諸葛亮の執念

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歴史上最も聡明な人は誰?と聞かれたら、迷いなく諸葛亮と答えます。

諸葛亮は中国歴史上最も神話された人物であり、後世の文人の憧れでもあります。

君主に礼遇され、弱き劉備に天下取る方針を定め、それを実現する手前で病に敗れ、志半ばで倒れたことを含め、多くな人を魅了しました。

しかし、なぜ荊州を失ったあと、三国の中に最も実力がないにも関わらず、何度も何度も曹魏を討伐したのか?もっと国を発展してからでもいいじゃないか?そもそも曹魏から攻めてきたわけではないのに、自ら戦争を起こす必要が本当にあるでしょうか?

諸葛亮は劉備の子、当時蜀漢皇帝に「後出師表」という文章を送り、自分の意図を残しました。

「漢賊不両立、王業不偏安、不伐賊王業亦亡。」

漢と賊(曹魏)は共存することができない、我々の国名は漢であり、蜀ではない、漢の首都は洛陽であり、成都ではない、北伐しなければ自分自身の存在意義がなくなります。

しかし、結果として諸葛亮6回、その継承者である姜維が9回の北伐全部失敗に終え、連年の戦争で国を弱体化し、滅びを加速させてしまいました。

もし戦争をやめ防御に徹していれば蜀漢政権がもう少し長く生き延びて、のちの司馬氏の晋政権といい勝負ができるかもしれません。しかし、諸葛亮「王業不偏安、不伐賊王業亦亡」(王の業は安全な片隅で生き延びようとしない、もし賊を討伐しなければ自身が滅びたと同じ)の矜持が許されないでしょう。




実は約2千年後、諸葛亮とほぼ同じ立場にたった人物がいました。時空を越え、彼が少し違った選択肢をしたが、果たして結果が変わったでしょうか……
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