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歴史関係の記事、投稿しました。

 Korufel(こるふぇる)と申します。  昔から歴史、特に戦国時代に興味深々ですが、最近は、ふと武将事典などを見渡して「この人面白そうだな」と思う事があり、独断と偏見で選んだ武将を紹介・少し考察する記事を書くことにいたしました。 おひまな時に目を通して頂ければ幸いです(^-^;。 ■“橙武者”薄田兼相について 薄田兼相(すすきだ・かねすけ)は隼人正(はやとのしょう)とも称し、豊臣秀頼に仕え3000石を給しました。  大坂冬の陣(1614)でも豊臣方の侍大将として戦いましたが、冬の陣の11月29日、遊女達と酒宴をしていたばっかりに水路上で重要な博労ヶ淵砦(ばくろうがぶち)を奪われた、という大失態を犯し、周囲から「橙武者(だいだいむしゃ)」と嘲笑されます。  橙は、見かけはあざやかだが中身は酸味が強くて食べられず、正月の飾りにしか使われない――つまりは「見掛け倒し」ということです。  そんなエピソードを持つ武将ですが、実はとある英雄と同一人物だという説があります。  幼少から怪力に優れ格闘技の流派を興し、剣術にも優れていたとする彼ですがその前半生はあまり知られておらず、いつ生まれたのかも、出生地もはっきりしていません(彼に限った話ではありませんが)。  そのためか、後世の歌舞伎等では岩見重太郎(いわみ・じゅうたろう)という同じく怪力の英雄と同一視されるようになりました。  岩見重太郎は、毛利家の小早川隆景の家臣・岩見重左衛門(じゅうざえもん)の次男とされ、父重左衛門が三人の同僚によって殺害された事から仇を討つため諸国を旅することになるのですが、その途中で山賊退治など、数々の伝
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人生迷ったり困った時はコレ!

「人生」と大げさに書きましたが、単純に未来の自分のために何をするか?でお困りの方、最近のエンタメよくわからん音楽聴かんな人向けの記事です。そういう人はズバリ三国志 戦国武将 幕末志士この3つのどれかを勉強する(ウィキを読むでも)がお勧めです。今でも人気!定期的にブームなどが来るコンテンツで武将の生きざまや考えは、現代の自分たちにも色々勉強や参考、刺激になる。ゲームでもなにかしら使われてたりととっつきやすさも◎ビジネス系の記事にて藤堂高虎よく見習えと書かれがち、みたいなアルアルを楽しむこともできます。ちなみに来年の大河は、戦国ど真ん中徳川家康が主人公です。なおこのメジャーどこは今更なぁ・・・という方は封神演義 水滸伝 源平から南北朝時代にハマるのも有り(/・ω・)/
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小説『不自由な織田信長』

【字数:約四千三百】  ***「おう、おう、ようやっておるわ」 晴天なりし都の空の下、そう、弾んだ声で嬉しそうに呟《つぶや》いたのは、今や都の主たる織田信長である。信長はすでに齢《よわい》五十に近いが、その肉体は今でも壮健にして痩身《そうしん》である。もし、顔のしわを化粧で消せば、若武者と呼ばれても不思議では無い。だが、今の信長は四方《よも》を剄敵《けいてき》に囲まれていた若かりし頃とはかけ離れた立場に在る。もはや、武田を滅ぼし、上杉も恐れるに足らず、毛利も禿鼠《はげねずみ》が上手くやろうし、さらに、丹波《たんば》から、律儀《りちぎ》な日向守《ひゅうがのかみ》を禿の助けに行かせるから安心だ。信長はようやく天下に比類無き大大名として思うままに君臨できる立場になりつつある。 だが、それにも関わらず、今日の信長はひどく軽装であり、帯刀すらしていない。つまり、いかにも若隠居の旦那《だんな》様が家の金を使って遊んでおります、と云いたげな風情《ふぜい》を演じている。信長がやってきたのは寺の脇へ作られた相撲《すもう》の取組場である。広間の中央には台の形をした立派な土俵《どひょう》が作られており、それを大きな櫓《やぐら》が囲っている。土俵の上では見習いらしき力士たちが前座なのか稽古《けいこ》なのか分からぬが、すでに相撲を取り始めている。客席はまばらだが、まだ朝の早い時間なので当たり前だ。客席の後ろ側は地べたになっているので、藁《わら》の莚《むしろ》[*1]が用意され、その上へ質素な座布団がびっしり並べられている。信長はかような何処《どこ》の誰が来るかも分からぬ不穏な場所へお供を一人連れただけで
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ココナラ⭐新時代~働き方改革‼

ココナラブログを いつも読んでくれてるみなさん こんにちは東貴之です。 僕は2021年から、ココナラ出品者側の悩みに寄り添い ココナラ販売専門のコンサルをメインで活動しています ⭐電話でのご相談はこちら⭐ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 今回はココナラというビジネスがいまの時代にとても相性の良い働き方だということをお伝えしていこうと思ってます。このお話は僕の有料コンサル組にはちょっと小言のように言ってることですが今回、ココナラブログでもちょっとだけシェアしようと思います。では、本題です!これまでの日本人のライフスタイルは学生時代にたくさん勉強して優良な大学入学を目指し優良な大学を卒業して優良な企業に就職するそんなことを目的として生きてきました。企業に就職すれば将来は安泰!そう世間でも言われてきました。そして、就職したら毎朝電車に揺られながら出社して晩まで働き、そして帰宅休みの日は限られた時間で趣味に没頭したり家族や友達と楽しく過ごすそして、また次の1週間そういうライフスタイルが当たり前とされてきました。もちろん、この働き方が良いとか悪いという話ではありません。ただ、時代とともに少しずつですが世間のイメージも働き方も変化してます。新型コロナウイルスが流行しはじめた2020年から人々のライフスタイルが大きく変わり始めています。いままで日本人には馴染みのなかったテレワーク、在宅ワークへの移行対面での会議や打ち合わせをオンラインで開催もうすでにこういう働き方が世間に浸透してはじめてますよね?「男性は外で働き、女性は家庭を守る」そんな価値観も変わり始めてます。【価値と報酬】これまでのビジネスの
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なぜ家康は本能寺の変の直後に生還できたのか

大きく言って2つの可能性があります。1つ目は家康が京で信長打倒の動きがあることを察知してその具体的なスケジュールまで把握するに至ったこと。確かにこの可能性はあります。家康は気鋭の戦国武将だから当然ながら京の情報に敏感であったはずです。ただ本能寺の変の直後の家康の岡崎までの帰路に就くスピードが異常に早く感じます。ということは家康は京に行く道中あたりで何らかの情報をつかんでいた可能性があるのです。ということは2つ目の可能性、つまり光秀サイドから何がしかの情報がリークされたということです。これはあくまでも私の仮説にすぎないし、この事実を裏付ける資料は出ておりませんが、私はむしろこの可能性の方が高いような気がするのです。もしかしたら家臣レベルで仲の良い人たちがいても全然おかしくはないし、家康と光秀はタイプは違えど、ものすごく気性が合うというか、通じ合うものがあると思います。2人とも立場は違えど苦労人だし、いずれも信長で苦労させられてきた人たちですからね。家臣レベルで意気投合することがあったとしても全然おかしくないと思います。では具体的にどんな情報がリークされたのでしょうか?おそらくは100パーセント事実ではなくて何がしかの事実とフィクションを織り交ぜたような内容だったと思います。仮に私が家康に情報をリークする立場であったとすれば、以下のようになるでしょう。京で近日中に信長打倒の動きがある。私は近日中に中国攻めで苦戦を強いられている秀吉殿の救援に赴かねばならないので、いざ京で謀反が起こってもおそらくは信長様の救援に間に合わないだろう。最近の信長様は猜疑心の塊で、私の進言を聞き入れてくださ
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戦国時代について考える

まず天海が明智光秀という説はないと思います。理由は年齢です。確か天海の方が10歳くらい上のはずです。光秀の前半生がいくら謎に満ちていても、さすがにこれはないでしょう。あるとすれば光秀の叔父の左馬之助です。年齢がぴったり合うし、記録の上では左馬之助は山崎の合戦で戦死したことになっています。ですが、その死にざまは記録によって記述がまちまち。更に興味深いことに左馬之助が戦死したとされる近くの寺で数年後に天海が還俗しているのです。還俗とは世をはかなんで出家したお坊さんが俗世に還ることを言います。なので天海は光秀よりも左馬之助の可能性の方が高いと思います。次に武田氏滅亡ですが、天正10年は年明けから有力武将の離反が相次ぎ、信長はこれを絶好の戦機と捉え、長男の信忠に武田征伐を任せます。当時の記録によるとこの時期に記録的な寒波がこの地域一帯を襲ったとあります。なので勝頼が小山田信茂が推す岩殿城ではなく、真田昌幸が推す岩櫃城に籠れば1度は織田方を押し返せたのではないか?と思います。というのも勝頼に上杉景勝から援軍を送ろうかという書状が届いていたのです。仮に2千でも3千でも援軍が間に合えば越後の兵は強く、かつ寒さにも強いので武田は真田のように明治くらいまで生き残ったのかもしれません。武田は鎌倉時代から続いた名門です。勝頼は信玄の正当な後継者ではなく陣代です。要は勝頼の息子の信勝が成人するまでの後見人です。信玄は能力で勝頼を選びましたが、経営という視点で見ると勝頼は創業者タイプで切れ者。2代目には不向きな人です。経営者が2代目を能力で選ぶと意外なほど失敗例が多いと聞きます。なので経営者が2代目を選
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日本で最も古い家に行ってみよう

 日本でいちばん古い家、というのがあって、旧国名で言えば摂津ではありますが、現代の三木市にほどちかい神戸市北区の山田町にある「箱木千年家」です。 場所は、新神戸トンネルの北側出口から車で十数分といったところですが、なんと室町期から建っているという 日本で一番古い家(国指定重要文化財)なのですよ、この箱木家は!! さて、このおうち。大同元年という「棟上の記録」が残っているため平安時代からあるという 千年家と呼ばれていますが、現在の建物に残る6本の柱は、移築解体の際に 室町時代からのものだと推定されています。 ↑中から外を見ると、頭がぶつかりそうなくらい深い軒。 ↑戦国期大河ドラマに出てきそうな、板の間づくり。注目は、床板です。 まだ、「かんな」が発明されていないので、床板は槍鉋(やりがんな)で削られており、完全に平面にはなっていません。 荒い板を、槍の曲がったような道具でちょこちょこ削って大きな平面を作っていったのです。↑官兵衛ちゃんの時代の息吹を伝える、「柱」。角が大きく面取りしてあるのが特徴で、古い時代ほどこの面取り巾が大きいそうです。 (これもチョウナで”はつって”いったものと思われる)========= さて、そんな箱木家住宅ですが、いまでも管理は子孫の「箱木一族」が担当しておられます。 古いよろいなども展示されていて、箱木一族の「戦国武将」→「帰農して豪農」→「旧家として今へ至る」歴史がよくわかるというものです。 というわけで、ここからは箱木氏と官兵衛ちゃんの同時代体感話をいくつかお届けしましょう。 展示してある系図には、なかなか興味深いことが書いてあります。 箱木一族
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あなたの先祖は戦国武将?!

 これまで、ココナラさんのサービスで1000家以上の苗字を調べてきましたが、そうしたデータの積み重ねの中で気づいたことがあります。 それは、たいていの人、ほとんどの人が、「先祖は戦国武将である!」ということです。 もちろん、歴史上の人物には有名な「戦国武将」や「戦国大名」がいて、織田信長をはじめ、先日までの大河ドラマの主人公だった明智光秀などの、あまたの武将がいることはご存知のとおり。 それらの武将の中でも、一国の主となったものは特に「戦国大名」と呼ばれて、大きな力を持っていたことも、お馴染みのお話です。 逆に言えば、戦国時代でおなじみの毛利元就や伊達政宗なども、それぞれの国の支配者ばかりですから、いわゆる有名どころはみな「戦国大名」ということになるでしょう。 ここでちょっと誤解を解いておきますが、これまで苗字調べ、ルーツ調べをしてきた中で、「先祖が戦国大名」だった人は、残念ながら1家もありませんでした。なので、織田信長の子孫や、明智光秀の子孫、あるいは大友宗麟の子孫や武田信玄の子孫はめったにいない、ということでもあります。 さすがに一国の主となった「戦国大名」の子孫というのはなかなかいない、ということでもあります。  ところが、「戦国大名」の家臣であった「戦国武将」たちの子孫は、うじゃうじゃいます。 みなさんのご先祖のほとんどは、「戦国武将」だった!と言いきっても過言ではないくらい、「いち武将」の子孫はとてもたくさん広がっているのです。 どういうことかと言うと、「一国まるごと支配した戦国大名の子孫はさすがに少ない」けれど「小さい領地を治めた戦国武将の子孫は、たくさんいる」とい
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【教養としての読書】老子

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2021 8月10日 のぶしまめ みなご

イラストは戦国時代の武士の兄弟のイメージボード。江馬輝盛と江馬信盛。キャラクターデザインの練習になるかな…と思い描いてみた。思いの外、悪戦苦闘…。「袴」というを服装を分析して自分の中に落とし込み、それをまた「自分の絵柄にあった袴」にして描き出すのに凄く時間がかかった…。分析癖、悪くは無いとは思うけど、時間はそれだけかかっちゃう…。今日の癒しは『小松菜の箱でおホモダチ中』の「なぶ」と「ちまお」。にいちゃんの「なぶ」は眠たそう…(笑)いつもにいちゃんは好かれちゃうねぇ。今日もこの我が子たちの為、頑張りマッスル★
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