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心が動く場所を、私たちは現実と呼ぶ

 私たちは、自分の「死」についてあれこれと思索を巡らせることがあります。 しかし、どれほど深く考えても、実はその答えに辿り着くことはできません。なぜなら、自分自身の死を、自分自身で直接体験し、認識することは不可能だからです。 哲学的に言えば、「一人称の死」というものは存在しません。 それでも私たちが死を恐れ、あるいはその意味を問い続けるのはなぜでしょうか。 それは「その人の行動に影響を与えるものこそを、その人は現実と捉える」という人間の性質があるからです。 まだ見ぬ死への問いが、いま現在の私たちの生き方や選択を大きく変えるからこそ、死は私たちにとって切実な「現実」として立ち現れてきます。 一方で、私たちは他者の死を客観的に知ることもできます。例えば、街頭の電光掲示板に「本日の交通事故死者数」が掲げられているのを目にすれば、今日何人の方が亡くなったのかを正確に把握できます。 これは「二人称、あるいは三人称の死」であり、私たちはそれを社会的な事実として共有しています。 将来、科学や生理学のアプローチが進めば、私たちは脳の化学反応による情動や喜怒哀楽のメカニズムとして、死のプロセスを客観的に語れるようになるかもしれません。 しかし、それらの感情は本来、他者との関わりの中で意味を持つものです。 例えば、無人島に孤立したロビンソン・クルーソーのように、完全に社会から切り離されたとき、私たちの精神や「死」の意味はどう変容するのでしょうか。 そう考えると、私たちが抱く死への恐怖や悲しみすらも、他者との関係性の上に成り立つ「社会的な概念」の一種であると気づかされます。 しかし、そうした社会の枠
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