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記事『仁威将軍 陳慶之伝』

【字数:約一万二千】  ***<主旨> 陳慶之《ちんけいし》は中国南北朝時代(西暦439~589年)の梁《りょう》の国の名将である。その武功は一国の建設に匹敵するほどの大功であり、寡兵《かへい》(少ない兵)にて大軍を次々と撃ち破る無敵さであった。史書では「廉頗《れんぱ》、李牧《りぼく》、衛青《えいせい》、霍去病《かくきょへい》に次ぐ」と評されている。廉頗と李牧とは戦国時代における趙《ちょう》の国の名将であり、後に漢の文帝が彼らのような将を家臣にしたいと願ったほどである。衛青や霍去病は漢の武帝の外戚《がいせき》(妻の一族)であり、漢の圧倒的な武力を背景にして華々しい功績を挙げた。つまり、彼らに例えられた事はほぼ最高級の称賛だと云えるだろう。かような名将の戦法とはいかなるものだったのだろうか。<時代背景> 中国南北朝時代は、その名の通り、後漢帝国の滅亡後、大分裂の時代を経て、おおむね南北へ二つの大国が成立し、どうにか均衡を保っていた時代と云えるだろう。そのうち、南部には、孫呉《そんご》、東晋《とうしん》、劉宋《りゅうそう》と云う国家が成立しては滅んでいった。そして、陳慶之の若年時には南斉《なんせい》と云う国家が存在していた。南斉は劉宋に取って代わった蕭道成《しょうどうせい》の建てた国であるが、わずか二十年ほどで政治が乱れて滅亡の危機が迫っていた。 陳慶之が武神の如き活躍をするのは中年期辺りからであり、この時点ではまるで出番が無い。若い頃の慶之は荊州刺史《けいしゅうしし》である蕭衍《しょうえん》に近習していたのだが、蕭衍は非常に碁《ご》が好きだったらしく、夜から碁を打ち始めると朝まで
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小説『仮面の意義』

【字数:約五千六百】 *** 三国志の時代から三百年経った今、中国大陸は再び三国鼎立《ていりつ》の時代へ突入している。北には斉《せい》、西には周《しゅう》、南には梁《りょう》ないし陳《ちん》。構図としても三国時代と概《おおむ》ね同じだ。そのうち、斉と周はかつて北方を支配していた魏の国が分裂して成立した国だ。斉の前身となる東魏の国は地方の大豪族であった爾朱栄《じしゅえい》の元部下たる高歓《こうかん》が支配し、周の前身となる西魏の国は武仙鎮の指導者である宇文泰《うぶんたい》が支配し、この二国が大いに争って竜虎相搏《あいう》つのを、南にある梁《りょう》の国が文雅《ぶんが》な時代を謳歌《おうか》しつつ、眠れる虎狼の如く侵攻の機会を伺《うかが》っていた。 そして、高歓が病死した年、東魏の国にて、豪勇暴戻《ぼうれい》の猛将たる侯景《こうけい》が、高歓の後を継いだ息子に従うのを良しとせず、梁の国へ寝返ってしまった。梁の武帝はこれを好機と見たようで、侯景と共に東魏と戦う事にしたが、梁の軍隊は東魏の敵では無く、各地にて敗北を重ね、侯景もまたわずか八百人の残党と共に梁へ逃亡してきた。こうして、敗軍の将となった侯景の立場は甚《はなは》だ悪くなった。なぜなら、梁は東魏との戦争に大敗した後に和睦《わぼく》する事を決定したので、東魏への手土産《てみやげ》として裏切者の侯景を殺してしまうかもしれないからだ。「ええい、このまま東魏の国へ売り渡されるくらいならば」 そう思ったのか、侯景は人生二度目の大博打《ばくち》を決行した。つまり、僅《わず》か千人あまりの兵士のみで寿春《じゅしゅん》の街から一挙に南下して梁の
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小説『沈慶之の三国論破』

【字数:約一万】  *** 中華の大陸を三分して競われた後漢末《ごかんまつ》の騒乱の結末は、後漢滅亡のち二百三十年経っても尚《なお》、漢民族の落涙《らくるい》を誘わずにはいられないだろう。なぜなら、劉玄徳《りゅうげんとく》や諸葛孔明《しょかつこうめい》による漢王朝の再興は成らず、代わりに大陸を統一した晋《しん》も瞬く間に腐敗して滅び去ったからだ。 晋は、実質的な創始者たる司馬懿《しばい》の孫である皇帝司馬炎の死後、朝廷内部の陰惨な権力争いに端を発した王族たちによる反乱と実権の争奪の果てに、匈奴《きょうど》の子孫たる劉聡《りゅうそう》の軍隊による侵攻によって滅亡してしまった。司馬炎による全国統一から僅《わず》か三十六年後の事である。但《ただ》し、晋の諸王のうち司馬睿《しばえい》は、かつて孫呉《そんご》の首都であった東の果て建康を支配下においており、ここへ晋を復興させ、自ら帝位に付いた。これを東晋と呼ぶ。 しかし、東晋も成立して百三年後に東晋の将軍であった劉裕《りゅうゆう》によって滅ぼされる。この劉裕こそ現在中国南部を支配している宋の国の高祖たる武帝であり、現在の宋皇帝は三代目である。そして、現在、中国の北部は魏《ぎ》の国が統一して宋の国に対する圧力となっている。三国志の英雄たちが挙《こぞ》って皇帝を名乗った事を皮切りにして、皇帝の位は酷く乱造されるようになってしまったようだが、現在では経過はともあれ北の魏つまり北魏と、南の宋つまり劉宋と云う二つの国の皇帝に絞られた訳だ。その中でも、劉宋の三代目皇帝は名門貴族を重んじて政治を執《と》り行い、即位後二十五年を超えて国内に平和をもたらし
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