記事『仁威将軍 陳慶之伝』

記事
小説
【字数:約一万二千】

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<主旨>
 陳慶之《ちんけいし》は中国南北朝時代(西暦439~589年)の梁《りょう》の国の名将である。その武功は一国の建設に匹敵するほどの大功であり、寡兵《かへい》(少ない兵)にて大軍を次々と撃ち破る無敵さであった。史書では「廉頗《れんぱ》、李牧《りぼく》、衛青《えいせい》、霍去病《かくきょへい》に次ぐ」と評されている。廉頗と李牧とは戦国時代における趙《ちょう》の国の名将であり、後に漢の文帝が彼らのような将を家臣にしたいと願ったほどである。衛青や霍去病は漢の武帝の外戚《がいせき》(妻の一族)であり、漢の圧倒的な武力を背景にして華々しい功績を挙げた。つまり、彼らに例えられた事はほぼ最高級の称賛だと云えるだろう。かような名将の戦法とはいかなるものだったのだろうか。


<時代背景>
 中国南北朝時代は、その名の通り、後漢帝国の滅亡後、大分裂の時代を経て、おおむね南北へ二つの大国が成立し、どうにか均衡を保っていた時代と云えるだろう。そのうち、南部には、孫呉《そんご》、東晋《とうしん》、劉宋《りゅうそう》と云う国家が成立しては滅んでいった。そして、陳慶之の若年時には南斉《なんせい》と云う国家が存在していた。南斉は劉宋に取って代わった蕭道成《しょうどうせい》の建てた国であるが、わずか二十年ほどで政治が乱れて滅亡の危機が迫っていた。

 陳慶之が武神の如き活躍をするのは中年期辺りからであり、この時点ではまるで出番が無い。若い頃の慶之は荊州刺史《けいしゅうしし》である蕭衍《しょうえん》に近習していたのだが、蕭衍は非常に碁《ご》が好きだったらしく、夜から碁を打ち始めると朝まで止めなかったので、[慶之の]同輩《どうはい》らはみな倦《う》んで眠ってしまうのだが、慶之だけは起きていて、呼ばれれば即座に参上したので、覚えがめでたかったそうだ。

 やがて、蕭衍が所属していた南斉の国では蕭宝巻《しょうほうかん》と云う稀代《きだい》の暴君が現れた。宝巻は重臣を誅殺《ちゅうさつ》して好き勝手に振る舞う事の出来る状態になると、馬に乗って街中を駆け抜ける遊びを好み始め、しかも、それを民衆に見せる事を嫌ったので、民衆を追い払ってから行った。のみならず、街の様々な場所へ目隠し用の幕を張り、そこへ見張り用の兵士や儀仗兵《ぎじょうへい》を置き、さらに、音楽の演奏者らを配置し、真夜中になっても松明を付けて音楽を演奏させたので、街の人々は真夜中であるにも関わらず家から逃げ出す事を強いられた。しかも、その道の通行は禁止され、うっかり通れば病人だろうと見張りの兵に叩かれて殺された。この道は「屏除《へいじょ》」と呼ばれ、これによって街の住民は仕事もままならなくなり、街は失業者ばかりになってしまった。また、宝巻は相手が貴族であっても平気で殺し、妊婦さえ屏除のために立ち退《の》かぬとあれば殺し、その胎児の性別を確認すると云う外道の極みを行った。貴族らは別荘を用意してその包囲網から逃れたが、庶民にそのような贅沢が出来る訳が無い。民衆は葬式もまともに挙げられず、死者の体が腐ってその目玉を鼠《ねずみ》に食われてしまうと云う惨状に陥《おちい》った。

 やがて、おごり高ぶる宝巻は、反乱を鎮圧した忠臣である蕭懿《しょうい》を殺してしまった。ここに至って、蕭懿の弟である蕭衍はこの殺戮皇帝《さつりくこうてい》を滅ぼすために挙兵し、蕭宝巻の弟を奉じた荊州軍府と連合し、さらに、知恵袋たる韋叡《いえい》や、猛将たる曹景宗《そうけいそう》らを率いて侵攻し、首都建康を包囲した。ついに、宝巻は蕭衍に内応した者によって首を刎《は》ねられて死亡し、結局、蕭衍が禅譲《ぜんじょう》によって梁の国を建国するに至った。こうして、殺戮と暴虐とに代わり、秩序と文雅とに彩られた新たな時代が訪れようとしていた。

 さて、その頃、若年の陳慶之は主書(文章を主管する役職)に任命された。また、奉朝請《ほうちょうせい》と云う官にも叙されている<*1>。南朝時代にはまだ科挙が行われておらず、九品官人法と云う、最初にどの程度の品位の官に就《つ》いたかで後の出世の度合いが決まる人事が行われていた訳だが、若い頃の陳慶之もその法に則って官途に就いた訳だ。とは云え、陳慶之は家系に恵まれていた訳では無かったようなので、普通ならば南梁の貴族社会での出世は難しい境遇だっただろう。

 さて、南梁王朝は成立から五年後の天監《てんかん》六年(西暦507年)に起こった北魏の国との大合戦である鍾離《しょうり》の戦いにも勝利して長期政権としての基盤を安定させたと云える。この際、云わば北魏の最強武将にして万人敵たる楊大眼《ようたいがん》の猛攻を韋叡の軍略が制し、その南下を挫《くじ》いたのだ。時代はいまだに南梁建国の賢者や猛将を主役としており、その威光が三国志の英雄たる関羽や張飛を超えると評された楊大眼にすら傷を負わせたのだ。

 だが、以降の南梁王朝は文治主義に傾倒していき、武力を大幅に低下させていったと云えるだろう。南梁は蕭衍の治世の中で文化を華やがせたが、他方、貴族主義を進行させ、文弱の風潮に強く流れたと云える。さらに、銅銭が不足して経済が上手く回らなくなったので、銅銭を鉄銭に変える事で補おうとしたが、鉄銭は簡単に偽造できるので、ついには経済が破綻《はたん》してしまった。一方、蕭衍は仏教にのめり込み、貴族は贅沢にふけり、逆に、庶民らは極貧の生活に陥《おちい》って社会から逸脱していった。

 つまり、蕭衍による長期の治世は平和を生んだかに思われたが、その実態は過度な貴族主義であり、さらに、貧富の格差の増大や経済政策の失敗、そして、蕭衍自身の失政や仏教への異常な耽溺《たんでき》によって、その脆弱《ぜいじゃく》な骨格を失っていきつつあったと云えるだろう。


<陳慶之の伝記>
一.寡兵《かへい》で大軍を速やかに撃ち破る軍略

 こうして、鍾離の戦いから約二十年の時が流れた。もはや韋叡も曹景宗も居らず、南梁軍もすっかり惰弱《だじゃく》になっていたようだが、その中にあって、古来の名将に比肩しうる兵略を持った人物が不惑の年代となり、軍の中枢を担《にな》えるまでになっていた。陳慶之その人である。

 普通六年(525年)、陳慶之の秀絶な軍才が表舞台に現れ始める。その年、北魏の徐州刺史《しし》が梁へ投降してきたのだが、慶之にはその領土の接収を命じられ、さらに、その後、わずか二千の兵を率いて梁の王族を徐州へ送る任務に就いた。そのような動きに対して、北魏の国は二万の兵、あるいは十万の大軍をもってこれを拒《こば》んできた。普通ならば、到底、戦える兵力差では無い。

 北魏軍の指導者の一人たる元延明は別将たる丘大千と云う者を先遣《せんけん》として砦を築き、その近境にて観兵した。北魏軍は大軍な上に砦を築いて守っているのだから備えは充分だと思っていたのかもしれない。だが、そこへやってきたのは、あの陳慶之である。慶之は砦へ迫ると、ただ一度、鼓を鳴らして攻めただけで[北魏軍を]崩壊せしめた。ここに至ってようやく慶之の卓抜たる軍才が発揮された訳だ。

 しかし、その後、慶之が連れてきた王族が魏へ寝返ってしまったせいで、梁の軍隊は全て潰散してしまい、諸将はそれらを制する事が出来なくなってしまった。しかし、慶之は夜に関所を破って軍を見事に撤退させた。陳慶之は明らかに独り抜きん出て強く、また、その力は逆境においても全く崩れる事が無かったと云えるだろう。

 さらに、翌年の普通七年(526年)には、寿春へ侵攻してきた北魏軍と対峙し、敵軍が築いた二つの城を攻め、力屈遂降、つまり、力で屈服させ、ついに降伏させた。かように、陳慶之の武略は、細やかな術策を用いると云うより、堂々たる指揮と奇正に富んだ軍略とによって敵軍を積極的に撃破する王道の性質を有していたと云えるだろう。


二.深思奇略をもって北魏軍を大いに撃滅する

 さて、大通元年(527年)、再び、北魏との間で戦火が起こる。南梁では曹仲宗《そうちゅうそう》と云う者が軍を率いて渦陽《かよう》の地を討伐したのだが、対して、北魏は征南将軍にして常山王たる元昭らを遣わし、騎馬と歩兵合わせて十五万を率いて来援してきた。その前軍が渦陽から去って四十里の位置までやってきた。慶之はそれを迎撃する事を望んだのだが、韋叡の子である韋放は、賊の前鋒は必ず軽やかにして鋭い(軽鋭)と考え、もしこの敵軍と速やかに戦えば、功績は不足し、かえって不利な状況になり、我が軍勢はくじけるようになってしまうとし<*2>、兵法に謂《い》う所の「以逸待労《いいつたいろう》(余裕を持って相手の疲れを待つ)」の策を取り、攻撃するような事はしないとした。どうやら韋放は理論で軍を動かす人物だったようだ。しかし、実戦的な慶之の考えはまるで違っていた。慶之曰《いわ》く、

「魏人は遠くから来たので、皆がすでに倦み疲れている。[我々がここを]去って[魏軍攻撃のために]遠来すれば、[魏軍は]必ず見《まみ》えずして混乱し、その軍は集結しなくなる<*3>。すべからくその気を挫《くじ》き、その不意に出るべし。[韋放が述べたような理論優先の]不敗の戦術は必要無い。しかも、捕虜から聞く所によると、[魏軍の]陣営は林木が甚《はなは》だ盛んであり、[魏軍が]夜に出兵してくる事は必ず無い(夜襲を確実に仕掛ける事が出来る)。諸君がもし[私の云葉を]疑うのであれば、慶之は請《こ》う。単独でこれを取る(敵軍を撃破する)事を」

 陳慶之はここにおいて麾下《きか》のわずか二百騎と共に奔《はし》るように進撃し、総勢十五万の魏の前軍を撃破。魏の人々は震れ恐れた。

 その後、慶之は帰還して諸将と共に陣営を連ねて進み、渦陽城に依《よ》って共に魏軍と対峙した。しかし、そのまま春から冬にかけて数十百戦すると、[梁の]軍は老いたように気力を衰えさせた。さらに、魏の援兵が再び砦を軍の後へ築く動きを見せたので、曹仲宗らは腹背から敵[の攻撃]を受ける事を恐れて撤退の計画を立てる事を望んだ。しかし、慶之はむしろ将軍の権限を示す旗を掲げ、軍門にて曰く<*4>、

「共に来たり至りて一年が経過したが、[我が軍は]食糧や武器を消費し、その数は極めて多い。諸軍は並んで戦う心が無く、みな撤退縮小を謀《はか》っておられるが、どうして功名を立てるを望む事を良しとしないのか。直ちに集結して[敵軍から]掠奪するのみ。吾《われ》は聞く。兵を死地に置いてこそ、すなわち生を求める事が出来ると。すべからく敵軍を大いに囲んで[逃げられないように]集合させるべし<*5>。然《しか》る後に共に戦い、目に見える形で凱旋《がいせん》する事を望む。慶之は別に密勅《みっちょく》(皇帝からの秘密の命令)が有り、今日、[一同の意見を]犯すは、明詔《めいしょう》(皇帝からの云葉)に依っての事である」

 慶之が本当に皇帝からの指示を受けていたのかは分からないが、曹仲宗はその計略を壮として従う事にした。一方、魏軍は十三の城で掎角《きかく》を成していた。掎角とは互いを助け合えるように守り、攻めてきた相手を挟《はさ》み撃ちにする構えである。対して、慶之は[自軍の兵士らの口へ箸《はし》のような形の]枚《ばい》と云う道具を銜《ふく》ませて[声を出せないようにして敵に気付かれないようにした上で]夜襲を仕掛け、その四つの砦を陥落させると、渦陽城主の王緯《おうい》が降伏を乞うてきた。残りの九つの城の敵兵はなお盛んであったが、すなわち、陳慶之[の軍]はそれを俘馘《ふかく》、つまり、敵を殺してその証拠として左耳を切り落とし、鼓を噪《さわ》がしてこれを[猛然と]攻めたので、ついに[魏軍は]大いに奔《はし》り潰《つい》えた。[梁軍はそれを]斬獲し尽さんとし、[無理に逃走しようとした魏軍は]渦水の流れに呑まれていった。降伏した城の中にはいまだに男女三万口余りが留まっていたと云う。

 こうして、梁の支配地となった渦陽には西徐州が置かれ、軍は勝ちに乗じて城父《じょうほ》の地までにわかに前進した。主君である蕭衍はそれを褒め称え、慶之に自ら詔《みことのり》を賜《たまわ》って曰く、

「[汝は]もとより将軍の出では無く、また、豪家の出でも無かったので[活躍の場を与えられず]不遇であったが、[今回の戦のような]風雲に乗じれば、かような境地へ至る(栄達できるほどの軍才をもとより持っていた)。[汝は]深思奇略によって善く勝利し号令して[見事に戦いを]終え、[その功績によって]朱門を開いて賓《ひん》を待ち、名声を竹帛《ちくはく》に揚《あ》げた(富貴となって客をもてなせる立場となり、高らかな名声を歴史に掲《かか》げた)。どうして大丈夫に非《あら》ずや(まことに立派な男である)」

 陳慶之の軍略と戦法とはまさしく天へ上った龍のごとき壮烈さであったと云えるだろう。その戦いぶりは西楚《せいそ》の覇王たる項羽《こうう》を彷彿《ほうふつ》とさせる。項羽もまた無用の策略を弄《ろう》して決戦を避け続けた総大将の宋義を処断した上で、自軍を死地へ追い込んで秦軍を大いに撃破した。陳慶之による敵の大軍をまるで意に介さぬような超絶の武力はまさしく覇王の再来のようであったと云えるだろう。


三.千兵万馬も白袍《はくほう》を避ける

 さて、大通二年(528年)四月、北魏の国では将軍の爾朱栄《じしゅえい》が軍事蜂起して首都洛陽《らくよう》へ入城し、実権を掌握すると云う「河陰《かいん》の変」が起こり、北海王たる元顥《げんこう》らが梁へ亡命してきた。元顥は自らを魏の主《あるじ》にして欲しいと蕭衍に訴えてきた。蕭衍は元顥の願いを聞き入れ、陳慶之に対して元顥を北の地へ還《かえ》らせるよう命じてきた。この時、慶之に与えられた兵数は明確では無いが、後の記述では七千とある。だとすると、北伐を敢行して大国たる北魏を撃滅するための兵としてはあまりにも少な過ぎる。

 蕭衍の真意は果たしていかなるものだったのだろうか。この時の梁軍全体の規模にもよるだろうが、陳慶之に与えられた軍を基準にすれば、蕭衍にはこの機を生かして北魏を本気で打倒する気は無かったようにも思える。その外観的な行動のみで意図を推測すれば、あわよくば北魏から領土の一部のみを奪い、元顥を名ばかりの皇帝として立て、いくばくかの実利と名分とを得ようとしていたのではないか。当時、北魏では反乱が起きており、今回、梁はその反乱軍と内応して軍を起こしていたから、反乱軍の討伐によって生まれた北魏の守りの隙を突いて領土の一部を奪おうとしたと考えるのが自然だろう。

 かくして、陳慶之はわずか七千程度の兵で北伐の挙に出る事になった。慶之の麾下《きか》の兵はことごとく白袍《はくほう》つまり綿入りの白衣を纏《まと》っていた。まず銍城《ちつじょう》を攻略した北伐軍は睢陽《すいよう》の地へ到達したが、そこへ以前に慶之が撃破した北魏の将軍たる丘大千が立ちふさがった。その兵数は七万。常識的に考えればまず勝ち目の無い兵力差だろう。大千は九つもの城を分けて建築する事で互いに[梁軍を]拒《こば》んだ。しかし、これほどまでに防備を固め、これほどまでに大軍を用意したにも関わらず、慶之の軍がこれを攻めると、朝に始まった戦いが昼過ぎに至った時には、すでに三つの砦が陥落し、大千は降伏した。かくして、陳慶之は城を守る約十倍の敵軍に圧勝した。この時点で元顥は早くも北魏の皇帝に即位したのだが、慶之はこの地へ留まらず、さらに西へ進軍した。

 次に陳慶之の行く手を阻んだのは魏の王族である元暉業《げんきぎょう》だ。暉業は羽林(皇帝直属部隊)の庶子を二万人引き連れて考城へ駐屯した。考城は四面へ水を巡らせており、守備は強固であった。しかし、慶之は水へ浮く砦を築かせると云う奇策を用いて城を陥《お》とし、暉業を生け捕りにした。

 その後、慶之は軍を率いて西のかた大梁(開封)へ赴《おもむ》いた。すると、大梁の者はやってきた梁の軍隊の旗を眺めただけで帰順した。慶之はさらに西へ向かったが、その苛烈な進撃を阻んだのが、魏の左僕射《さぼくや》(左大臣)たる楊昱《よういく》と、西阿王たる元慶《げんけい》と、撫軍将軍《ぶぐんしょうぐん》たる元顯恭《げんけんきょう》とだ。彼らは儀仗羽林の宗子と庶子およそ七万を引き連れて滎陽《けいよう》へ拠った。滎陽はすぐ西へ洛陽を望む場所に在る。つまり、慶之の軍は目的地まであと一歩の所まで迫っていた事になる。

 これまでの陳慶之の無敵ぶりからすれば、今回の約十倍の敵軍も難無く撃破できそうに思えるのも無理は無い。だが、滎陽の兵は精強であり、城も険固であったので、さしもの陳慶之もこれを即座に抜く事は出来なかった。そうこうしているうちに、魏の将軍であり、爾朱栄の腹心たる元天穆《げんてんぼく》の大軍が至り、その先遣として爾朱兆《じしゅちょう》が領する胡族の騎兵五千と、騎将たる魯安《ろあん》の領する歩兵ならびに騎兵九千とが楊昱を援《たす》けた。さらに、騎兵一万が虎牢城《ころうじょう》へ拠った。さらに、天穆と爾朱兆の軍とがその前後へ続いて至り、お互いの旗や太鼓を眺める事が出来る状態になった。にも関わらず、梁の軍隊はいまだに滎陽を抜く事が出来ずにいたので、ついには、梁の軍隊はみな恐れを成した。

 しかし、慶之の態度は違っていた。慶之は[いつもと同じように落ち着いて]鞍《くら》を解いて馬に飼い葉をやると、皆に広く伝え諭《さと》して曰く、

「吾はここへやってきて以来、城を屠《ほふ》り土地を攻略し、[集めた]宝は少なくない。[一方]君ら(我が部隊以外の者ら)は[他国の]父兄を殺し、子女を略奪しておきながら、また、何の勝算もしていない。[魏の援軍としてやってきた]天穆の軍団はならんでこの仇を討たんとしている。我ら才能ある兵(まともに戦える兵)は七千、[ひきかえ]敵軍の数は三十万あまりだ。今日の事は[魏王の願いによって行われている]義[の戦い]であり、生き延びる事を謀っての事では無い。吾は敵の騎兵と平原(中原)[の地]を力ずくで争う事は不可とするが、いまだ前進し尽くした訳では無い(まだ先へ進む事は出来る)。すべからくその城や砦を平定すべし。諸君は飾り疑い戸惑う事無く、自ら[敵の領土を]切り取って[皇帝陛下に]贈り給《たま》え<*6>」

 ここまでの慶之は敵の大軍を滅ぼす機会を充分に狙っていたのだろう。ここに至って、ついに決戦を仕掛け、鼓を一度鳴らさせると、[それによって兵士を]悉《ことごと》く[敵の城へ]登城せしめた(全軍による総攻撃を仕掛けさせた)。すると、壮士たる宋景休と魚天湣《ぎょてんびん》とが堞《ひめがき》(城の上の低い壁。凹凸《おうとつ》の部分)を越えて侵入。ついに勝利を手にした。とは云え、魏軍もこのまま引き下がる事無く、陣をにわかに外へ張って合同した。対して、慶之率いる三千の騎兵は城を背にして迎撃し、これを大破。魏将の魯安は降伏を乞い、元天穆と爾朱兆とは単騎で[脱出して]捕縛を免れるのみだった。

 かくして、[梁軍は]滎陽を収めて宝を蓄えたが、[手に入れた]牛馬や穀物や帛《きぬ》の量は数え切れぬほどだった。その後、虎牢城へ赴くと、城を守っていた将軍は城を棄《す》てて逃げ、爾朱栄に擁立《ようりつ》されていた魏の皇帝である元子攸《げんしゆう》は懼《おそ》れを成して北の幷州《へいしゅう》へ逃げ去った。かくして、洛陽では陳慶之ら梁軍を受け入れる態勢が作られた。元顥は洛陽宮へ迎えられ、改元大赦《かいげんたいしゃ》を行った。元顥は慶之を侍中、車騎大将軍、左光禄大夫とし、万戸の邑《むら》を加増した。つまり、最大の功労者である慶之にはひたすら最高の待遇が与えられたと解せるだろう。

 とは云え、打倒された北魏軍もこのまま引き下がった訳では無い。再び、元天穆、王老生、李叔仁《りしゅくじん》が四万の兵を率いて大梁を陥落させ、さらに、老生、費穆《ひぼく》の兵二万を分遣して虎牢城へ拠り、刁宣《ちょうせん》、刁双《ちょうそう》を梁や宋の地へ入れた。しかし、慶之はどの敵軍にもこだわらず奇襲を仕掛けたので、全ての敵軍がならんで降伏し、天穆はわずか十騎あまりと共に河を渡って北へ逃れた。[北伐成功の報を受けた]蕭衍はまた自ら詔を賜って賛美した。

 かくして、陳慶之の武威は天下へ大いに轟《とどろ》いたと云える。南北朝の時代、南朝が北伐を行って洛陽を制した例は、陳慶之を除けば劉宋の檀道済《だんどうせい》が挙げられる。檀道済は軍略家として敵国たる北魏から大いに恐れられ、生きながらにしてその姿を描かれて厄除《やくよ》けとして使われたと云う。一方、陳慶之はわずか七千程度の主力のみでほぼ独力で北伐を成し遂げた。

 慶之率いる白袍の軍隊が敵へ向かえば、[そのあまりの強さに]皆が[恐れを成して]なびいた(道を空けた)。当時、洛陽の童謠《どうよう》に曰く、

「名師大將莫自牢,千兵萬馬避白袍。(名高き軍隊や大将でも自らを守れず、千の兵士も万の騎馬も白袍を避ける)」

 銍城を発って洛陽へ至る間、陳慶之が百四十日の間に平定した城は三十二に及び、四十七戦して向かう所敵無しであった。


四.人災により北伐が終焉《しゅうえん》し、慶之は仁威によって竹帛へ垂る

 北伐は成った。しかし、新体制の安定は成っていない。洛陽が存在する河南の地を治める刺史や太守すら、その全てが梁の軍隊に擁立された元顥に従った訳では無い。ましてや、北魏軍はいまだ健在である。にも関わらず、元顥はすでに目的を達成したと思い込んだのか、皇帝の立場を乱用して酒と女とに溺《おぼ》れ、日夜、宴《うたげ》の楽しみを味わい、もはや事態を顧《かえり》みる事をしなくなり、我が身を助けてくれた梁王朝にも感謝せず、賓客《ひんかく》の礼を断《ことわ》ってしまった。陳慶之に対しても、表向きには今まで通りの態度を取っていたが、実際には酷い妬《ねた》みの云葉を多く吐いていた。慶之はその事を悟ると、密かに計略を練り、元顥に対して曰く、

「今、こうして遠くから[この地へ]参りましたが、[我々に]平伏していない者はなお多数です。もし、人が[実際には洛陽には少数の軍しか居ないと云う]虚実(外見と実体との両方)を知れば、方々から更《さら》に兵が連なって[襲ってきて、我が方は]安らかにして危険を忘れる事は出来なくなります。すべからく、その[対応]策を[私に]お預けください。天子(梁の皇帝である蕭衍)に宜《よろ》しく啓上し、さらに精兵を乞い(増援を頼み)、ならびに諸州を整え、南人(梁の人)で使われていない者をことごとくすべからく各所へ送り込むべきです」

 当初、元顥はこの進云に従う事を望んだのだが、今では元顥側に付いていた元延明が反対し、現状でさえ少数の兵しか持たぬはずの陳慶之の制御は難しいのに、さらに兵を与えては制御不能になり、ついには魏は滅亡する、との旨《むね》を述べたので、元顥は慶之を疑うようになり、それどころか、[元顥は]密かに蕭衍に啓上し、もはや河北や江南の地は平定されたので、むやみに兵を動かして民衆を動揺させないようにしてください、との旨を伝えてしまった。そのせいで、蕭衍は軍を領土の境界へ留めてしまい、援軍を送らなくなってしまった。しかし、実際には洛陽の梁軍は一万に満たず、ひきかえ、異民族の数は十倍である。このままでは破滅するのは火を見るより明らかだと云えるだろう。

 この期《ご》に及んで、慶之の副官である馬仏念は慶之の置かれた状況がいかに危険であるかを説き、中原へ轟《とどろ》いている慶之の威光を用いて自立し、元顥を屠《ほふ》って洛陽をお取りなされ、との旨を勧《すす》めてきた。しかし、慶之はその献策には従わなかった。いくら危険な状況とは云え、君命に背《そむ》いて護衛の相手を殺す事は仁義に反すると考えたのか、あるいは、かような状況で魏の皇帝を殺して自立すれば、各地の刺史や太守らはたちまち反旗を翻《ひるがえ》すだろうし、また、本国から援軍が来ない状況では事態を打開できないと考えたのだろうか。どのみち、慶之は蕭衍と云う主《あるじ》に対して、主が皇帝になる前から近くにて仕えており、[蕭衍からの]詔を受け取る際には必ず沐浴《もくよく》(湯浴み)してから拝受《はいじゅ》したほどの忠義者であるから、自立を考える事すらしなかったのではないか。ともあれ、慶之とて己《おの》が身の危険は重々承知していたようで、元顥に対して自分の任地とされている徐州への赴任を強く求めたが、元顥はかえって慶之の逃亡を責めて赴任を許可しなかったので、慶之はもはや沈黙するしか無かった。

 ここに至れば、もはや破滅の結末は避けられなかった。未だ健在であった爾朱栄が逃亡した元子攸の許へ駆け付け、元顥の軍を撃破し、そこへ元天穆も合流し、さらに、胡族の大軍を動かして逆襲を開始。その兵数は百万と号された。すでに元顥側に付いていたはずの諸々の城も一斉に反旗を翻した。慶之は北中郎城にて防戦し、三日の間に十一もの戦いを行い、多くの敵を殺傷した。つまり、百万と号される敵軍をおそらく一万未満の兵で痛撃した事になる。対して、爾朱栄は撤退したが、狙いを転じて河を渡り、元顥軍と戦う事でこれを大敗せしめた。これによって、元顥軍は崩れるように逃亡してしまい、結局、わずか六十五日にして元顥による洛陽の占領は終わり、元顥は南へ逃げたが捕らえられて殺された。一方、慶之の軍はわずか数千の騎馬と歩兵とで陣を結んで東へ撤退したが、爾朱栄自ら追撃してきた上に、洪水に巻き込まれてしまったせいで、慶之に従っていた軍人らは死亡したり散り散りになったりしてしまった<*7>。慶之自身は髪や髭《ひげ》を剃《そ》って僧侶に化ける事でどうにか都へ帰還した。陳慶之とその軍とは最後まで無敗であったが、人災と天災とに襲われる事で功績を廃され、悲惨な結末を辿《たど》る事になってしまった。

 さて、都へ帰還した陳慶之は、獲得した領土こそ奪い返されてしまったものの、その功績は評価され、侯爵の身分に取り立てられ、多くの領地を与えられた。その後も将軍として戦果を挙げ続け、大同二年(536年)には、東魏の猛将である侯景《こうけい》率いる七万の軍を迎え撃つ事になった。侯景は自信満々だったようで、あの陳慶之に対して降伏するよう書を送ってくるほどだった。対して、梁からは援軍が送られて来たのだが、慶之は援軍が参戦する前に侯景を撃破した。しかも、その時の天候が大雪だったので、侯景は輜重《しちょう》(補給物資)を棄《す》てて逃げるしか無かった。慶之は侯景が残していった物資を回収して帰還し、ついには、仁威将軍の号を与えられた。

 なお、陳慶之に敗れた侯景とて並の将軍では無い。三国時代の武将に例えれば呂布《りょふ》のような存在だろうか。後年、侯景は東魏の国に対して反乱を起こしたが、侯景が恐れたのは自らの兵法の師匠である慕容紹宗《ぼようしょうそう》のみであり、その慕容紹宗すら侯景に敗れて撤退するほどであり、後の名将である斛律光《こくりつこう》もまた侯景に敗れている。慕容紹宗は侯景を最強の敵と認めており、慕容紹宗以外の者が侯景を攻めても、侯景は全く馬鹿にして、しきりに撃破した。ついには、慕容紹宗が前進し、その後へ諸将が従う事になった。結局、侯景は部下の離反によって潰散《かいさん》し、梁へ亡命したが、じきに、侯景はわずか千人の軍勢のみで梁の国をも裏切り、首都である建康《けんこう》を急襲し、事実上、梁の国を壊滅に導《みちび》き、宇宙大将軍の称号を名乗って君臨した。かような大暴挙を成し遂げた猛将すら、陳慶之に匹敵する事は叶わなかった訳だ。

 かように、陳慶之の武威は晩年に至っても超絶していた。とは云え、実を云うと、陳慶之自身は矢を射ても板を貫けず、馬に乗る事すら上手くやれないほどに、武人としては非力であった。しかしながら、善く兵士を慰撫《いぶ》し、その死力を得る事が出来たと云われている。故に、生粋《きっすい》の指揮官であり軍略家であったと云えるだろう。とは云え、陳慶之は戦争ばかりに心を尽くしていた訳では無い。中大通《ちゅうだいつう》二年(530年)頃には、六千頃《けい》(約四万ヘクタール)の田地を開き<*8>、その二年後、米倉を充実させた。また、大同二年(536年)に予州にて飢饉《ききん》が起こった際には、倉を開いて[食糧を]にぎやかに給付したので、ついに、多くの土地が無事に済んだ。州の民衆らはその徳を称《たた》えるための碑《いしぶみ》を立てた。かように、陳慶之は武力のみならず仁の心まで備えており、仁威将軍の称号が真に相応《ふさわ》しい。慶之は人を敬《うやま》い慎《つつし》み深い性格をしていた。また、綺麗な服を着る事が無く、音楽を好まなかった。娯楽に溺れない質実な性格だったと云う事だろう。


<結論>

 大同五年(539年)十月、陳慶之は五十六歳で亡くなり、武の謚《おくりな》を与えられた。とは云え、やはり、陳慶之を表すには「仁威」が最も宜《よろ》しいのではあるまいか。中国ではただ強いだけでは尊敬されず、その心を問われると云う。陳慶之はまさしく中国を代表する国士の一人と呼ぶに相応しい、武と仁とを兼ね備えた英傑であったと云えるだろう。[了]

  ***

注:
<*1>奉朝請《ほうちょうせい》のふりがなは独自に設定した。
<*2>原文は「韋放以賊之前鋒必是輕銳,與戰若捷,不足爲功,如其不利,沮我軍勢」。「沮」をくじけると訳した。
<*3>原文は「魏人遠來,皆已疲倦,去我旣遠,必不見疑,必不見疑,及其未集,」。「疑」を何事が起こったのか疑う、つまり、混乱すると意訳した。
<*4>原文は「慶之杖節軍門曰」。今回は「軍門にて杖節を掲げて曰く」と解した。<*5>原文は『梁書』では「須虜大合」、『南史』では「須虜圍(囲)合」。敵軍を大いに囲んで一つの場所へ押し込んで撃滅するの意と解した。
<*6>原文は「諸君無假狐疑,自貽屠膾」。「屠膾」を国土を切り取るの意と解した。
<*7>原文では「死散」と記述されている。今回は二つの字を分けて訳した。<*8>今回は一頃を六七〇アールと見なして計算した。


主要参考文献:
 姚思廉著『梁書』(维基文库)
 李延寿著『南史』(维基文庫)
 魏收著『魏書』(维基文库)
 李延寿著『北史』(維基文庫)
 日野貴之著『6世紀中国大陸の歴史地理』(常葉大学教育学部、2017年)
 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫、2003年)
 司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳『史記Ⅰ 本紀』(ちくま学芸文庫、一九九五年)
 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝(三)』(岩波文庫、1975年)
 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝(四)』(岩波文庫、1975年)
 守屋洋著『兵法三十六計』(知的生きかた文庫、1985年)
 宮崎市定著『中国史(下)』(岩波文庫、2015年)


使用画像元:
『万里の長城8』acworks(ID:23027)【写真AC】
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