小説『仮面の意義』

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小説
【字数:約五千六百】

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 三国志の時代から三百年経った今、中国大陸は再び三国鼎立《ていりつ》の時代へ突入している。北には斉《せい》、西には周《しゅう》、南には梁《りょう》ないし陳《ちん》。構図としても三国時代と概《おおむ》ね同じだ。そのうち、斉と周はかつて北方を支配していた魏の国が分裂して成立した国だ。斉の前身となる東魏の国は地方の大豪族であった爾朱栄《じしゅえい》の元部下たる高歓《こうかん》が支配し、周の前身となる西魏の国は武仙鎮の指導者である宇文泰《うぶんたい》が支配し、この二国が大いに争って竜虎相搏《あいう》つのを、南にある梁《りょう》の国が文雅《ぶんが》な時代を謳歌《おうか》しつつ、眠れる虎狼の如く侵攻の機会を伺《うかが》っていた。

 そして、高歓が病死した年、東魏の国にて、豪勇暴戻《ぼうれい》の猛将たる侯景《こうけい》が、高歓の後を継いだ息子に従うのを良しとせず、梁の国へ寝返ってしまった。梁の武帝はこれを好機と見たようで、侯景と共に東魏と戦う事にしたが、梁の軍隊は東魏の敵では無く、各地にて敗北を重ね、侯景もまたわずか八百人の残党と共に梁へ逃亡してきた。こうして、敗軍の将となった侯景の立場は甚《はなは》だ悪くなった。なぜなら、梁は東魏との戦争に大敗した後に和睦《わぼく》する事を決定したので、東魏への手土産《てみやげ》として裏切者の侯景を殺してしまうかもしれないからだ。

「ええい、このまま東魏の国へ売り渡されるくらいならば」

 そう思ったのか、侯景は人生二度目の大博打《ばくち》を決行した。つまり、僅《わず》か千人あまりの兵士のみで寿春《じゅしゅん》の街から一挙に南下して梁の都である建康を急襲し、奴隷を解放して略奪を許すような外道の策略を用いた末に、ついに、建康の宮殿を陥落《かんらく》させたのだ。これは彼が寿春から出陣して約七ヶ月後に達成された迅速《じんそく》の成果である。

 だが、彼が行ったのはあくまでも奇襲であり、只、帝国の中心を抑えたのみであるから、到底、梁の王朝そのものを獲得したとは云えない。彼が建康を包囲していた時から、すでに各地から数十万の梁の大軍が集まってきており、逆賊侯景を討ち取らんとしていた。侯景は進退窮《きわ》まった。

 だが、実は、梁の大軍は腐敗した梁王朝に幻滅していたのか、士気が極めて低く、侯景が梁の皇帝の名を騙《かた》って撤退命令を出してきたのに対して、実にあっさり自分たちの領土へ帰ってしまった。こうして、侯景は梁の国を強奪し、自らは宇宙大将軍と云う大層な肩書きを名乗って君臨しようとした。しかし、実際の彼が所有していたのは、荒廃し尽くした梁の都と、ならず者の軍隊のみであり、じきに、梁の皇族による討伐軍によって討たれた。

 こうして、梁は再興したが、結局、梁の有力な武将だった陳覇先《ちんはせん》に取って代わられ、現在では陳と云う新しい王朝に交代している。つまり、三国時代における孫呉の国から数えると、中国南部には、孫呉、東晋、宋、斉、梁、陳と云う六つの国が支配者を変えて続いている事になる。

 一方、中国北部は、一度、秦《しん》、いわゆる前秦の国によって統一されたが、じきに、東晋との決戦に大敗して瓦解《がかい》した。その後、長い混乱の後に、ようやく魏、つまり、北魏の国として統一されたが、またしても反乱と政変との後に分裂して、西魏と東魏とになり、現在では、東魏の支配者だった高歓の息子が建国した北斉の国と、西魏の支配者だった宇文泰の息子が即位した北周の国とに分かれている。そのうち、周の国は宇文泰の兄の子たる宇文護《うぶんご》が牛耳《ぎゅうじ》り、斉の国は暴君たる高湛《こうたん》が陰虐を極め、真に以《もっ》て良民賢臣を痛嘆させる事態だ。

 ***

 さて、かような重苦しい社会状況の中で、周の国には美しくも勇壮なる王子が居る。普段の彼は文雅な貴公子そのものであり、彼の主君が行っているような奇矯《ききょう》な振る舞いは全く無い。

 その日、彼は、自宅の広壮優美な庭園にて、仙人の如き白の衣を悠々と纏《まと》いつつ、廊下の欄干《らんかん》へ穏やかに腰掛け、庭へ生えている柏《かしわ》の木を悠然と眺《なが》めつつ、白塗りの杯を幽《かそ》かに傾《かたむ》けている。とは云え、酒にはほとんど口を付けておらず、酔う事よりも庭の清澄《せいちょう》たる景色を味わう事を愉《たの》しみにしているようだ。彼の傍《かたわ》らには、彼の従者の一人である聡明そうな青年が、落ち着いた青い衣を着て静々と侍《じ》している。その青年は緩《ゆる》やかに寛《くつろ》いでいる美形の王子に対して、ふと、

「あまりにも、解《げ》せぬ事で御座《ござ》いますなあ」

 と、いかにも感慨を込めた様子で述べたものだから、王子の方も、

「なにが解せぬのかな」

 と、麗《うるわ》しい声で和《なご》やかに問い掛けた。すると、従者の青年は苦悶《くもん》すら感じさせるような悩ましい声で、

「何故、蘭陵王《らんりょうおう》の如き雅《みやび》なお方が、戦場にあっては神のごとく敵軍を畏怖《いふ》せしめるのか、で、御座います。人の心とは一つであると見せかけて、その実、様々な魂がいくつも並んで、代《か》わる代《が》わる顔を出すものなので御座いましょうか」

 と、疑問を投げ掛けてきた。

 蘭陵王と呼ばれた、この貴公子は、本名を高長恭《こうちょうきょう》と云う。彼は外見の柔らかさに似合わず、邙山《ぼうざん》の戦いにおいては中軍を為し、五百騎《き》を率いて敵である周軍へ突入する程《ほど》の剛の者である。その際、蘭陵王は金墉《きんよう》城の下へ至ったのだが、城は敵軍によって囲まれる事はなはだ厳しかった。蘭陵王は彼らの救援にやってきた訳だが、城の上に居る味方は蘭陵王の装備している兜《かぶと》が顔を隠す形をしていたのか素性《すじょう》が分からなかった。そこで、蘭陵王は冑を脱いで己《おのれ》の顔を露《あら》わにする事で味方である事を証明し、結局、城の守り手は弩《ど》(弓の一種)を下ろして蘭陵王を受け入れた。こうして、蘭陵王は城を救い、ここにおいて大勝利した。味方の武士たちはこの活躍を歌にした。こうして出来上がったのが『蘭陵王入陣曲』である。従者の青年は以上の活躍を神の如しと称えた訳だ。

 従者の問い掛けを聞いた蘭陵王は、梅の花が舞い踊るような、爽《さわ》やかな甘い声で笑った。そして、曰《いわ》く、

「一人の人間に宿る魂魄《こんぱく》は一つだろう。この宇宙が一つであるのと同じように。然《しか》れども、宇宙には四季が有り、その時々によって様々な色を見せる。人も同じ事。戦《いくさ》の際には凄烈《せいれつ》な色を見せるし、宴《うたげ》の際には麗美な彩《いろどり》を添《そ》えようとする。だが、その本質は何も変わらない」

 しかし、従者の青年は、尚《なお》も、

「そうは申しましても、鉄面を付けて矛《ほこ》をお取りになられる蘭陵王様と、こうして嘉景《かけい》[*1]を藹々《あいあい》と眺めておられる蘭陵王様は、あまりにも魂の色が違い過ぎるように思われます。一体、何が蘭陵王様をあのような関張(関羽と張飛と)の再来の如き豪傑に変えるので御座いましょうや」

 と、述べた。すると、蘭陵王は同性すら魅了するだろう涼《すず》しい目元へ力を込めて曰く、

「変える、のでは無いぞ。私は、元より、武人として生きている。だが、その色を常に晒《さら》して生きるのは、例えるならば、抜き身の刀を持って殷賑《いんしん》な街中を練り歩くようなものだ。例え、私の本質が剣呑《けんのん》な武人であったとしても、かような危険な振る舞いをするのは本意では無い。故に、常には心の刃を鞘《さや》へ納めて和やかに過ごしている。それこそが私の本懐《ほんかい》であり、魂の音色《ねいろ》と云うべきではないのかな。つまり、例え、戦《いくさ》を好む者であったとしても、その感情を表に出して憚《はばか》らないか、それとも、その感情を収めて、みだりに他者を恐れさせぬようにするかで、その魂は真逆の彩を見せる事になる。そこにこそ、揺るがぬ魂の郷《さと》、と云うべきものが隠されているはずだ」

 その淵源《えんげん》たる響きを受け取った従者は、その場へ膝《ひざ》を付いて両手を組み合わせると、

「お見それ致しました。それがし、物事の外面しか見ておらぬ小人で御座いました」

 と、讃嘆《さんたん》の云葉を恭《うやうや》しく述べた。すると、蘭陵王は落ち着いた様子で曰く、

「いや、真の小人とは疑問すら抱けぬ者の事を云うのだ。汝《なんじ》は決して小人では無い。かように賢明なる問いを発し、然《しか》るべき得心を生むのは小人には到底出来ぬ事だ」

 そう云い終えた後、蘭陵王は玲瓏《れいろう》たる薄い笑みを端正な唇《くちびる》へ乗せた。そして、曰く、

「私が戦場にて鉄の面を被《かぶ》る時、それによって敵兵から身を守らんとする事のみを求めているのでは無い。あの鉄面は私の心に対しても差し出されているように思える。私は魔物となり、悲しみと共に敵兵を討つが、悲しみに溺《おぼ》れて主命を損なう訳には行かぬ。私は己の涙を誰にも晒《さら》さぬために、あの鉄の面を付けているようにも思える。それは、もしかすると、己自身に対しても、己《おの》が真情を封じているのかもしれぬ。その時、私は極《きわ》めて強い己の信念を貫《つらぬ》いている。その貫きこそが単なる感情を超えた魂の本質であり、それはいかなる時にも色を変えず、時に応じて、只、隠され、只、押し出される。故に、私は、欄干へ腰掛けて柏の木を杳然《ようぜん》[*2]と眺めている時でも、馬上へ腰掛けて敵の旗を凝然と睨《にら》んでいる時でも、高長恭そのものだ。人の魂の本質とは、何を行い、何を示すか、あるいは、何をせず、何を示さないかで、その音色を響かせるものだろう。さて、今の、私の魂の音色とは、一体、いかなるものなのだろうな。今は、それを、あの柏の木へ問い掛けたいと思っている」

 今、風、吹かず、柏は、只、佇《たたず》む。

 蘭陵王たる高長恭は、その無音の響きに対して、愁々《しゅうしゅう》と心を傾けた。

「あるいは、鉄の面こそが、私の貌《かお》、そのものなのであろうか」

 いかに忠と武とに殉《じゅん》じても、それに対して与えられるは虚しき儀礼のみ。我は真心を隠して無痛の鉄面を被っているが、その内は……。

  ***

 武平四年(西暦573年)五月、蘭陵王は、武成帝高湛の後を継《つ》いだ無愁天子《むしゅうてんし》たる高緯《こうい》の命によって、何の罪も無く、毒による自死を命じられた。暴君にとって、蘭陵王は、もはや、存在しているだけで不快な存在になり果てたらしい。蘭陵王は妃《きさき》である鄭《てい》氏に謂《い》いて曰く、

「我は忠をもってお上に事《つか》えてきた。天において何の罪が有って鴆《ちん》(猛毒を持つ鳥)に遭《あ》うのか」

 妃曰く、

「なぜ天顔(皇帝の顔)と見《まみ》えるをお求めになられないのですか」

 つまり、皇帝と面会して助命を訴《うった》えられないのか、と云う事だろう。

 だが、長恭曰く、

「天顏を何の理由で見られるのか」

 そう述べると、これまで持っていた千金の債権《さいけん》を焼き尽くした上で、ついに、毒薬を呑んで命を絶った。

 かくして、斉の国は、また一人、国の柱たる名将を自ら殺した。蘭陵王が死亡した時の年齢は定かでは無いが、若くして非業《ひごう》の死を遂《と》げたようだ[*3]。じきに、斉の国は滅亡したのだが、それは全くの人災であり、天命は人が起こした災禍《さいか》に対して無音の風を吹き込んで燃え上がらせただけのように思える。

 なお、斉の国を滅ぼした周の国も無道の君主が現れたせいで瞬《またた》く間に皇帝の外戚《がいせき》[*4]だった楊堅《ようけん》に取って代わられた。こうして、建国されたのが隋《ずい》である。やがて、隋は陳の国をも平らげ、後漢の滅亡より時を重ねること三百六十九年、ようやく漢王朝に代わる大統一国家を再興した。隋は事実上わずか二代で滅びたが、その後を唐《とう》が襲い、漢帝国に並ぶ世界的文明国家を、約三百年もの間、保ち続ける事になる。

  ***

 さて、歴史上の蘭陵王は「貌《かお》は柔らかなれど心は壮にして、音容(声と外見)共に美しい」と評され、さらに、将軍でありながら自ら細事に務《つと》め、甘美な食べ物を得る毎《ごと》に、それが一個の瓜《うり》や数個の果物に過ぎなかったとしても、必ず将士と共にし、これを皆に勧《すす》めたと云う。

 また、陽士深と云う者が賄賂《わいろ》の罪で蘭陵王から免官されていたのだが、後に、士深は再び蘭陵王の軍へ在する事になったので、過去の罪によって禍《わざわい》が及ぶ事を恐れていた。蘭陵王はこれを聞くと、

「吾《われ》はもとよりそのような事は考えておらぬ」

 と云い、士深に対して、あえて小さな失敗を理由にして、杖で二十回叩かれる軽い罰を与え、それによって、大きな罰を与える意志が無い事を示して安心させた。

 また、かつて、入朝した際に、蘭陵王を待つべき従僕《じゅうぼく》らがなぜか散り尽くしてしまい、蘭陵王は皇族《こうぞく》でありながら一人で還《かえ》る事になってしまったのだが、誰も叱《しか》ったり罰したりしなかった。

 また、ある時、皇帝からその功績を賞される事になり、妾《めかけ》二十人を買い与えられる事になった。暴君らしい下品な褒賞と云えるだろうが、蘭陵王はただ一人を受けたのみだった。全員を断ると不敬になるとの事だろうか。

 かように、正史に記される蘭陵王に関する逸話《いつわ》は多く無いが、そのどれもが外見や声音と同じように美しい。蘭陵王の最期《さいご》は痛ましく、無情の響きを感じずにはいられないが、その美名は歴史に留められ、今もなお壮麗にして善良なる音色を奏《かな》でている。[了]

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注:
[*1]良い景色の事。
[*2]はるかに遠いさま(『広辞苑』)。
[*3]四男蘭陵王の兄である三男河間王孝琬は、生年については『資治通鑑《しじつがん》』の「卷158:高祖武皇帝十四大同七年(辛酉,公元五四一年)」に「東魏尚書令高澄尚靜帝妹馮翊長公主,生子孝琬,朝貴賀之」と、それを推測させる記述が有り、没年についても『資治通鑑』の「卷169:世祖文皇帝下天康元年(丙戌,公元五六六年)」に「上皇愈怒,折其兩脛而死」と死因が明記されている。つまり、河間王は享年二六程度と見なせる。この事実から推測すると、『北斉書』の記述によれば、武平四年(西暦五七三年)に死去したとされる蘭陵王の年齢は最高でも三三歳となる。
[*4]母方の親族。


主要参考文献:
 李百薬撰『北斉書』(维基文库)
 姚思廉撰『梁書』(维基文库)
 司馬光著『資治通鑑』(维基文库)
 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫、2003年)
 宮崎市定著『中国史(上)』(岩波文庫、2015年)
 宮崎市定著『中国史(下)』(岩波文庫、2015年)


参考ウェブサイト:
『魏晋南北ブログ |高孝琬と高長恭』
 蘭陵王の年齢に関する一次資料の出典を割り出す道標《みちしるべ》として大いに参考にさせて頂いた(ココナラブログではURLが禁止ワードになっているため割愛)。


画像使用元:
 『【上海・シャンハイ】豫園・よえん・豫園商城 』
 作者:RERE0204(ID:1670688 )【写真AC】
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