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小説『沈慶之の三国論破』

【字数:約一万】  *** 中華の大陸を三分して競われた後漢末《ごかんまつ》の騒乱の結末は、後漢滅亡のち二百三十年経っても尚《なお》、漢民族の落涙《らくるい》を誘わずにはいられないだろう。なぜなら、劉玄徳《りゅうげんとく》や諸葛孔明《しょかつこうめい》による漢王朝の再興は成らず、代わりに大陸を統一した晋《しん》も瞬く間に腐敗して滅び去ったからだ。 晋は、実質的な創始者たる司馬懿《しばい》の孫である皇帝司馬炎の死後、朝廷内部の陰惨な権力争いに端を発した王族たちによる反乱と実権の争奪の果てに、匈奴《きょうど》の子孫たる劉聡《りゅうそう》の軍隊による侵攻によって滅亡してしまった。司馬炎による全国統一から僅《わず》か三十六年後の事である。但《ただ》し、晋の諸王のうち司馬睿《しばえい》は、かつて孫呉《そんご》の首都であった東の果て建康を支配下においており、ここへ晋を復興させ、自ら帝位に付いた。これを東晋と呼ぶ。 しかし、東晋も成立して百三年後に東晋の将軍であった劉裕《りゅうゆう》によって滅ぼされる。この劉裕こそ現在中国南部を支配している宋の国の高祖たる武帝であり、現在の宋皇帝は三代目である。そして、現在、中国の北部は魏《ぎ》の国が統一して宋の国に対する圧力となっている。三国志の英雄たちが挙《こぞ》って皇帝を名乗った事を皮切りにして、皇帝の位は酷く乱造されるようになってしまったようだが、現在では経過はともあれ北の魏つまり北魏と、南の宋つまり劉宋と云う二つの国の皇帝に絞られた訳だ。その中でも、劉宋の三代目皇帝は名門貴族を重んじて政治を執《と》り行い、即位後二十五年を超えて国内に平和をもたらし
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