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【歴史エンタメ記事】中国史上の宦官と中華ファンタジーの宦官

宦官とは、中国の王朝において、皇帝の身辺に仕えていた者たちです。 見た目は男ですが、幼い時に、去勢手術をしているため、男でも女でもない状態にあります。 なぜ、去勢手術をするのかと言うと、皇帝の妃や女官と密通して、懐妊させてしまう事態を防ぐためです。 その他に、こうした宦官を従わせることで、皇帝の支配欲を満たすという意味合いもあったようです。 いずれにしても、宦官は、去勢手術(自宮とも言います)したことにより、性欲を失うか、満たすことができない状態になります。 その分、欲望が出世欲とか、金銭欲と言ったものに振り向けられるようになり、政治において、大きな権限を振るうようになるわけですね。宦官と言えば、日本でもよく知られているのが、三国志の十常侍でしょう。張譲らの宦官が権力を握って、腐敗した政治を行ったために、黄巾の乱が起き、三国時代の幕開けとなるわけです。 三国志では、張譲らの宦官が、徹底的に悪役として描かれています。その後の時代でも、宦官は、政治の腐敗の原因となることが多く、良いイメージはあまりありません。 特に、明の時代に、永楽帝によって創設された宦官を中心とした秘密警察的な組織である東廠は、当時の人々を畏怖させる存在でした。 宦官は、中華小説、華流小説やドラマでも、よく出て来ます。 大抵は、皇帝の腰巾着、虎の威を借りる狐として、描かれていますが、宦官の役得をテーマにした小説やドラマもあります。 宦官は後宮と言う皇帝の私生活の場で暮らすことができる特権階級の人々です。 後宮には、宦官以外にも、妃や女官がたくさんいました。その多くは選りすぐりの美女です。 中国の後宮は、とてつもな
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超三国志展レポ🔥

行ってきました中野ブロードウェイの超三国志展(後期)横山光輝三国志ファンならめちゃくちゃテンション上がります(・ω・)b行って間違いなし🌟名シーンの展示や↓のパネル(ちゃんとパネルに顔はめて写真撮りました)12月12日まで開催中⚔↓は購入したグッズ いやぁもっと買うべきと思いつつ財布事情がと(笑)税込5000円以上買うともらえる特典のしおりは、後期から武将が変わってます(自分は姜維を選択)1万円以上買うともらえる関羽ステッカーは諦めました( ;∀;)グッズはまだまだありますので(・ω・)bちなみに中野ブロードウェイは定休日が水曜の店が多いので、他の店を回ることも考えてる人は水曜以外がお勧めです。
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関羽と張遼

関羽と張遼は、三国志が好きな人なら絶対知っている二人です。関羽はご存知、蜀の劉備玄徳の義弟として並外れた武勇と知略で活躍した武将です。一方、張遼も、魏の曹操の下で名将として名を馳せた武将です。で、実はこの二人は、互いに人物を認め合った間柄でした。張遼が呂布の配下であった時分の話です。呂布が曹操に敗れて処刑される際に、張遼も処刑される所を関羽のとりなしで助命され、曹操に仕えました。関羽が呂布との戦いの中で、張遼の人物を知ったからでした。その後、関羽が劉備の留守を守っている所を曹操に攻められたことがありました。関羽は死のうとしますが、それを説得したのが張遼です。劉備の妻子を守ることもせずに死に急ぐことを匹夫の勇だと非難し、関羽に曹操へ降ることを勧めます。関羽は、劉備の生存が確認できたら去るという条件を述べます。この条件に難色を示す曹操を説得したのが張遼でした。そして、関羽が劉備が生きていると知ります。その心の内を知るために曹操が話をさせたのが張遼でした。関羽は、張遼に劉備の許に行きたいが、曹操への恩返しもしたいという本音を漏らします。関羽と張遼は、互いに主君を違えていましたが、お互いを認め、信頼しあっていました。なぜ、このような話をしたかというと、野田元総理の安倍元総理への追悼演説の全文を読み、この二人の関係を思い出したからです。互いに主君のためならば、関羽と張遼は戦うことを躊躇わないでしょう。しかし、一方では、互いの人物を認め、信頼していることがわかります。また、互いに一度は降伏という道を歩んでいて、その時の悔しさも知っているわけです。演説の中で、親任式での行を読んでいると、この
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人生迷ったり困った時はコレ!

「人生」と大げさに書きましたが、単純に未来の自分のために何をするか?でお困りの方、最近のエンタメよくわからん音楽聴かんな人向けの記事です。そういう人はズバリ三国志 戦国武将 幕末志士この3つのどれかを勉強する(ウィキを読むでも)がお勧めです。今でも人気!定期的にブームなどが来るコンテンツで武将の生きざまや考えは、現代の自分たちにも色々勉強や参考、刺激になる。ゲームでもなにかしら使われてたりととっつきやすさも◎ビジネス系の記事にて藤堂高虎よく見習えと書かれがち、みたいなアルアルを楽しむこともできます。ちなみに来年の大河は、戦国ど真ん中徳川家康が主人公です。なおこのメジャーどこは今更なぁ・・・という方は封神演義 水滸伝 源平から南北朝時代にハマるのも有り(/・ω・)/
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小説『沈慶之の三国論破』

【字数:約一万】  *** 中華の大陸を三分して競われた後漢末《ごかんまつ》の騒乱の結末は、後漢滅亡のち二百三十年経っても尚《なお》、漢民族の落涙《らくるい》を誘わずにはいられないだろう。なぜなら、劉玄徳《りゅうげんとく》や諸葛孔明《しょかつこうめい》による漢王朝の再興は成らず、代わりに大陸を統一した晋《しん》も瞬く間に腐敗して滅び去ったからだ。 晋は、実質的な創始者たる司馬懿《しばい》の孫である皇帝司馬炎の死後、朝廷内部の陰惨な権力争いに端を発した王族たちによる反乱と実権の争奪の果てに、匈奴《きょうど》の子孫たる劉聡《りゅうそう》の軍隊による侵攻によって滅亡してしまった。司馬炎による全国統一から僅《わず》か三十六年後の事である。但《ただ》し、晋の諸王のうち司馬睿《しばえい》は、かつて孫呉《そんご》の首都であった東の果て建康を支配下においており、ここへ晋を復興させ、自ら帝位に付いた。これを東晋と呼ぶ。 しかし、東晋も成立して百三年後に東晋の将軍であった劉裕《りゅうゆう》によって滅ぼされる。この劉裕こそ現在中国南部を支配している宋の国の高祖たる武帝であり、現在の宋皇帝は三代目である。そして、現在、中国の北部は魏《ぎ》の国が統一して宋の国に対する圧力となっている。三国志の英雄たちが挙《こぞ》って皇帝を名乗った事を皮切りにして、皇帝の位は酷く乱造されるようになってしまったようだが、現在では経過はともあれ北の魏つまり北魏と、南の宋つまり劉宋と云う二つの国の皇帝に絞られた訳だ。その中でも、劉宋の三代目皇帝は名門貴族を重んじて政治を執《と》り行い、即位後二十五年を超えて国内に平和をもたらし
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記事『三国志 王異伝』

<主旨> 王異とは歴史書『三国志』に登場する女傑である〈*1〉。一般的にはあまり知られた人物では無いかもしれないが、男ばかりの三国志の戦いにおいて、王異は女性でありながら夫である趙昂《ちょうこう》を助けて自ら戦場へ立ち、稀代《きだい》の猛将である馬超との戦いに赴《おもむ》いている。果たして、彼女はいかなる信念を持ち、いかなる方法で強大な敵と戦ったのだろうか。<時代背景> 中国の後漢末(西暦2世紀末頃)の時代、中国北西部に在る涼州では羌《きょう》族や氐《てい》族等の反乱が発生し、そのまま紛争状態に陥っていた。その中でも韓遂《かんすい》と馬騰《ばとう》の勢力が台頭し、時に和解し、時に離反しては、争いを続けていた。一方、元々、中国全土を支配していた漢王朝は、現在では曹操《そうそう》の支配下に入っており、中原や河北と云った中国大陸の主要な部分はすでに曹操が治めていた。とは云え、曹操は建安十三年(西暦208年)に南方の赤壁にて劉備《りゅうび》あるいは孫権と劉備の連合軍に大敗しており〈*2〉、それまで順調だった中華統一への道に翳《かげ》りが生まれ始めていた。とは云え、この頃、馬騰が入朝して朝廷に帰順しており、西方の調略に関しては順調であるかのように見える〈*3〉。 しかし、建安十六年(211年)、馬騰の代わりに西涼の領土を治めていた息子の馬超が、現地に留まっていた韓遂と合従《がっしょう》(連合)し、さらに、楊秋、李堪《りかん》、成宜《せいぎ》らとあい結んで進軍。潼関《どうかん》へ至り、曹操軍と激闘を繰り広げたが、結局、敗退した。 とは云え、馬超は未だに健在であり、西涼の地にて再起を目論《も
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忙しい日々を過ごしています~♪

ブログを読んでくれる方たち!お久しぶりです~今週も日々増えている仕事 + 増やしたゲームで忙しい日々を過ごしています!今日は、1週間の間の話をしようと思っています~♪まずは、鉄道シミュレーションゲームの『TrainStation2』から~ほぼ1か月のイベントが終わると共に2つ程度のイベントが開催中です~まぁー最善を尽くしたので、結果は素直に行け入れないと!でも、レジェンドの列車も買ったし♪ 良い結果だと思っています~♪分かりずらくてすみません!!右側のトロフィーと左下のクローバーがイベントですね~イベントは重なって行われています~これが、最近開催されたイベント『鉄道王』!基本的には書かれている注文を完成したら星が貰えて、上にもあるように順位によって報酬うぃ貰えるシステムです~イベント遂行は簡単だが会社員である僕はずっと接続が出来るわけがないので資源管理と生産計画を綿密にする必要がありますね!仕事をしながらゲームを楽しむ方たちはちゃんと計画を立ててイベントに臨みましょう~♪2番目は、自称MMORPGである『空の勇者たち』です~こまめに接続が出来ない + 長時間プレイが出来ないことにより、Magiの転職までの時間が予測より大幅遅くなりました…(涙)正確にいうとまだ転職が出来ませんでした!!でも、クエストは完了した状況ですので、すぐに転職出来るでしょう~そして、現在の経験から『炎』より『氷』がもっと運用しやすいと思います~(もちろん、あくまでも個人的な感想として!!!)そういうわけで、転職は『氷』を目指します~♪当面の目標は騎士とアサシンを転職することですね~(MMORPGは時間とと
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三国志のIFルート:千年後魏延の選択

三国の蜀漢政権は後期丞相「諸葛亮」の指揮下で6回も自分より強かった曹魏政権を討伐しましたが、残念ながら成功せず志半ばで亡くなりました。唐の詩人杜甫が「出師未捷身先死、長使英雄涙満襟」という有名な詩が残されています。諸葛亮の用兵はいつも用心深く、決して無理な決断をしない。部下の「魏延」が何度も通常の進軍ルートを避け「子午谷」という小道を通って曹魏の副首都である「長安」を襲撃すると助言しましたが、全て諸葛亮に却下され、小道で伏兵でもされれば全滅になりかねないため、こんなリスクの高い冒険ができないと。諸葛亮のライバルである司馬懿ももちろん彼の慎重な性格が知り、決してリスクの高い選択をしないと判断していました。結局蜀漢の出兵は全部失敗に終え、諸葛亮の判断が本当に正しいでしょうか?もし魏延の言う小道を通ったら歴史が変わるでしょうか?歴史に「仮」というものが存在しない、しかし、歴史自身が繰り返されてしまいます。諸葛亮死後千年の月日が流れ、同じ場所で違う選択をした人がいました。時は明王朝の末、反乱軍統領「高迎祥」が漢中経由して長安へ進軍しようと考えていました、これはかつての諸葛亮と同じ進軍ルートです。しかし漢中には官軍の名将「孫伝庭」が守っていたため、攻め落とせなかった。そこで子午谷を経由して漢中避けて長安に行く選択をしました。そう、千年前諸葛亮が却下した魏延の選択肢です。千年前との違いは今回魏延の助言を却下する諸葛亮的存在がいなかった。「高迎祥」が数万軍隊を率いて数日をかけてやっと子午谷の中継地を通った途端に、「孫伝庭」の伏兵が現れ、千年前諸葛亮の心配通り、地の利がない反乱軍がうまく部隊展
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同じ謀反なのに司馬懿と曹操の評判なぜ違う?

同じ謀反ですが、正直曹家あるいは曹操の天下が自分で戦って勝ち取ったもの、曹操本人ももし自分がなければ何人が王や帝を名乗ったかが数えきれないと自負していました。確かに袁術、袁紹、呂布、劉表、馬超など全部曹操によって討伐されました、曹操が謀反というのは些か不適切です。しかし司馬家の状況が違いました、魏国は既に天下の三分の二を掌握しており、最も国力の強い時に謀反をしました。曹家の皇帝の寿命が短く、曹丕在位8年、曹丕の子曹叡13年、曹叡没前に曹爽と司馬懿を8歳の子供(曹芳)を補佐するように命じました。初期二人の関係がよく、特に問題はなかったが、のちに曹爽が権力を独占するようになり、司馬懿を名誉職に追いやり、権力を奪いました。司馬懿は忍耐強く、権力無くなった以上、仮病して引き篭もりを演じ切ったことにより、曹爽を油断させました。曹爽と子供皇帝一緒に墓参りに行く際に司馬懿がクーデターを起こしました。皇帝と一緒にいた曹爽は元々司馬懿に対抗できるはずでしたが、臆病のため、戦意を失い降伏し、結局司馬懿に処刑されました。これ以降司馬懿一族が魏の支配権を握りました。司馬家が作った晋王朝東と西に分け、合わせても150年ぐらいの歴史しかなく、かなり短い王朝でした。もしかしたら先祖の行えが子孫に反映されてしまったかもしれません。
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諸葛亮の執念

歴史上最も聡明な人は誰?と聞かれたら、迷いなく諸葛亮と答えます。諸葛亮は中国歴史上最も神話された人物であり、後世の文人の憧れでもあります。君主に礼遇され、弱き劉備に天下取る方針を定め、それを実現する手前で病に敗れ、志半ばで倒れたことを含め、多くな人を魅了しました。しかし、なぜ荊州を失ったあと、三国の中に最も実力がないにも関わらず、何度も何度も曹魏を討伐したのか?もっと国を発展してからでもいいじゃないか?そもそも曹魏から攻めてきたわけではないのに、自ら戦争を起こす必要が本当にあるでしょうか?諸葛亮は劉備の子、当時蜀漢皇帝に「後出師表」という文章を送り、自分の意図を残しました。「漢賊不両立、王業不偏安、不伐賊王業亦亡。」漢と賊(曹魏)は共存することができない、我々の国名は漢であり、蜀ではない、漢の首都は洛陽であり、成都ではない、北伐しなければ自分自身の存在意義がなくなります。しかし、結果として諸葛亮6回、その継承者である姜維が9回の北伐全部失敗に終え、連年の戦争で国を弱体化し、滅びを加速させてしまいました。もし戦争をやめ防御に徹していれば蜀漢政権がもう少し長く生き延びて、のちの司馬氏の晋政権といい勝負ができるかもしれません。しかし、諸葛亮「王業不偏安、不伐賊王業亦亡」(王の業は安全な片隅で生き延びようとしない、もし賊を討伐しなければ自身が滅びたと同じ)の矜持が許されないでしょう。実は約2千年後、諸葛亮とほぼ同じ立場にたった人物がいました。時空を越え、彼が少し違った選択肢をしたが、果たして結果が変わったでしょうか……
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劉備実は「蜀国」を作っていない?

三国志って言えば魏、蜀、呉の物語です。しかし、正史上「蜀国」という存在がありません。劉備が作ったのは「漢」であり、決して「蜀」ではありません。考えてみれば、劉備は元々後漢の末裔、本当であろう、自称であろう、劉備の正統性が漢王朝そのものです、それをあえて捨てて蜀という地名で国の名前をするわけがありません。ではなぜ蜀という名前が定着してしまったでしょうか?一つは魏からみれば劉備の漢を認めないので、地名である蜀を読んでいました、もちろんこれは蔑視です。もう一つの理由は後世の人々が前漢後漢を区別するために、蜀漢と名付けたからです。時を経ていつか蜀という名前が残り、正式名称となってしまいました。さらに現代のドラマやゲームの影響でますますこの呼び名が広がり、もはや本物になりました。
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汗血馬の正体

noteの方は更新しているのですが、ココナラでの更新を忘れていました…自由研究のヒント:『三国志』関羽の愛馬の赤兎馬の由来になったかもしれない汗血馬は伝説?血の汗を流す馬はいるの?⇨皮膚に寄生する多乳頭糸状虫(たにゅうとうしじょうちゅう)による皮膚の出血と汗が混じったのが原因かも!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『三国志演義』で関羽の愛馬として有名な赤兎馬。これは中国の西方で生産された名馬、血の汗を流す汗血馬(かんけつば)ではないかと言われています。しかし全力疾走で速さを競い合う競馬でも血の汗を流す馬はいません。では血の汗を流す馬というのは伝説に過ぎないのでしょうか?実は寄生虫が血の汗を作り出していたという説があります。今回は汗血馬とその原因の一つといわれる寄生虫についてご紹介します(今日は犬猫出てこなくてすみません)。前回、犬や猫は足の裏でしか汗をかけないことをご紹介しました。馬は人間のように汗腺が全身に分布しているので汗を身体中から出すことができます。水分が蒸発するさいに物体から熱を奪います(気化熱)が、これは体温を下げる上でとても強力な手段です。哺乳類全体を見回しても、全身から大量に汗をかくことのできる動物は多くありません。さて、多乳頭糸状虫(Parafilaria multipapillosa)は日本にはいない細長い寄生虫です。犬糸状虫(犬のフィラリア)の仲間ですが、犬には寄生しません。多乳頭糸状虫はサシバエという血を吸う性質のハエの体内にひそんでいます。サシバエが馬の皮膚を傷つけて吸血すると、体内の多乳頭糸状虫のお母さんは馬の皮膚や傷口にそれっと飛び出します。そ
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カフェバー「三国志」~曹操・孫堅・劉備~

ここは『カフェバー「三国志」』。幾つかのテーブルでは、お酒を飲みながら何人かの男性客が思い思いの事を吐き出している様です。~曹操・孫堅・劉備~孫堅「ズルい」劉備「と、唐突ですな孫堅殿」曹操「一体何が狡い、と?」
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「超三国志展」墓場の画廊(中野店)にて開催⚔

11月12日(土)11:00より超三国志展が12月12日(月)まで開催します!横山光輝三国志ファンにはたまらないグッズが発売(/・ω・)/前期と後期で配布される特典が違ったりするので、HPで確認を🌟
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