三国志のIFルート:千年後魏延の選択
三国の蜀漢政権は後期丞相「諸葛亮」の指揮下で6回も自分より強かった曹魏政権を討伐しましたが、残念ながら成功せず志半ばで亡くなりました。唐の詩人杜甫が「出師未捷身先死、長使英雄涙満襟」という有名な詩が残されています。諸葛亮の用兵はいつも用心深く、決して無理な決断をしない。部下の「魏延」が何度も通常の進軍ルートを避け「子午谷」という小道を通って曹魏の副首都である「長安」を襲撃すると助言しましたが、全て諸葛亮に却下され、小道で伏兵でもされれば全滅になりかねないため、こんなリスクの高い冒険ができないと。諸葛亮のライバルである司馬懿ももちろん彼の慎重な性格が知り、決してリスクの高い選択をしないと判断していました。結局蜀漢の出兵は全部失敗に終え、諸葛亮の判断が本当に正しいでしょうか?もし魏延の言う小道を通ったら歴史が変わるでしょうか?歴史に「仮」というものが存在しない、しかし、歴史自身が繰り返されてしまいます。諸葛亮死後千年の月日が流れ、同じ場所で違う選択をした人がいました。時は明王朝の末、反乱軍統領「高迎祥」が漢中経由して長安へ進軍しようと考えていました、これはかつての諸葛亮と同じ進軍ルートです。しかし漢中には官軍の名将「孫伝庭」が守っていたため、攻め落とせなかった。そこで子午谷を経由して漢中避けて長安に行く選択をしました。そう、千年前諸葛亮が却下した魏延の選択肢です。千年前との違いは今回魏延の助言を却下する諸葛亮的存在がいなかった。「高迎祥」が数万軍隊を率いて数日をかけてやっと子午谷の中継地を通った途端に、「孫伝庭」の伏兵が現れ、千年前諸葛亮の心配通り、地の利がない反乱軍がうまく部隊展
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