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枯れ荻の彼方に【時代歴史小説サンプル/ポートフォリオ】

 中秋の名月が、風にそよぐ枯れ荻を浮き彫りにする。  虫の声は騒がしくもなく、草花の擦れる音が際立つ。  土の湿った匂いが息吹のようにふわりと過ぎていくなかに、一人の男が佇んでいた。襤褸の直垂、腰に太刀を佩く若い偉丈夫だ。ざんばら髪で眉は太く、眼差しは厳しい。腕を組んで、じっと挑むように夜の彼方を睨みつけている。 「豪太」  緩やかな丘の上に立つ彼の静謐を乱さぬよう、密やかに呼びかける者がいる。たおやかな緑の黒髪を揺らす娘が、すすきを掻き分け、ゆっくりと斜面を上がってくる。雪肌は田畑を知らず、男と同じ直垂も鮮やかに藍染めされ、風避けに羽織る布地も上等だ。物憂げな表情と、眉尻の下がった目には情欲を刺激する艶がある。 「豪太」  蠱惑的な低い声にも、彼は頑なに顔を向けなかった。豪太は律令に従い、夜明けには防人の任に就く。気を奮い立たせ、胸の内にある未練を放念しようというのだ。 「豪太、手を貸さぬか」 「貸さぬ」  羽織の下に抱えているものがある娘は、急な勾配に足を取られて不満げに頬を膨らませた。応えた拍子に彼女の表情を目に入れてしまい、豪太は眉間に深い皺を刻んだ。棄てようとした熱が、途端に胸の奥で沸き上がる。よろける娘の腕をがっしりと掴んで、一息に引き上げた。一陣の風が荒び、稲に映る二人の影が重なりあう。 「伊夜、何をしにきた」 「寝屋を抜け出してきた。五平が毎夜、歌を詠みにくる」 「返したのか」 「返さん。私が返し歌を詠んでも、五平は心得違いをして夜這うてくるにきまっておる」 「五平は嫌か?」 「お前のように鹿を狩れぬ。捌いて食わせてもくれぬ」 「俺の鹿を占いに使う女は好かぬ」
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【歴史エンタメ記事】中国史上の宦官と中華ファンタジーの宦官

宦官とは、中国の王朝において、皇帝の身辺に仕えていた者たちです。 見た目は男ですが、幼い時に、去勢手術をしているため、男でも女でもない状態にあります。 なぜ、去勢手術をするのかと言うと、皇帝の妃や女官と密通して、懐妊させてしまう事態を防ぐためです。 その他に、こうした宦官を従わせることで、皇帝の支配欲を満たすという意味合いもあったようです。 いずれにしても、宦官は、去勢手術(自宮とも言います)したことにより、性欲を失うか、満たすことができない状態になります。 その分、欲望が出世欲とか、金銭欲と言ったものに振り向けられるようになり、政治において、大きな権限を振るうようになるわけですね。宦官と言えば、日本でもよく知られているのが、三国志の十常侍でしょう。張譲らの宦官が権力を握って、腐敗した政治を行ったために、黄巾の乱が起き、三国時代の幕開けとなるわけです。 三国志では、張譲らの宦官が、徹底的に悪役として描かれています。その後の時代でも、宦官は、政治の腐敗の原因となることが多く、良いイメージはあまりありません。 特に、明の時代に、永楽帝によって創設された宦官を中心とした秘密警察的な組織である東廠は、当時の人々を畏怖させる存在でした。 宦官は、中華小説、華流小説やドラマでも、よく出て来ます。 大抵は、皇帝の腰巾着、虎の威を借りる狐として、描かれていますが、宦官の役得をテーマにした小説やドラマもあります。 宦官は後宮と言う皇帝の私生活の場で暮らすことができる特権階級の人々です。 後宮には、宦官以外にも、妃や女官がたくさんいました。その多くは選りすぐりの美女です。 中国の後宮は、とてつもな
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小説『不自由な織田信長』

【字数:約四千三百】  ***「おう、おう、ようやっておるわ」 晴天なりし都の空の下、そう、弾んだ声で嬉しそうに呟《つぶや》いたのは、今や都の主たる織田信長である。信長はすでに齢《よわい》五十に近いが、その肉体は今でも壮健にして痩身《そうしん》である。もし、顔のしわを化粧で消せば、若武者と呼ばれても不思議では無い。だが、今の信長は四方《よも》を剄敵《けいてき》に囲まれていた若かりし頃とはかけ離れた立場に在る。もはや、武田を滅ぼし、上杉も恐れるに足らず、毛利も禿鼠《はげねずみ》が上手くやろうし、さらに、丹波《たんば》から、律儀《りちぎ》な日向守《ひゅうがのかみ》を禿の助けに行かせるから安心だ。信長はようやく天下に比類無き大大名として思うままに君臨できる立場になりつつある。 だが、それにも関わらず、今日の信長はひどく軽装であり、帯刀すらしていない。つまり、いかにも若隠居の旦那《だんな》様が家の金を使って遊んでおります、と云いたげな風情《ふぜい》を演じている。信長がやってきたのは寺の脇へ作られた相撲《すもう》の取組場である。広間の中央には台の形をした立派な土俵《どひょう》が作られており、それを大きな櫓《やぐら》が囲っている。土俵の上では見習いらしき力士たちが前座なのか稽古《けいこ》なのか分からぬが、すでに相撲を取り始めている。客席はまばらだが、まだ朝の早い時間なので当たり前だ。客席の後ろ側は地べたになっているので、藁《わら》の莚《むしろ》[*1]が用意され、その上へ質素な座布団がびっしり並べられている。信長はかような何処《どこ》の誰が来るかも分からぬ不穏な場所へお供を一人連れただけで
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小説『仮面の意義』

【字数:約五千六百】 *** 三国志の時代から三百年経った今、中国大陸は再び三国鼎立《ていりつ》の時代へ突入している。北には斉《せい》、西には周《しゅう》、南には梁《りょう》ないし陳《ちん》。構図としても三国時代と概《おおむ》ね同じだ。そのうち、斉と周はかつて北方を支配していた魏の国が分裂して成立した国だ。斉の前身となる東魏の国は地方の大豪族であった爾朱栄《じしゅえい》の元部下たる高歓《こうかん》が支配し、周の前身となる西魏の国は武仙鎮の指導者である宇文泰《うぶんたい》が支配し、この二国が大いに争って竜虎相搏《あいう》つのを、南にある梁《りょう》の国が文雅《ぶんが》な時代を謳歌《おうか》しつつ、眠れる虎狼の如く侵攻の機会を伺《うかが》っていた。 そして、高歓が病死した年、東魏の国にて、豪勇暴戻《ぼうれい》の猛将たる侯景《こうけい》が、高歓の後を継いだ息子に従うのを良しとせず、梁の国へ寝返ってしまった。梁の武帝はこれを好機と見たようで、侯景と共に東魏と戦う事にしたが、梁の軍隊は東魏の敵では無く、各地にて敗北を重ね、侯景もまたわずか八百人の残党と共に梁へ逃亡してきた。こうして、敗軍の将となった侯景の立場は甚《はなは》だ悪くなった。なぜなら、梁は東魏との戦争に大敗した後に和睦《わぼく》する事を決定したので、東魏への手土産《てみやげ》として裏切者の侯景を殺してしまうかもしれないからだ。「ええい、このまま東魏の国へ売り渡されるくらいならば」 そう思ったのか、侯景は人生二度目の大博打《ばくち》を決行した。つまり、僅《わず》か千人あまりの兵士のみで寿春《じゅしゅん》の街から一挙に南下して梁の
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小説『沈慶之の三国論破』

【字数:約一万】  *** 中華の大陸を三分して競われた後漢末《ごかんまつ》の騒乱の結末は、後漢滅亡のち二百三十年経っても尚《なお》、漢民族の落涙《らくるい》を誘わずにはいられないだろう。なぜなら、劉玄徳《りゅうげんとく》や諸葛孔明《しょかつこうめい》による漢王朝の再興は成らず、代わりに大陸を統一した晋《しん》も瞬く間に腐敗して滅び去ったからだ。 晋は、実質的な創始者たる司馬懿《しばい》の孫である皇帝司馬炎の死後、朝廷内部の陰惨な権力争いに端を発した王族たちによる反乱と実権の争奪の果てに、匈奴《きょうど》の子孫たる劉聡《りゅうそう》の軍隊による侵攻によって滅亡してしまった。司馬炎による全国統一から僅《わず》か三十六年後の事である。但《ただ》し、晋の諸王のうち司馬睿《しばえい》は、かつて孫呉《そんご》の首都であった東の果て建康を支配下においており、ここへ晋を復興させ、自ら帝位に付いた。これを東晋と呼ぶ。 しかし、東晋も成立して百三年後に東晋の将軍であった劉裕《りゅうゆう》によって滅ぼされる。この劉裕こそ現在中国南部を支配している宋の国の高祖たる武帝であり、現在の宋皇帝は三代目である。そして、現在、中国の北部は魏《ぎ》の国が統一して宋の国に対する圧力となっている。三国志の英雄たちが挙《こぞ》って皇帝を名乗った事を皮切りにして、皇帝の位は酷く乱造されるようになってしまったようだが、現在では経過はともあれ北の魏つまり北魏と、南の宋つまり劉宋と云う二つの国の皇帝に絞られた訳だ。その中でも、劉宋の三代目皇帝は名門貴族を重んじて政治を執《と》り行い、即位後二十五年を超えて国内に平和をもたらし
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小説『飛将軍李広の感嘆』

 漢王朝の将軍である李広は大衆から愛されていた。特に漢王朝の権力から離れている人種ほど、かえって李広を素直に理解し敬愛し畏怖していたようだ。つまり、辺境に住まい、漢人たちから軽蔑《けいべつ》されている匈奴《きょうど》たちこそが敵方の憎い将軍であるはずの李広を最も尊重した。漢人の場合でも庶民や兵士の大半はこぞって李広を敬愛した。しかし、李広を正しく理解せず、信用せず、評価しない者も存在する。それが漢王朝の中心に君臨する皇帝だ。たった一人の人間の性格によって国家に所属する全ての人間の運命を決められてしまう。それが絶対権力者が存在する事による大き過ぎる弊害だろう。 元々、李広が仕えていたのは漢王朝の事実上の二代目[*1]たる文帝だった。文帝は若かりし頃の李広が狩場にて猛獣と大いに取っ組み合いをしたのを見て感嘆し、「残念だ。君は時を得なかった。もし君が高祖(初代皇帝劉邦《りゅうほう》)の時代に生まれていたら、一万戸の諸侯に成るのは簡単な事だったろうに」 と、感慨深く感想を述べた。しかし、後から思えば、その最大級の賛辞はむしろ李広の人生に差した暗い影を際立たせているようにも思える。もし、文帝がその後も李広の主君で在り続けたとしたら、李広はやがて国家を代表する大将軍になっていたかもしれない。だが、文帝も、その次の恵帝も、じきに崩御し、その後、新しく李広の主になったのは、派手な戦功ばかりを好む現在の皇帝だった。李広は若い頃から常に戦ばかりしてきたが、華々しい大合戦の将軍に成った訳では無く、また、不利な状況で戦う事も厭《いと》わなかったので、現在の皇帝のように、見栄えの良い大勝利をひどく好むが
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