社会という鬱蒼とした森の中で生きるべきなのか、それともその優しき境界線の外側で静かに暮らすべきなのか。
私は今、健康と病気という二つの世界の境界線を、何度も何度も往復しながら、そんな深い問いの前に佇んでいます。
もともと、私はそれほど強い体力や頑丈な心を授かったわけではありません。その脆い土台の上に、現代社会特有の高いストレスや、人生の途上で避けがたく訪れる予期せぬ不運が重なると、心と体のバランスは容易に崩れ去ってしまいます。
「遺伝子」の特性や「環境のストレス」が引き金となってうつが発症するメカニズムは、現代医学によってある程度解明されており、幸いにも薬を使うことで激しい症状を和らげることはできるようになりました。
しかし、薬がもたらす一時的な平穏の先にある、「では、これからどう生きていけばいいのか」という根本的な迷いや、魂の渇きまでも完全に消し去ってくれるわけではありません。
そんなとき、ふと心に湧き上がる疑問があります。
私たちは、社会集団という大きな枠組みから外れた場所で暮らしてはいけないのでしょうか。
レールから外れて生きていることは、それほど悪いことなのでしょうか。
ただ息をして、そこに存在しているだけで、誰かに責められる筋合いなどどこにもないはずです。
むしろ、森の外側で立ち止まり、ただ日々を過ごす時間にこそ、人生における本質的な意味が隠されているのではないかと思うのです。
渦中から一歩退いた境界線の外に立つからこそ、見えてくる景色があります。
盲目的に走っていた他人の姿や、見失いかけていた自分自身の本当の輪郭が、驚くほど客観的に、そして愛おしく見えてくることがあります。
そして、外の世界で十分に羽を休め、新たな視点を得た後であるならば、私たちはいつでも、自らの意思であの社会という森の中へ戻ることだってできるのです。
しかし現在の社会や組織は、均一化された特定の能力ばかりを効率的に追い求め、それに応えられない人々を振り落としてしまいがちです。
けれど、そこから溢れ落ちてしまう人々の内側には、既存の物差しでは測れない、全く別の輝かしい能力が眠っています。
例えば「専門用語を一切使わない」という振る舞いも、極めて高次元なスキルの一つではないでしょうか。
難しい知識を盾にして自分を大きく見せるのではなく、目の前にいる誰に対しても、その心の奥深くまで届くような、噛み砕かれた優しい言葉を選び取ることができる。
そうした真のコミュニケーション能力を持つ人は、組織の評価シートには現れなくとも、他者を包み込む絶対的な価値を持っています。
私たちが時として深い自尊心の低下に苦しむのは、個人の心が弱いからではありません。それは、周囲の環境や自分自身の心の中から「多様性」という選択肢が失われ、視野が狭くなってしまった結果なのだと思います。
多様性を認められなくなると、私たちの「想像力」は不充分になり、自分と異なるもの、そして何より自分自身の弱さを許せなくなって、心は硬く凝り固まってしまいます。
学ぶことの喜び、脳という小宇宙の不思議、紡ぎ出される言語の力、私たちを突き動かす無意識の領域、人と人が織りなす集団の力学、身の回りに佇む物たちの気配、そして組織のしがらみ。
私たちが触れるすべての要素には、もっと「しなやかさ」があっていいはずです。
生き方は決して、用意された一通りではありません。世界は驚くほど多様性に満ちており、幸せの感じ方だって、人の数だけグラデーションがあって良いはずです。
社会の森の中に身を置いていても、あるいはその外側で佇んでいても、私たちはいつだって、自分だけのしなやかな呼吸を続けていける。そんな風に、世界と自分の可能性を信じてみたいのです。
沙門蒼俊 合掌