小説『飛将軍李広の感嘆』

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 漢王朝の将軍である李広は大衆から愛されていた。特に漢王朝の権力から離れている人種ほど、かえって李広を素直に理解し敬愛し畏怖していたようだ。つまり、辺境に住まい、漢人たちから軽蔑《けいべつ》されている匈奴《きょうど》たちこそが敵方の憎い将軍であるはずの李広を最も尊重した。漢人の場合でも庶民や兵士の大半はこぞって李広を敬愛した。しかし、李広を正しく理解せず、信用せず、評価しない者も存在する。それが漢王朝の中心に君臨する皇帝だ。たった一人の人間の性格によって国家に所属する全ての人間の運命を決められてしまう。それが絶対権力者が存在する事による大き過ぎる弊害だろう。

 元々、李広が仕えていたのは漢王朝の事実上の二代目[*1]たる文帝だった。文帝は若かりし頃の李広が狩場にて猛獣と大いに取っ組み合いをしたのを見て感嘆し、

「残念だ。君は時を得なかった。もし君が高祖(初代皇帝劉邦《りゅうほう》)の時代に生まれていたら、一万戸の諸侯に成るのは簡単な事だったろうに」

 と、感慨深く感想を述べた。しかし、後から思えば、その最大級の賛辞はむしろ李広の人生に差した暗い影を際立たせているようにも思える。もし、文帝がその後も李広の主君で在り続けたとしたら、李広はやがて国家を代表する大将軍になっていたかもしれない。だが、文帝も、その次の恵帝も、じきに崩御し、その後、新しく李広の主になったのは、派手な戦功ばかりを好む現在の皇帝だった。李広は若い頃から常に戦ばかりしてきたが、華々しい大合戦の将軍に成った訳では無く、また、不利な状況で戦う事も厭《いと》わなかったので、現在の皇帝のように、見栄えの良い大勝利をひどく好むが、負け戦を互角にするような地味な戦功を評価できない指導者の下では、ひたすら報われなかった。圧倒的に不利な状況を跳ね除ける事こそ驚異的な戦果であるはずなのだが、李広は結局そのような功績を評価できる優れた主を得る事が出来なかったと云えるだろう。

 さらに、悪い事に、漢王朝は文帝の頃からすでに事務処理が異常に厳格であり、例えば、戦功を挙げても、その報告書にほんの少しでも規定に合わない所が有ると評価しないどころか刑罰を与えた。そして、古来より名将と呼ばれる者は現場の裁量を重んじており、上から押し付けられる事務や書類と云った形式的な仕事に縛られずに戦う者であると云う。そして、李広も多聞に漏れず厳格な書類を提出するような性質では無かった。すなわち、李広は天下無双と評される程の抜群の戦働きをしているにも関わらず、真っ当に評価されず、結果として、いつまで経っても護衛隊長や地方の太守を任されるばかりだった。

 もし、彼が本当に高祖の時代に生まれていれば、樊噲《はんかい》と共に高祖から大剛の将として愛されていても不思議では無いし、韓信と共に轡《くつわ》を並べて大将軍の輩《ともがら》になったとしても、さして驚くべき事では無かっただろう。それこそ李広の祖先である李信が始皇帝から大いに気に入られた時と同じように、数十万の大軍を任される事も有ったかもしれない。だが、実際には、李広はどれだけ働いても護衛隊長のままであり、代わりに、実際には大した戦功を挙げていない者たちが順調に出世していった。こうして、王朝の人事に狂いが生じるようになり、王朝の屋台裏をじわじわ侵食している。但《ただ》し、現在の漢王朝はすこぶる優勢であり、例え、組織に大きな病魔が潜んでいたとしても、我が国はこれだけ発展しているのだから問題無いと云う、過剰に楽観的な雰囲気が蔓延《まんえん》しているように思われた。そのため、繁栄の裏側にて犠牲と理不尽とが量産されているように思われ、その犠牲者の代表が李広とも云えた。

 そんな李広に再び理不尽な命令が下る。護衛隊長の肩書きのまま将軍として匈奴を攻撃して来いと云うのだ。それだけならば根っからの将軍である李広にとっては何の不満も無かっただろうが、問題はあまりにも自軍の兵力が少なかった事だ。そのため、結果として、李広の軍はたちまち壊滅し、李広も深手を負って匈奴の捕虜に成ってしまった。普通ならば、この時点で李広は死んでいただろう。だが、匈奴は優秀な漢人に対して興味津々であり、李広の名もすでに賢明な将軍として知られていたので、匈奴の指導者は、

「李広を捕らえても殺さずに本国へ連れて来るのだ」

 と、命じていた。匈奴からすれば、例え、異民族であろうとも、優れた人物であれば、是非とも自国へ迎え入れて仲間にしたい思惑が有ったのだろう。それは漢人から野蛮人と呼ばれている民族にしては開明的な発想のようだ。

 こうして、李広は匈奴の大器量のおかげで即刻殺される事は避けられた。しかし、今の李広はすでに深手を負い、ろくに動けない状態に見える。一方、戦果を挙げて帰還していく匈奴の軍勢は、やや起伏の有る濛々《もうもう》たる高地を足早に進んでいく。雁門《がんもん》の外、つまり、北の果てに在る辺境の土地は山また山であり、匈奴が好むだろう大草原のような平地まではまだ遠い。匈奴たちは李広を搬送《はんそう》するためだけに、わざわざ二頭の馬を用意して左右へ並べた上で、二頭の距離を取り、その間へ網を張って寝床のような形にし、その上へ重症の李広を乗せて運んでいる。それはまるで自国の将軍を丁重に運んでいるかのような深い心配りにも思える。大怪我を負って生気を失った李広の姿は今にも死んでしまいそうな程に弱々しく見えたのだろう。そのため、匈奴たちも李広を無理やり縛って苦しめるよりは、うっかり殺してしまわないように優しく扱うべきだと思ったのだろうか。

 だが、李広はこれだけ傷だらけであったにも関わらず、実際には充分に戦えるだけの力を隠していた。李広は将軍である以前に戦士だ。若き日に猛獣と格闘して文帝を感動させたのは、決してその場限りの見栄では無い。戦う相手が虎であっても逃げる事はしないのだから、ましてや、非力な人間を恐れる事は無い。李広は死んだふりをして見張りの油断を誘った上で、目を密かに薄っすら開いてみると、ちょうど近くへ子供が弓矢を持って馬へ乗っているのが見えた。李広からすれば彼が乗っている馬や持っている武器は奪って使うには役不足だが止むを得ない。李広は迅速に起き上がると同時に子供へ飛び掛かる。周囲の者があっと叫ぶ頃には、すでに子供を捕まえ、目にも留まらぬ速さで子供から弓矢をもぎ取り、子供を地面へ放り、馬の腹を蹴って後方へ駆け出していた。匈奴たちは慌てて追い掛けてくるが、すでに李広は彼らの軍団から離れつつある。李広は捕虜だったので一番後ろの軍団によって運ばれていた。そのため、周囲に居るのは非武装の輜重隊《しちょうたい》(補給部隊)がほとんどであり、警備兵は少数居るだけだった。それでも警備の騎馬兵たちが猛然と追い掛けてくる。一方、李広は瀕死では無いが相当な手負いであり、さらに、乗っている馬は小さく、持っている武器も子供用であるから、このまま行けば、すぐに追い付かれて捕まってしまうか殺されてしまうだろう。

 だが、李広と云えば、普段からとにかく矢を打つ事ばかり嗜《たしな》んでいる射撃の名人だ。彼は単に訓練のために矢を撃つとか、自分の家が代々弓矢を得意とする家系であるからとか、そんな事とは関係無く、暇さえあれば弓を持ち矢を撃ちまくり、仲間内で遊ぶ際にも、矢で的を射て、的を外したら罰として酒を飲む遊びばかりしていた。すなわち、彼にとって弓矢を扱う事は息をするのと同じくらい当たり前に出来る事であり、また、彼は体が大きい上に生まれつき猿のように手が長かったので、そのおかげで、他人がどんなに矢を撃つ事に努力しても彼には及ばなかった。李広はそれほどまでに天才的な極め人であったのだ。故に、踏ん張る場所も無い鞍《くら》の上にて、初めて乗った馬を完全に制御しつつ、体をひねって後ろへ向き、さらに、左手で子供用の弓を持ち、右手で小さ過ぎる矢を番《つが》え、両足だけで姿勢を保ちつつ、常に激しく揺れる馬の上から、狙った場所を矢によって貫く事さえ造作も無い。李広は至極当然のように追っ手の騎馬兵たちに狙いを定めたかと思うと、次の瞬間には命中。それを全く易々《やすやす》と繰り返す。これには追っ手の方がたじろいで馬を止めた。こうして、李広は敵の屈強な追っ手を神業《かみわざ》によって振り切った。

 辺境の大高原が壮挙を成し遂げた李広を出迎える。その大らかな懐《ふところ》に抱かれつつ、李広は強烈な清風を浴びて駆けていく。李広は死なぬ。まだ天命は尽きていないし、尽きていたとしても覆《くつがえ》せる。李広はこれだけの窮地から奇跡的に脱出したにも関わらず、精神は常と変わらず、好《ハオ》、好、と、ひとしきり満足するだけだ。李広は死の危険とはむしろ堂々と相対した方が切り抜けられるものだと知っており、また、李広にとっては死の危険と戦う事こそが日常だ。故に、殊更《ことさら》、自分の大仕事に酔いしれる事は無い。

 だが、李広の英雄的な脱出行は、決して誰の目にも留まらず、何の感情も生まないような小さな仕事では無かった。李広が充分に脱出した頃、はるか遠くから、雷が落ちたような凄まじき大音声《だいおんじょう》で、

「飛将軍! 飛将軍!」

 と、連呼しているのが聞こえるではないか。これにはさしもの李広も驚いて後ろを顧《かえり》みる。すると、背後へ砂粒のように集まっている匈奴たちの軍勢が、わざわざ横陣を組み、こちらへ向かって全軍で叫んでいる。曰《いわ》く、

「李将軍! 李将軍! 彼こそ勇者! 彼こそ飛将軍!」

 それを聞いて、李広はさらに驚いた。彼らにとって李広は憎き宿敵だ。李広は以前から匈奴と最前線にて戦い、彼らの命を数え切れないほど奪ってきたのだ。さらに、今回もまた、止むを得ずとは云え、彼らの追っ手を何人も射殺してしまった。それなのに、彼らは恨み云を吐く代わりに相手を褒め称える云葉を全軍で叫んでいる。これは漢の軍隊では決して有り得ない事だろう。これほどまでに純粋に、敵も味方も無く、民族の差も乗り越えて、只一人の男の武勇を皆で全力で褒め称《たた》える事が出来る者たちが、果たして卑しい蛮族だと云えるだろうか。例え、彼らが蛮族だったとしても、その心は貴族よりも遥《はる》かに尊い輝きを放っている。

 李広は心を震わせた。彼は己が漢の将軍である事に誇りを持っている。とは云え、この時ばかりは、自分が匈奴の将軍に成り得ない事を惜しい事だと思った。彼ら十万の軍勢を率いて大平原を駆け抜ける事が出来たならば、どれだけ心地良いだろうかと思い描く。

 やがて、李広は匈奴の軍隊から完全に離れて漢の領土へ近付いていく。それを純粋に嬉しいと思えない自分の立場を苦々しく思う。皇帝が蛮族に対して無様に敗北し兵を失った自分を許す事は無いだろう。おそらく死罪を申し付けられる。それでも李広は帰らざるを得ない。なぜなら、李広は漢にて産まれ、漢にて育ち、漢の将軍として戦い、漢の兵士や人民のために生きてきたからだ。

 故に、李広は漢へ還《かえ》る。己を称える好敵手たちに別れを告げ、己を望まぬ支配者の許へ往《ゆ》くのだ。文明人の有様とは自然の情とはかけ離れたものであり、人の交わりが生み出す縛りによって己の意志とは無関係に動かされていく。とは云え、それが間違っているかどうかは分からない。李広は学者では無いから、己の胸へこみ上げてきた不思議な熱情を全て云葉に置き換える事は出来ない。唯《ただ》、人としてより正しいのは、自分では無く、自分を称えている彼らの方だと思う。そして、そんな彼らに称えられている自分ならば誇らしく思っても良いと、心の底から思えた。

 こうして、李広は理不尽な合戦を生き延びた。彼は漢へ帰ると死罪を申し付けられたが、財産を国家に差し出して平民の身分へ落ちる事で死罪を免れた。やがて、彼は復権し、匈奴から贈られた飛将軍の異名によって広く知られるようになる。彼をかように崇敬したのは、もしかすると、同胞である漢人以上に、敵方であるはずの匈奴であったかもしれないと云う事実は、その後の李広の哀しい宿命を象徴している。李広は以後も己の豪胆さと武勇とによって戦場を駆け抜け、最後まで皇帝の命令に従いつつ戦場へ立ち続けた。そして、彼が齢《よわい》六十になった頃、人生最後になるだろう戦場へ立つ機会が訪《おとず》れる。彼は自ら皇帝に願い出て、前将軍として真っ先に匈奴と戦う事になった。しかし、実際には、皇帝および大将軍による理不尽な方針や命令によって道に迷わされ、戦う事すら出来ずに終戦してしまった。しかも、大将軍は李広が戦えなかった事に対する責めを李広に負わせるようにして、再三、今回の作戦失敗についての報告書を出させようとした。しかし、李広はもはや屈辱的な命令を繰り返す大将軍に従うつもりは無かった。李広は己《おの》が誇りを守るため、自ら首を刎《は》ねて死んだ。それがため、彼を敬愛する多くの人々は涙を流して痛嘆した。

 絶頂に見えた漢王朝の凋落《ちょうらく》はこの時代より始まる。李広の主人だった皇帝は崩御の後に武帝と諡《おくりな》[*2]されたが、それから百年も経たぬうちに、漢王朝は皇帝の位を云わば合法的に簒奪《さんだつ》した王莽《おうもう》によって一旦滅亡の時を迎える。しかし、李広に贈られた飛将軍と云う異名はさらに生き延び、やがて、後漢末の猛将である呂布の異名として語られるに至る。しかし、飛将と呼ばれた呂布は裏切りを重ねた獰猛《どうもう》な将軍であり、李広の名を継ぐには余りにも不適切であるように思える。飛将軍李広が持つ哀しき栄光の輝きの真の源泉は、他の誰にも受け継ぐ事の出来ない、彼のみが持ち得る、人としての美しさであったのかもしれない。[了]

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注:
[*1]漢の文帝は正式には五代目であるが、二代目である恵帝は高祖の妻であり恵帝の母でもある呂后《りょこう》の傀儡《かいらい》(操り人形)であった上に、権力を握った母による残虐な振る舞いを見せられた事で精神を惑乱させたあげくに早逝《そうせい》してしまった。また、三代目と四代目も呂后の思惑で即位させられた傀儡であり、在位期間がどちらも四年と短かめだった上に、即位の正当性も薄いため、実際には文帝が二代目としての役割を担《にな》ったと云える。
[*2]死後に贈られる名前。


主要参考文献:
 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝(四)』(岩波文庫、1975年)


使用画像元:
 万里の長城 作者:ひらこみそ 素材のID:4863479(写真AC)

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