小説『沈慶之の三国論破』

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【字数:約一万】

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 中華の大陸を三分して競われた後漢末《ごかんまつ》の騒乱の結末は、後漢滅亡のち二百三十年経っても尚《なお》、漢民族の落涙《らくるい》を誘わずにはいられないだろう。なぜなら、劉玄徳《りゅうげんとく》や諸葛孔明《しょかつこうめい》による漢王朝の再興は成らず、代わりに大陸を統一した晋《しん》も瞬く間に腐敗して滅び去ったからだ。

 晋は、実質的な創始者たる司馬懿《しばい》の孫である皇帝司馬炎の死後、朝廷内部の陰惨な権力争いに端を発した王族たちによる反乱と実権の争奪の果てに、匈奴《きょうど》の子孫たる劉聡《りゅうそう》の軍隊による侵攻によって滅亡してしまった。司馬炎による全国統一から僅《わず》か三十六年後の事である。但《ただ》し、晋の諸王のうち司馬睿《しばえい》は、かつて孫呉《そんご》の首都であった東の果て建康を支配下においており、ここへ晋を復興させ、自ら帝位に付いた。これを東晋と呼ぶ。 しかし、東晋も成立して百三年後に東晋の将軍であった劉裕《りゅうゆう》によって滅ぼされる。この劉裕こそ現在中国南部を支配している宋の国の高祖たる武帝であり、現在の宋皇帝は三代目である。そして、現在、中国の北部は魏《ぎ》の国が統一して宋の国に対する圧力となっている。三国志の英雄たちが挙《こぞ》って皇帝を名乗った事を皮切りにして、皇帝の位は酷く乱造されるようになってしまったようだが、現在では経過はともあれ北の魏つまり北魏と、南の宋つまり劉宋と云う二つの国の皇帝に絞られた訳だ。その中でも、劉宋の三代目皇帝は名門貴族を重んじて政治を執《と》り行い、即位後二十五年を超えて国内に平和をもたらしている。その点では優れた皇帝だと云えるかもしれない。とは云え、今生皇帝は即位して間もない頃、皇族の独断が原因とは云え、稀代《きだい》の兵法者である檀道済《だんどうせい》を無実の罪で殺している[*1]。檀道済はかつて太祖劉裕の先鋒として北伐を敢行《かんこう》して洛陽を占領する大勲《たいくん》を立て、その後も北魏の軍隊に対して勝利と策略とを良くして北魏から大いに恐れられたが、司馬懿に例えられる程の権勢を誇ったために、朝廷に恐れられた末に殺されてしまった。檀道済は己が捕縛される際、

「これは汝らにとっての万里の長城を壊す事だぞ!」

 と、恫喝《どうかつ》した。事実、檀道済が殺された事を知った北魏の者らは、残った呉子輩(南方の田舎者ども)なぞ恐れるに足りんと勇み立ち、逆に、劉宋の民は、檀道済をみそさざいに例えてその無実の死を哀しんだと云われる。檀道済の腹心たる薛肜《せつゆう》と高進之《こうしんし》とは三国志の英雄である張飛と関羽とに例えられるほどの豪傑であったが、彼らもまとめて殺された。司馬懿と張飛と関羽とを自らまとめて殺しておいて、その国がいつまでも無事でいられるだろうか。今生皇帝による二十五年を超える平穏は単に北魏が華北統一を優先した結果としての偶然とも云え、その国家的決断は書生のような巧云令色《こうげんれいしょく》の貴族たちに与《くみ》して行われており、平和ではあるものの、常に頼り無く不安を感じさせるものだと云えるかもしれない。

 さて、かような状態であったから、現在、帝《みかど》の傍《そば》へ座を占めているのは、青白い顔をした文化人ばかりである。但《ただ》し、そこへ何の因果があってか、猛烈な鋭気を仄《ほの》めかしている飢狼《がろう》の如き姿の武人が呼び出された。彼は明らかに心底この場を嫌っているようで、粘土をこねくり回したような不機嫌むき出しの表情のまま、赤黒い長衣を荒々しく揺らしつつ、鬼瓦《おにがわら》の如き風情《ふぜい》で会場の端へ座り込み、眼前へ並べられた慎ましくも豪華な魚料理や山菜の食膳《しょくぜん》には目もくれず、眉間《みけん》へしわを寄せたまま両腕を組んで力強く目を瞑《つむ》った。帝の傍に居る書生たちは新しい客の横柄《おうへい》な態度を厭《いと》わしそうに見詰めたが、彼らは睨《にら》み返されるとすぐに目をそらし、他の参加者たちもその武人に声を掛けようとはしなかった。

 さて、じきに、帝と書生たちとによる歓談が始まった。今回の彼らの議題は珍しく清談や法談から離れた世俗的な三国語りである。しばしの後《のち》、書生の一人が得々とした表情と共に、

「私めが思いまするに、蜀漢《しょくかん》が三国騒乱の勝利者となり得なかったのは、龐士元《ほうしげん》を死なせてしまった事によって組織の適所を次々に乱したためであると存じます」

 と、自説を滔々《とうとう》と開闢《かいびゃく》し始めた。

 三国騒乱とは後漢末の争いの事であり、三国とは曹孟徳《そうもうとく》(曹操)を始祖とする魏の国と、劉玄徳(劉備)が治めていた蜀《しょく》(蜀漢)の国と、孫仲謀《そんちゅうぼう》(孫権)が治めていた呉の国を表している。蜀の武将では関雲長と張益徳と、つまり、関羽と張飛とが特に名高く、その主君である劉玄徳と名政治家である諸葛孔明とも抜群の英傑であり、漢王朝の復興を唱えて大義のために戦った。しかし、結局、蜀は三国のうち最も早く滅亡してしまった。その原因は劉玄徳の軍師だった龐士元の死だと云うのだ。その書生は更に自説を述べる。

「龐士元は張子房《ちょうしぼう》[*2]の如き軍略の才覚を持ちながら、それをほとんど発揮せぬまま、益州攻略の折《おり》に戦死してしまいましたが、劉玄徳はその穴を埋めるために政治家であるはずの諸葛孔明を荊州《けいしゅう》から益州へ呼び寄せてしまいました。そのため、荊州にて行うべき呉の国との良好な同盟関係の維持が出来なくなってしまいました。それによって、外交の失敗によって敵対的になった呉の国が謀略を張り巡らせ、ついには、荊州から北上して魏を討とうとしていた関雲長を陥《おとしい》れて首を獲《と》ってしまいました。これによって、蜀の総大将であるはずの劉玄徳は憤激して関雲長の敵討《かたきう》ちのために自ら呉の国へ侵攻してしまい、そこを呉の大都督たる陸伯云《りくはくげん》の狙いすました火計によって撃滅せしめられ、結果として六十万を号する大軍を失い、劉玄徳自身も白帝城にて失意のうちに亡くなってしまいました。

 亡くなった劉玄徳に代わり、蜀の実質的な総大将として働き始めたのが諸葛孔明でありますが、彼は優れた政治家ではありましたが、優れた総大将とは云い難《がた》かった。そのため、無能な馬謖《ばしょく》をえこひいきによって抜擢《ばってき》し、極めて重要な土地である街亭を守らせてしまい、そのせいで馬謖は容易《たやす》く敵軍に打ち破られ、北伐を一挙に破産させてしまいました。これによって、蜀の劣勢は決定的となり、いたずらに出兵と撤退とを繰り返すだけの不毛な年月を過ごしまして、その果てに、孔明は亡くなり、劉玄徳の後を継いで帝位へ上っていた劉禅《りゅうぜん》も宦官《かんがん》[*3]によって惑乱させられ、結局、国家を滅ぼしてしまいました。
 つまるところ、蜀の滅亡はせっかく集合した人傑を悉《ことごと》く最適な人材の欠落を埋める代用として使ってしまったせいで起こったものであり、それは人材の喪失が数珠《じゅず》の如く連鎖した結果であります。そして、連鎖の発生点は龐士元の死であり、それを招いてしまったのは、龐士元の知謀を生かさずに我《が》を通して半端な策を採《と》ってしまったために、彼をみすみす戦場にて死なせてしまった劉玄徳本人に帰するものです。
 そもそも、劉玄徳は己を有徳の英雄として飾っておきながら、重大局面に至って仁義を捨て、救援を求めてきた同族の劉璋《りゅうしょう》を騙《だま》し討ちにして巴蜀《はしょく》の地を寇奪《こうだつ》いたしました。その報いとして龐士元を失い、国士たる関雲長を孫呉による騙し討ちによって失い、ついには、己自身も陸伯云の計略によって凌《しの》がれて命を虚しくしてしまった。
 すなわち、国家の長たる者の成すべきは仁義礼節を修めて失わず、忠恕《ちゅうじょ》の心を手本とし、天下の蒼生《そうせい》をあまねく救恤《きゅうじゅつ》するに及ぶ事は無いと存じます。劉玄徳は仁義を謳《うた》いつつも、裏切りと謀略とに手を染めた結果として、ついには、味方であったはずの孫呉によって討ち滅ぼされてしまいました。ひきかえ、今、陛下のご善政によって我が国が恒久の安息を得ておりますのは、ひとえに孔孟《こうもう》[*4]に親しみ、顧視清高《こしせいこう》、仁厚篤実《じんこうとくじつ》の心術を以《もっ》て施策しておられるからで御座いましょう。したがって、仁義を正道として常に失わぬ事こそ天命を全うする唯一にして至高の道であると存じます」

 その幇間《ほうかん》[*5]めいた結論に及ぶと、一同、感嘆の声を漏らしたり、肯首《こうしゅ》したりして、賛意の雰囲気を醸成《じょうせい》した。上座に居わす帝も膝《ひざ》を叩いて讃嘆《さんたん》の声を上げ、

「素晴らしい。卿《けい》の云葉は湯文《とうぶん》[*6]孔孟の心を得たものであり、真に嘉云《かげん》である」

 と、述べ、愉悦覿面《ゆえつてきめん》であった。

 しかし、その時、それまで仏像の如く不動不云だった例の武人の男が、猛虎の如き大音声《だいおんじょう》で剛毅《ごうき》な笑い声を上げた。その迫力によって帝の取り巻きたちは一斉に体を震わせ呆然自失の態《てい》を見せる。帝も武人の男の反応に気分を害したのか、

「沈将軍。何故《なにゆえ》、かような剣呑《けんのん》な声で笑うのか」

 と、文人らしい柔らかな声の中に非難がましい響きを湛《たた》えつつ問い掛けた。すると、沈将軍と呼ばれた男はあぐらをかいた己の膝《ひざ》を叩きつつ、睨むように帝へ顔を向けた。曰く、

「聖上は真に仁義の君子《くんし》であらせられます。ですが、宮殿へお篭《こも》りになられて文士どもと云葉遊びばかりしておられると、現実を見る目が濁《にご》ってしまわれますぞ」

 彼はそう云い放つや否《いな》や、一挙動で素早く立ち上がり、床を踏み抜く勢いで帝の御前へまかり出る。そして、再び、豪放にあぐらをかき、背筋を針の如く伸ばして、帝のしおれた面長《おもなが》の尊顔を堂々と見据えた。対面の帝は沈将軍が放つあまりにも粗暴な迫力のせいか無礼を咎《とが》める事すらしてこない。沈将軍は怒脈を保ったまま帝から視線を外すと、帝の左右へ侍して苦瓜《にがうり》の如き表情をしている取り巻きたちの顔をつらつら眺めては鼻を鳴らした。そして、彼らを巡《めぐ》るような動きで指差しつつ、薄い唇《くちびる》を開く。

「聖上、この者らの中に、とびきり上手くむしろを編んで建業の繁華街にて商《あきな》いが出来る者がおりましょうや。ましてや、むしろを売りつつも、天下の豪傑から侮辱されるどころか心服され、己の手足として従え、さらに、無頼漢どもを集めて、その将となり、彼らを命懸《いのちが》けで働かせる事の出来る者など居りますまい。
 そこへ厚かましく座っておる、掌《てのひら》へ武芸、耕作、内職によって擦《す》り切れた痕《あと》が一つも無い書生どもは、昔話を現実の事とは思わないで、自分たちとは何の関わりも無い絵空事として話しておるだけです。それは、例えるならば、この世に存在せぬ仙人をさも存在しているかの如く語らって喜んでおるようなものであり、そのような霞《かすみ》を食べるような話を好まれるのは、真に以て亡国の兆《きざ》し。宋の国に第二の虞翻《ぐほん》や陸遜《りくそん》を生むが如き害毒ですぞ」

 と、放云したから、座に居る者らは挙《こぞ》りて騒《ざわ》めき立った。虞翻も陸遜も孫呉の家臣だが、虞翻とは主君である孫権が重臣である張昭《ちょうしょう》と神仙の話をしている所へ口を挟み、神仙なぞこの世に居りませぬ、と、冷や水を浴びせたので流刑に処されてしまった人物であり、また、陸遜とは字《あざな》[*7]を伯云と云い、劉玄徳率いる数十万の大軍を寡兵《かへい》[*8]によって撃破した孫呉の名将であったが、やはり最後は讒云《ざんげん》[*9]によって孫権の怒りを買って流刑に処された末に憤死している。孫呉の土地を後世受け継ぐような形で君臨しているのが宋の国であるから、かような例えは遥《はる》か過去の話とは云え生々しく響く。

 とは云え、帝もここで激怒すれば、自分こそ第二の孫権であり、亡国の魁《さきがけ》であると証明するようなものだ。それもあってか、帝は沈将軍の苛烈な物云いに対しても口をつぐんだままだ。一方、沈将軍はまだ云い足りぬと云わんばかりに口を大いに開く。

「拙者は文盲《ぶんもう》といえども三国の兵《つわもの》どもの話はよう存じております。そして、武人である拙者が、我が身を以て感じ、苦しみ、潜り抜けてきた経験を基《もと》にして思えば、劉玄徳こそ天下の大英雄。誰あろう曹孟徳が、今、天下の英雄は私と使君あるのみですぞ、そう述べておるではないですか。又、劉玄徳も、曹操は偉い奴だ、と、諸葛孔明に申しておったそうではないですか。乱世を駆ける武人同士、お互いの偉さを認め合っておる。それなのに、後世の心無き学者どもが劉玄徳こそ亡国の根因であると述べるのは、劉玄徳のみならず曹孟徳の眼力までも貶《おとし》める事に成り申す。ならば、もはや、三国の争いは英雄を騙《かた》る愚者どもの騒乱に過ぎなくなってしまいますが、かような事は御座いますまい。
 そもそも、劉玄徳を寛仁の長者として見なす事自体が間違っておる。あれほどまでに底知れぬ怪物を儒教の仁義礼節によって凝り固めようとしても無駄な事。彼《か》の豪傑は関羽と張飛と云う地獄の鬼をも取って喰らうような二人の豪傑を従え、元は草莽《そうもう》の身でありながら、北は冀州《きしゅう》より下りて瞬《またた》く間に予州の牧(長官)となった。これは我が国の高祖(劉裕)に比するが如き豪傑のしわざでありますが、更に徐州の牧より領土を譲《ゆず》られたのは天に摩《ま》するが如き人徳のしわざであります。さらに、呂布《りょふ》の如きけだものすら己《おの》が手で飼い慣らしてしまおうと目論《もくろ》んだのは覇者のしわざであり、その調略を失しても曹孟徳を頼る事が叶ったのは名声のしわざであり、曹孟徳から警戒されて命を狙われていたにも関わらず生き延びたばかりか、逆に、漢の皇帝に渡りを付けて車騎将軍と共に曹孟徳の暗殺を企《たくら》んだのは、これはもう恐るべき謀略家のしわざでありますぞ。
 にも関わらず、何故《なにゆえ》、劉玄徳は元来仁義の人であったが、ついには手を汚したなどと、処女の如き初々《ういうい》しさで語りおるのか。それは全く以て迷妄の云であり、大廈《たいか》[*10]高楼座談の客《かく》であります。劉玄徳は腹蔵極まりない玄妙万化の大英傑であり、曹孟徳に打ち破られても、尚、南の要所荊州《けいしゅう》へ入り、またしても荊州の牧を心酔せしめたのは魔性のしわざであります。にも関わらず、荊州を取らなんだのは、只一人の支配者のみを篭絡《ろうらく》して国の実権を奪っても、それで国土全てを支配できる訳では無い事を感得していたからで御座いましょう。劉玄徳に触れたる者は挙って彼に惚《ほ》れ込みましたが、それ故に、彼を敵と見なす者も多い事を彼自身良く弁《わきま》えておったのでしょう。
 それは益州攻略の場合でも同じ事であります。益州奪取の際に龐士元が示した、奇襲によって益州の牧である劉璋を捕らえて首都成都を一挙に陥《お》としてしまえと云う策も、いかにも心地良きものでは御座いますが、実際の戦を知る武人からすれば、一国をまるごと屈服させる際に、只、懐《ふところ》の一点のみを抑えよと申すのは空論の誹《そし》りを免れませぬ。かような場合には、国内の各地へ配された敵軍内の忠義有能な武将や長官をあらかじめ抑えておかねば、例え、首都を奪取したとしても、逆に、四方《よも》より攻囲されてたちまち落城の憂《う》き目に遭《あ》うか、そうで無くとも包囲によって食糧を消尽させられる事必至。ましてや、己を頼ってきた劉璋を騙し討ちの如く取って喰《く》らったのであれば、益州の義将や蒼生(民衆)は悉《ことごと》く劉玄徳を邪知暴虐の賊将と見做《みな》して敵意を噴出させ、決して彼に付き従う事は無かったでしょう。かような書生の癖《くせ》が抜けぬ机上の妙案では、いかな鳳雛《ほうすう》(龐士元の異名)の鬼謀とは申せ、そのまま受け入れる訳にはいきませぬ。
 もし、拙者が劉玄徳の立場であれば、やはり彼と同じ心積もりとなり、実力と名分とを堂々と誇示しつつ各地を鎮撫《ちんぶ》した上で首都を攻略いたします。領土とはそうしてこそ真に獲得できるものであり、単に敵が本拠だと主張しているだけの城一つを取っただけで、その他全ての城が肝を抜かれて傀儡《くぐつ》のごとく降伏する事は有り得ませぬ。かつて、燕《えん》の名将軍であった楽毅《がっき》が斉《せい》の国へ侵攻した際に、七十もの城を抜いたのは、まさにこの道理故で御座います。それでも、尚《なお》、屈服せぬ城が僅《わず》かに残り、しかも、それらの城を陥《おと》す前に、楽毅は斉の田単による反間[*11]によって一度たりとも敗北せぬまま撤退させられてしまいました。これほどまでに力を尽くしても、尚、謀略によって勝利を覆《くつがえ》される事が有るのが戦場の現実なのです。これは実際に兵を率いた者で無ければ分からぬ道理であります。
 こうして、劉玄徳は正道によって益州を獲り、荊州と共に治めるようになったため、その勢は天へ上る龍が如きで御座いました。しかし、ついには、親子の如き絆《きずな》で結ばれた万夫不当の大豪傑である関雲長を孫呉の詐術《さじゅつ》によって殺され、その恨みを晴らすべく大軍を率いて攻め入った所を陸伯云の火計によって滅ぼされました。然《しか》れども、それをもって劉玄徳を無能であると侮辱するのはあまりにも愚劣。彼《か》の楽毅ですら神掛かりの軍略を示しながらも己《おの》が功を全う出来ず、楚《そ》の覇王ですら鬼神そのものの豪勇を示しながらも漢軍の調略によって包囲され、己《おの》が首を自ら刎《は》ねる事になり、関雲長ですら詭計《きけい》によって荊州の地へ魂魄《こんぱく》を沈める事になってしまったのですから、劉玄徳の最期の敗北を取り上げてあげつらう事はあまりにも恥知らずな物云い。
 いかなる英雄豪傑であろうとも天命には勝てませぬ。劉玄徳は逆巻く運命のために志《こころざし》を全うする事は叶いませんでしたが、その崇高なる理想と壮烈なる義挙とによって、天下の群雄たちをあまねく心服させ、さらには、はるか後世にまで己が威名と大義とを轟《とどろ》かせております。それにひきかえ、聖上にかしづく本読みどもは、群れを成して巧云令色《こうげんれいしょく》[*12]を並べ立て、日々、聖上の御耳を蕩《とろ》けさせた上で、ようやく、聖上御一人の御心のみを幻惑しておるに過ぎませぬ。そこの書生めらが拙者のような武人を心服させる事が出来るとお思いでしょうか。劉玄徳はそれをむしろを編んでいる時にやりおおせたのですぞ。聖上はその事を良く御心に留めて頂きたい。
 人心を掴《つか》み、蛮地を平らげ、善政を敷くのに必要なのは、現実を肌身で知り、それを我が手足によって思い通りに動かしていく術《すべ》で御座いまして、それはかような小さき部屋の中にて密談をしておるだけでは決して得られぬ物で御座います。ですから、聖上も座談ばかりの生活はお取り止めにして、おん自らのおみ足によって土煙を吐きつつ、建業の街を微行(お忍び)し、市井《しせい》の空気を存分にお吸いになられたらいかがですかな。為政者《いせいしゃ》[*13]たるもの、己が治める街を己が五体によって感じる事こそ大事とすべきであって、小さな書物臭い部屋の主人となり、おべっか使いどものこびへつらいを聞いて喜んでいるようでは、それこそ孫呉の末路を襲う事になりかねませぬ。どうか、聖上、私めの無礼苦云をお許しくだされ。そして、どうか、ご寛宥《かんゆう》に流され過ぎて、正邪の順を誤らぬよう、お心に留めくだされ」

  ***

 さて、後日、沈将軍は再び御前へまかり出たが、今度は自らの意志で強引に乗り込んだものだった。沈将軍は鎧兜《よろいかぶと》を着込んで御前会議へ乱入すると、居並ぶ貴族たちを虎狼そのものの眼光で睨んだ後、帝へ向かって、

「陛下。国を治める事は家を治める事と同じようなものです。つまり、畑仕事は下僕に訊《たず》ねよ! 機織《はたお》りは下女に訊ねよ! そして、今、陛下は、今まさに敵国を討たんと為されておられる。ならば、兵を動かす事は武人に訊ねよ! それなのに、陛下は清談をするのと同じような態度で、白面の書生どもと机上の兵法を語らっておいでだ。それで成功するものですか」

 そう訴《うった》えたのだが、帝は真剣に話を受け止めるどころか愉快そうに大笑いして、

「かつて、貴公は申したではないか。蛮地を平らげ善政を敷くために必要な事は我が肌身によって実際を知る事だと。故に、朕は諸卿《しょけい》らと共に、故事に照らして、むしろの代わりに軍略を編み、籌《はかりごと》を帷幄《いあく》の中へ運《めぐ》らし、勝を千里の外へ決する事で、実際の勝利を我が国へ引き入れようとしておるのだ」

 その浮付いた発云に対して、沈将軍はたまらず、

「陛下!」

 と、怒鳴るように口を挟んだが、帝もすかさず、

「僭上者《せんじょうもの》! 卿《けい》よ、よもや、朕《ちん》が何者であるか忘れた訳ではあるまいな。会議の結果は卿にも追って伝える。今は下がりおれ」

 と、威圧するように叱り付けてきたので、さすがの沈将軍も無念の唸《うな》り声をあげると、粛々たる肉体をひるがえして退出の態を見せたが、部屋を出る直前に再び我が身を翻《ひるがえ》すと、

「陛下、これより陛下が討たれんと欲しておられるのは魏の国ですぞ。魏の国には張遼《ちょうりょう》が居る事をお忘れ無きよう」

 そう、叩き付けるように吼《ほ》えたかと思うと、何事も出来ぬ貴族たちへ背を向けて憤然と去っていった。

 張遼とは三国時代の魏の名将であり、北上して魏を討たんとした呉の軍勢十万と合肥《がっぴ》の地にて総勢わずか七千あまりの兵で対峙し、さらに、八百人の勇士を募《つの》って呉軍を襲撃する事で、孫権を大いに驚かせた末に撤退させた大剛の将軍である。つまり、沈将軍は、このままでは我が国は昔と同じように魏の国に討たれるぞ、と、訴えたのだ。

 果たして、魏の国を征服するために北上した宋の軍隊は惨敗し、帝と彼のお気に入りの書生たちとのみでこしらえた軍略は全くの空論であった事が明らかになった。宋の皇帝はこの敗戦の二年後に皇太子によって暗殺された。謚《おくりな》は文帝。

 こうして、文雅《ぶんが》なる平和の時代は終わりを告げ、宋の国は陰惨《いんさん》たる政治闘争の時代に呑み込まれていく。皇帝暗殺より後、歴代皇帝は身内であるはずの皇族を我が権力の敵対者と見なすようにして殺し続けるようになった。五代皇帝たる劉子業《しぎょう》の代、沈将軍つまり沈慶之《ちんけいし》は、この若く凶暴な皇帝を諫争《かんそう》したせいで不興を買い、ついに、殺されてしまった。享年八十。

 なお、子業に妬《ねた》まれて、わずか十歳にして殺される事になった劉子鸞《しらん》と云う皇族は、左右の者に対して、

「願身不復生王家(願わくばこの身がまた王家に生まれないように)」

 と、云い遺《のこ》した。また、一説によると、劉宋最後の皇帝である順帝は禅譲《ぜんじょう》を強要された際に殺される事を恐れ、泣いて指を弾きつつ、

「願後身世世勿復生天王家(生まれ変わっても天王の家には生まれたくない)」

 と云い、宮中の者はみな哭《な》いたと云われている。事実、その後、順帝は殺されたとされる。享年十三。彼らの云葉はいかに当時の皇族が惨《むご》たらしい結末を迎えていたかを象徴している[*14]。

 こうして、劉宋の皇室は膨大《ぼうだい》な同族の血を吐き出しつつ、自国の有力な将軍である蕭道成《しょうどうせい》によって、享国《きょうこく》五九年にして滅亡の時を迎える事になった。その根因の一つとしては、文帝による檀道済の処刑と北伐の強行とが挙《あ》げられるだろう。それは、あたかも、かつて孫呉の皇帝たる孫権が合肥《がっぴ》にて張遼に大敗し、また、自国の優れた兵法家たる陸遜を憤死させた事と似通《にかよ》っている。云わば、三国時代の過ちが繰り返され、その結着もまた、混沌《こんとん》たる騒乱の継続となってしまった事になる。[了]

  ***

注:
[*1]厳密には、帝の病が悪化した際に、皇族の劉義康《りゅうぎこう》が詔《みことのり》であると偽って道済をおびき出した上で逮捕のちに殺した(『南史』檀道済列伝)。その後、帝は前漢の名将たる李広を引き合いに出し「李広が朝廷(中央)に居ても[北方の]匈奴は[恐れて]あえて南を望まなかった(攻めて来なかった)。[檀道済の]後継者はまた幾人か[出る]」と放言したが、後に、北魏の軍が都の対岸にまで侵攻してきたのを見ると甚《はなは》だ憂《うれ》いて「もし道済がいればこんな事にはならなかったのに」と嘆《なげ》いたと云われている。
[*2]張子房。漢の高祖劉邦に仕えた張良の事。名軍師として名高い。
[*3]宦官。去勢された男の官僚の事。中国の皇帝は自分や妻や妾《めかけ》が住まう男子禁制の後宮に宦官を入れて日常的な世話をさせていたのだが、宦官は権力者と非常に近しい場所で生活するため、能力や功績とは無関係に皇帝のお気に入りになって権力を握り易《やす》く、国家の腐敗を招く要因となる事が多かった。
[*4]儒教の創始者である孔子と儒教の伝道者である孟子の事。
[*5]幇間。たいこもち。宴席で遊びを盛り上げる男の職業。転じて、他人に媚びを売る事。
[*6]湯文とは古代の優れた王とされる殷《いん》の湯王と周の文王の事。
[*7]字。主に成人後に付ける第二の名前。通常は相手の本名を呼び捨てにしないために字を呼ぶのが礼儀。また、敬意を示す場合には字の代わりに役職名や称号のようなもので呼ぶ。なお、本名は正式には諱《いみな》と呼ぶ。ちなみに、諱と字とを続けて呼ぶのは原則として間違いである。例えば、三国志の武将を「劉備玄徳」や「諸葛亮孔明」と呼ぶのは諱と字を同時に読んでしまっており明らかな誤用なので注意。どうしても両方の名前を続けて呼びたければ「劉備、字は玄徳」とか「諸葛亮、字は孔明」と云う風に注釈を付けると良いだろう。
[*8]寡兵。少ない兵の事。
[*9]讒云。ありもしない悪口を目上の権力者に吹き込んで他人を陥《おとしい》れる悪意の有る云葉の事。
[*10]大廈。大きい建物。大楼。「-高楼」(『広辞苑』)
[*11]反間。元々には敵方の間者(スパイ)である者を手懐《なず》けて、逆に、敵国へ送り込む事。
[*12]巧云令色。云葉が巧《たく》みかつ顔付きも良い。「-鮮《すく》なし仁(『論語』)」
[*13]為政者。政治を行う者。君主や国王や皇帝などを表す。
[*14]劉子鸞についての出典は『宋書』孝武十四王列伝。順帝についての出典は『資治通鑑《しじつがん》』巻一三五。


主要参考文献:
 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫、2003年)
 延寿著『南史』(维基文库)
 沈約著『宋書』(维基文库)
 陳寿著『三國志』(维基文库)
 司馬光撰『資治通鑑』(维基文库)
 渡辺精一著『三国志人物鑑定辞典』(Gakken、1998年)
 瀬戸龍哉編『三国志 英雄たちの100年戦争』(SEIBIDO MOOK、1997年)
 村山孚訳『孫子・呉子 中国の思想10』(徳間書店、一九九六年)
 金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1999年)


使用画像元:
『中国建築 アジアの建物』作者:フイル(ID:3611743)【写真AC】



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