたのですが、予想以上に多くの方がご覧になられたので驚きでした。やはり、護摩供で炎があがるというのは、人気がありますね。視聴回数で言えば、ショート動画が一番多いのは当たり前として、私のトーク動画にも多くご視聴いただいて、嬉しい限りです。これからも、精進して、続けたいと思います。写真は、サムネの写真を使用しています。
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自分の幸せを願うのは、欲深いことでしょうか?

「自分のために祈願をお願いするのは、欲深いでしょうか?」このように思われる方も、いらっしゃるかもしれません。金運を良くしたい。仕事で成功したい。良いご縁に恵まれたい。家族と幸せに暮らしたい。健康で長く生きたい。こうした願いを持った時、「仏様にこんなお願いをしてもいいのだろうか」と遠慮される方がおられます。確かに仏教では、欲望に執着することを戒めます。しかし、「願いを持つこと」と、「欲望に執着すること」は、同じではないと私は考えています。たとえば、「もっとお金が欲しい」という願い一つをとっても、その理由は人によって違います。家族を安心させたい。子どものためにお金を残したい。借金を返して生活を立て直したい。商売を発展させ、従業員を守りたい。自分に余裕ができたら、困っている人を助けたい。そこには単なる欲ではなく、「大切なものを守りたい」という思いがある場合もあります。私は、自分自身が幸せになることを願ってよいと思っています。なぜなら、自分の心に余裕がなければ、なかなか人にも優しくできないからです。自分が笑顔になれば、家族にも笑顔が広がる。生活が安定すれば、誰かを助ける余裕が生まれる。仕事がうまくいけば、周りの人にも良い影響を与えることができる。自分の幸せと、人の幸せは、必ずしも別々のものではありません。ただし、大切なのは、「自分だけが良ければいい」という願いにしないことです。仏教には、「自利利他(じりりた)」という大切な考え方があります。自分自身を良くしていくことと、他の人のためになること。その二つは離れたものではありません。自分が幸せになり、その幸せを周りの人にも分けていく。私は、
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初心者向け 真言宗勤行動画を公開しました|まずは一緒に唱えてみましょう

皆さま、こんにちは。宥崔和尚です。 このたび、初心者の方向けに、 真言宗の勤行動画を作成し、YouTubeに公開しました。 「お経に興味はあるけれど、何から始めれば良いか分からない」 「真言や勤行は難しそう」 そんな方にも参加していただけるよう、 今回は、 『まずは一緒に読んでみましょう』 という想いで作成しております。 完璧に読めなくても大丈夫です。 声に出しても、 心の中で唱えても大丈夫です。 大切なのは、祈る時間、心を整える時間を持つことだと私は思っています。 今回の勤行では、 ・懺悔 ・三帰 ・三竟 ・十善戒 ・発菩提心 ・三昧耶戒 ・開経偈 ・般若心経 ・十一面観音真言 ・十三仏真言 ・光明真言 ・御宝号 ・大金剛輪陀羅尼 ・祈願文 ・回向文 を読誦しております。 朝の時間、 夜の静かな時間、 少し心を落ち着けたい時。 よろしければ、 動画と一緒にお勤めしてみてください。 ▼動画はこちら 感想もコメントでお聞かせいただけると嬉しいです。 合掌 ―――――――― 純聖寺高槻布教所 住職 宥崔――――――――
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琉球古神道にふれる

琉球古神道が知りたいと、沖縄に行ってきました。神人(かみんちゅ)さん、ユタさんにお会いし、世界遺産にもなった斎場御嶽(せぇふぁうたき)や神の島と呼ばれる久高島にも行ってきました。密教の中には、アニミズムもシャーマニズムが内包されていますが、琉球古神道は、まさにそれでした。祈りを中心として生活し、聖域を大切にし、古からの習慣がいまもなお続いています。御嶽などの聖域は、特別な空気感がありました。自然の中にあっても堂内と同じです。大和国でも磐座が神さまが在所として扱われますが、それは琉球でも同じですし、大きな岩には何かあるのでしょうね。「神さまの代替わり」について神人さんからお聞きしましたが、仏教においても天部の神さまは欲界の中にいて、人間よりも長寿であっても輪廻の対象ですから、代替わりはあるのでしょう。沖縄で学んだこと、たくさんあります。私にはたくさんの役割があると、神人さんから言われました。「代替わりの時ですし、忙しくなりますよ」と。私が、代替わりお手伝いをするようです。役割であるなら、喜んでお手伝いしますが、それをどのようにするのかは、まだ謎のまま。沖縄で善い刺激をもらって帰ったきたので、これから瞑想や加持祈祷で活かしていこうと思います。
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高野山

今日は、弘法大師空海によって開かれた高野山へ。若いころに修行させていただいた祖山でもあります。今は、まだ桜も残っていました。あいにくの雨でしたが、日曜日ということもあって、聖地高野山に訪れる人も多くおられました。この山にくるとエネルギーがもらえます。
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