小説『不自由な織田信長』

記事
小説
【字数:約四千三百】

  ***

「おう、おう、ようやっておるわ」

 晴天なりし都の空の下、そう、弾んだ声で嬉しそうに呟《つぶや》いたのは、今や都の主たる織田信長である。信長はすでに齢《よわい》五十に近いが、その肉体は今でも壮健にして痩身《そうしん》である。もし、顔のしわを化粧で消せば、若武者と呼ばれても不思議では無い。だが、今の信長は四方《よも》を剄敵《けいてき》に囲まれていた若かりし頃とはかけ離れた立場に在る。もはや、武田を滅ぼし、上杉も恐れるに足らず、毛利も禿鼠《はげねずみ》が上手くやろうし、さらに、丹波《たんば》から、律儀《りちぎ》な日向守《ひゅうがのかみ》を禿の助けに行かせるから安心だ。信長はようやく天下に比類無き大大名として思うままに君臨できる立場になりつつある。

 だが、それにも関わらず、今日の信長はひどく軽装であり、帯刀すらしていない。つまり、いかにも若隠居の旦那《だんな》様が家の金を使って遊んでおります、と云いたげな風情《ふぜい》を演じている。信長がやってきたのは寺の脇へ作られた相撲《すもう》の取組場である。広間の中央には台の形をした立派な土俵《どひょう》が作られており、それを大きな櫓《やぐら》が囲っている。土俵の上では見習いらしき力士たちが前座なのか稽古《けいこ》なのか分からぬが、すでに相撲を取り始めている。客席はまばらだが、まだ朝の早い時間なので当たり前だ。客席の後ろ側は地べたになっているので、藁《わら》の莚《むしろ》[*1]が用意され、その上へ質素な座布団がびっしり並べられている。信長はかような何処《どこ》の誰が来るかも分からぬ不穏な場所へお供を一人連れただけでやってきたのだ。故に、豪放な信長はともかく、連れとしてやってきた美少年の方は極めて緊迫の様子だ。しかし、それを見た信長はむしろ親しげに笑いつつ少年の背中を遠慮無く叩いて曰《いわ》く、

「お蘭《らん》よ、今日は祭りぞ。楽しうしておらんでは、かえって不思議に思われるぞ。何せ今日の儂《わし》らは只の道楽な旦那と小僧となのだからな」

 そう云われても、お蘭と呼ばれた少年は真顔のまま、やや緊張の震えを宿しつつ、信長の傍《そば》へ影のごとく張り付いている。曰く、

「楽しうことは旦那様の役目でございます故《ゆえ》、私は厳《いか》めしう方をやろうと思います。いかなる時も旦那様を命がけでお守りするのが、お蘭めの生きる意味でございますれば」

 それを聞いた信長は大らかに笑いつつ、

「お蘭らしいのう。かような所も愛《う》い事よな」

 そう云いつつ、彼の白く美しいうなじを撫《な》でると、お蘭は嫌な所を触られた猫のように信長を恨めしげに見つめて曰く、

「お屋形、いえ、旦那様、お戯《たわむ》れは屋敷へ帰った後に……」

 信長はその反応に満足すると、さっさと座敷の中へ入り込み、迷う事無く座敷の一番前へ座った。不意を突かれたお蘭は焦った様子で信長の後を追ってきて傍へ座る。そして、

「旦那様、せめて後ろの席へ。ここでは御身《おんみ》の御背中を守れませぬ」

 そう訴《うった》えてくるが、信長は莞爾《かんじ》[*2]として腕を組みつつ、

「そう云うだろうと思ったから、こうしたまでよ」

 と、云ってやる。そして、お蘭が再びやかましい事を云ってくる前に、さっさと風呂敷を開き、笹《ささ》の葉で包んだ握り飯を食い始める。火で焙《あぶ》った味噌《みそ》も有る。これで男一人の腹を満たすには充分だ。

「たまにはかような貧しい飯を食ってみるのも良いわさ。幼き頃の合戦《かっせん》遊びを思い出すわ」

 ここで云う合戦遊びとは、寺へ手習いに行かされた際に同輩を集め、母より贈られてきた銭を使って彼奴《きゃつ》らを手なずけた上で、その者らを東西に分けて印陳打《いんじうち》(石を投げ合って勝負する)をやらせる遊びの事だ。その際、手柄を挙げた者にはさらに銭をくれてやった。思えば、これまで信長が織田家の当主としてやってきた事は、皆、この時の遊びと変わらない。違う事が有るとすれば、人の血がたらふく流れた事だ。その代わり、信長は銭をくれてやる側から、銭を集め、国を獲《と》り、力で服従させる側へ移った。信長は自分の瞳に憂《うれ》いの感情が宿るのを禁じ得なかった。しかし、それは一瞬の事であり、すぐに鷹揚《おうよう》に笑いつつ、うまい、うまい、と、呟《つぶや》きつつ、塩の効いた握り飯を遠慮無く喰らい、竹筒を空けて酒を飲む。

 広場には、まだ人がほとんど居ない。相撲が本格的に始まる時刻より相当に早いからだ。お蘭は信長の真後ろへ座ってくる。せめて主人の背中だけは守ろうと云う献身の意志を感じる。信長は正座をしているお蘭にあぐらをかいたまま向き直ると、自らの袖《そで》の下からいきなり小さな干魚《ほしうお》を差し出し、

「お前も食え」

 と、気楽に云った。しかし、お蘭は驚きつつも武人の顔を保ったまま、

「ご堪忍《かんにん》くだされ」

 と、突っぱねてくる。信長はそこでやや声音を落として曰く、

「であるか。だが、腹を空かせておっては儂《わし》を存分に守る事は出来まい。お前のため、そして、儂のためにこそ、飯はよう食っておけよ」

 そう云い終えると、今度はあっさりお蘭に背を向け、一人で土俵の様子を眺めつつ、干魚を無造作《むぞうさ》にかじり始める。そして、お蘭に聞こえよがしに独り云を口にする。

「公家《くげ》の連中はまっこと不幸な奴ばらよな。彼奴らは抹香《まっこう》くさい己の屋敷から一向に外へ出ず、喰うものは全て黴《かび》くさい千金の珍味よ。いかな珍味と雖《いえど》も日がな食っておっては舌も濁《にご》ろうさ。儂とて馳走《ちそう》は好むが、それは儂が馳走を食いたいと思う時に食えるが故に旨《うま》く感じるのだ。故に、時を選べば十銭の飯が千金の馳走に勝る事も有る。今、儂が食っておる飯がそれよ」

 信長は干魚をかじり終えると、無云で己の右側の席を二度叩いた。お蘭はその意図を察したようで渋々と云った様子で信長の傍へ折り目正しく座る。信長は彼へ向かって珍しく藹々《あいあい》とした口調で語り掛ける。

「お蘭よ。なぜ儂が相撲を好むか分かるか」

 すると、お蘭はほんの少し考えた後、急《せ》いた様子で、

「力士たちが持つ真《まこと》の器量を見たいからでは」

 と、答えた。信長は満足して、

「然《しか》りよ。お蘭は真に鋭敏にして賢才である事よ。相撲を取るとなれば、いかに大層な肩書きを持っておろうが、いかに黄金を蓄えておろうが、すべて無だ。相撲こそ男の器量そのものを図る大天秤《てんびん》よ」

 そう述べたのだが、すぐに云葉を継いで曰く、

「それにな、相撲はよ、いくら取っても、血が流れぬ。それが何よりだ」

 信長はさらに酒を飲む。すると、微《かす》かな酔いの中へ、過去の戦場の光景や喧騒《けんそう》が悪夢の如く現れる。特に坊主や門徒どもを皆殺しにした時の光景や、弟勘十郎を清州にて謀殺し首実検《じっけん》を行った時の事を否《いや》でも応《おう》でも思い出す。そして、胸の奥のさらに奥深くに仕舞い込んでいる、何の肩書きも持たぬ只《ただ》の人間としての織田信長の感情が僅《わず》かに漏れて仄《ほの》めき立つ。土俵にて行われている力士どもによる裸の取り組みと、そこから発せられる何の衒《てら》いも無い掛け声や呻《うめ》き声が、いっそう、信長の生身を揺さぶってきて、塗り固められた己の外皮の垢《あか》が剥《は》がれるような快《こころよ》さを覚える。信長は大大名たる我が身を半ば忘れて曰く、

「儂はな、己の命は己の働きによって繋《つな》いできた。しかし、己の生きる道筋は果たして己の意志によって繋いできたものだろうかと思うと、否《いな》、と、答える他無い。儂は大名家の嫡男《ちゃくなん》として産まれた。しかも、家督《かとく》を継いだ時には織田家は劣勢でな。家中の内紛をそのまま放っておく訳にはいかなかった。それでもなんとか血を流さずに済ませたいと思っていたが、どうしても、弟がよ、己《おの》が牙を抜こうとせなんだ。それから先は、大名として立身するために、ひたすら、戦《いくさ》、戦、戦よ。敵ばかりの乱世においてはそうせずにはおられんかった。そして、儂に繰り返し逆らい、得物を握り、我らを殺さんとする者らを許してやる訳にはいかなかった。儂は許せる者であればいくらでも堪忍《かんにん》してきたつもりだ。しかし、天命がそれを許さぬ事が有る。なれば、特別な天命を受ける事は、果たして途方も無い僥倖《ぎょうこう》[*3]であると云えるのか」

 信長は自分でも驚く程《ほど》に幽《かそ》かにして冥《くら》い声で話していた。それを聞いているお蘭も主《あるじ》の異様さを感じ取ったのか瞠目《どうもく》[*4]している。信長はお蘭の愛らしくも引き締まった顔を見つめて微笑《ほほえ》んで曰く、

「お蘭よ。儂が相撲を好むのは、それがためでもある。土俵の上には天命の縛りはあるまい。相撲取りは、土俵の上にあっては、どちらも裸の男となり、己が力のみをぶつけ合う。そして、相撲さえ取っておれば、その中で何をしようが構わぬ。押そうが、投げようが、足を払おうが、叩き伏せようが、あるいは、逃げたとしても、儂は構わぬと思う。そこには天命すら関与できぬ。天は相撲を眺め下ろす事しか出来ぬ。ざまあみろ、と、云うべきだ」

 そこまで放云した所で、信長は天へ挑むように大笑いしつつ右手で己が膝《ひざ》を激しく叩いた。そして、残りの手でお蘭の柔らかく美しい肩を撫《な》でつつ、

「お蘭。お前は己の意志で生きよ。この世に神仏なぞおらんのだからな。なればこそ、儂を神仏として崇《あが》め、他のまやかしなる神仏には一瞥《いちべつ》[*5]もくれてやるな。そして、儂が死んだ後には、儂のせがれを助けるなり、せがれに取って代わるなりすれば良い。儂が生きておる間は儂が神仏であるから逃がしはせぬが、儂が死ねば神仏もこの世から消え去るのだから、お前は何者にも縛られず、己の心によって生きよ。それを出来る者であればこそ、儂はお前を良き家臣として側へ置いておるのだ」

 そこまで云った時には、信長はすでに元の敏活にして傲然《ごうぜん》たる大名の風情《ふぜい》を取り戻していた。一方、お蘭はあまりにも晴天の霹靂《へきれき》めいた恐ろしい云葉を聞いたためか、呆然として云葉も無い。信長は土俵へ向き直ると、新しい干魚を取り出してかじり始める。それはひどい油加減であり、美味《びみ》とは云い難《がた》いが、それでも、信長は美味《うま》いと感じた。[了]

  ***

注:
[*1]莚。藁《わら〉などで編んだ敷物の総称。
[*2]莞爾。にっこりほほえむさま。にこやか。(『広辞苑』)
[*3]僥倖。思いがけない偶然の幸運の事。
[*4]瞠目。驚いたり感心したりして目をみはること。(『広辞苑』)
[*5]一瞥。流し目に見ること。ちらと見ること。(『広辞苑』)


主要参考文献:
 岡谷繁実編著、北小路健・中澤惠子訳『名将言行録 現代語訳』(講談社学術文庫、2013年)
 太田牛一著『信長公記.巻之上』(甫喜山景雄、明治14年)
 大久保彦左衛門著、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫、二〇一八年)
 新村出編『広辞苑 第五版』(岩波書店、1998年)


使用画像元:
 『弥彦神社 6』作者:きりみ(ID:713080)【写真AC】
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す