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 Korufel(こるふぇる)と申します。
 昔から歴史、特に戦国時代に興味深々ですが、最近は、ふと武将事典などを見渡して「この人面白そうだな」と思う事があり、独断と偏見で選んだ武将を紹介・少し考察する記事を書くことにいたしました。
 おひまな時に目を通して頂ければ幸いです(^-^;。

■“橙武者”薄田兼相について
 薄田兼相(すすきだ・かねすけ)は隼人正(はやとのしょう)とも称し、豊臣秀頼に仕え3000石を給しました。
 大坂冬の陣(1614)でも豊臣方の侍大将として戦いましたが、冬の陣の11月29日、遊女達と酒宴をしていたばっかりに水路上で重要な博労ヶ淵砦(ばくろうがぶち)を奪われた、という大失態を犯し、周囲から「橙武者(だいだいむしゃ)」と嘲笑されます。
 橙は、見かけはあざやかだが中身は酸味が強くて食べられず、正月の飾りにしか使われない――つまりは「見掛け倒し」ということです。

 そんなエピソードを持つ武将ですが、実はとある英雄と同一人物だという説があります。
 幼少から怪力に優れ格闘技の流派を興し、剣術にも優れていたとする彼ですがその前半生はあまり知られておらず、いつ生まれたのかも、出生地もはっきりしていません(彼に限った話ではありませんが)。
 そのためか、後世の歌舞伎等では岩見重太郎(いわみ・じゅうたろう)という同じく怪力の英雄と同一視されるようになりました。
 岩見重太郎は、毛利家の小早川隆景の家臣・岩見重左衛門(じゅうざえもん)の次男とされ、父重左衛門が三人の同僚によって殺害された事から仇を討つため諸国を旅することになるのですが、その途中で山賊退治など、数々の伝説を残すこととなります。
 その中の一つが、大阪市西淀川区の野里に伝わる「狒々退治」です。
◆狒々退治
 (前略)この村は氾濫の多い中津川に面し、泣き村と呼ばれるほど、風水害や飢饉に苦しんだ村だった。そこへ、「村を救いたくば、毎年、白羽の矢が立った家の娘を、旧暦の1月20日の夜に櫃に入れて神社の境内に置け」という神託がくだった。これは「神の妻」、すなわち、神に捧げる生贄であった。
 生贄の儀式が6年続いた後、この村を通りがかったある武士がこの話を聞き、身代わりを買って出た。身代わりの武士を桶に入れて一夜明けた朝、村人が神社に行ってみると、神社の境内は血まみれになっていた。その血の跡を追ってゆくと、隣の申村に辿り着き、そこで巨大な狒々(巨大な猿の怪物)が息絶えているのを見つける。この6年間、生贄を求めていたのは、神の名を騙ったこの狒々だったのである。村人はおぞましい生贄の祭りに終止符を打ってくれた武士を探したが、すでに村を去った後だった。
 この武士の名は岩見重太郎とされる。(中略)この人物は戦国時代末期、大坂夏の陣で活躍した薄田隼人正と同一人物とされる。
(『F-Files No.028 図解 巫女 朱鷺田祐介著 新紀元社出版』p182より)

 討ち取ったのは大蛇という話もあれば、頭は猿、体は獅子、尾は大蛇といった鵺のような怪物だったという話もある。(中略)このような生贄を求める猿神を武人が倒す伝説は古くは中国にも残されている。日本でも『今昔物語集』にすでに生贄の女性の身代わりとなった武士が、猿退治の訓練を積んだ犬と共に櫃の中に潜んで猿神を退治する話が載る。
(『歴史人物怪異談事典 朝里樹著 幻冬舎出版』p253より)

 この生贄と村を救った武士、岩見重太郎こそが、薄田兼相の前身というわけです。
 残念ですが、結論からいうと現在、兼相と岩見重太郎は同一人物ではない、という説が有力です
(そもそも岩見重太郎は架空の人物とも)。
 薄田兼相の父は毛利家の小早川隆景の家臣だったという説もありますが確たる史料はなく、実際には分からないそうです。大きな刀を自在に操るだけのたくましい体躯を持ち、かつては兼相を祖とする兼相流(柔術)と無手流(剣術)という流派が存在していた程の武芸者だったらしいので、武者修行に出て腕前を磨いてはいたかもしれません。
 その鍛錬が認められたのか、慶長3年(1598)の書状では豊臣秀吉に仕えていた可能性が高く、馬廻衆(親衛隊)に抜擢されていた事からも秀吉から引き続き息子秀頼に仕えていた方が有力と思われます。
 また妹がおり、その女性は信長、秀吉と鷹匠頭として仕えた堀田一継(ほった・かずつぐ)という人物の妻になっているそうで、それなりの家柄でもあったのではと思われます。先述したように出自と前半生は判っておらず、豊臣家に仕えるまでの足跡は、私のリサーチ不足によるものかさっぱり分かりませんでした。
◆兼相の背景
 ここからは個人の妄想ですが、秀吉時代から仕えていた家臣である兼相は、牢人(浪人)衆と違い、豊臣家からはある程度信頼されていたと思われます。
 普通に考えて大事な砦をなにも出来ず、それも遊女達と遊んでいて奪われた、という大失態を犯せばなんらかの処罰が与えられてもおかしくありません。最悪打ち首、という事も有りえたかも。
 その上先述した妹の夫に当たる堀田一継は秀吉が没した後は徳川家康に御伽衆として仕えついには8,880石の大身旗本にまで出世しており、大坂夏の陣でも徳川方として参戦しています。兼相にはその縁を頼り逃げ出すことも、徳川方に寝返る事も出来たのではと思われます(仲が悪かっただけかもしれませんが)。そもそも、兼相の失敗がなくても豊臣方の劣勢は、そう容易には覆らなかったと思われます。「橙武者」というのは兼相一人だけではなく、ふがいない豊臣方への評価だったという説もあるくらいですから。
 しかし、現実には豊臣方に居続けました。おそらくは秀頼を始めとした豊臣方も、兼相の武勇や人となりをある程度理解をして、挽回の機を与えたのではないでしょうか(豊臣方がそれだけ人材不足だっただけかもしれませんが)。
 周囲から嘲られても、我慢に我慢を重ね汚名返上の機をうかがっていた兼相は、翌年の大坂夏の陣を迎えます。
 徳川との和議により大坂城はほとんど堀を埋められ裸城にされ、目前には敵の大軍。大して豊臣方は一枚岩どころか様々な思惑で寄り集まった牢人達が大半の烏合の衆、内輪もめも起こり連携はろくに取れていません。勝てる見込みなど、ほぼありませんでした。
◆兼相の最期
 大阪夏の陣(1615)5月6日の道明寺の戦いにおいて、兼相は先に出陣した後藤又兵衛(基次)に続き出陣。
 渋皮色の鎧に、星兜の緒を締め、十文字槍を携えた威風堂々とした姿だったといいます。
当日は濃霧に阻まれて進軍が遅れ、後藤又兵衛は討たれ救援は間に合いませんでしたが、それでもめげる事無く奮戦し、槍が損傷しても刀を取り戦い、落馬しても諦める事なく戦い続け、最期は水野勝成の家臣・河村重長に討ち取られたといいます。
 豊臣方には先述した後藤又兵衛も含め、真田信繁や木村重成等、華々しく活躍した人気武将もいます。が個人的には、人間臭いエピソードを持ち失敗もするけど、ほとんど勝てる見込みがない絶望的な状況でも諦める事なく最期まで戦った薄田兼相も、武勇もさる事ながらその精神力も並外れて強く、英雄と呼ばれるにふさわしい人だったのではと思います。
 余談ですが兼相には薩摩に逃れたという、敗者にありがちな「生存説」もあり、後世には先程言った通り岩見重太郎と混同され、狒々を倒し生贄を救った等、数々の英雄伝説の主人公とされました。
 大戦の真っただ中で、大事な時に一度きりの大失敗をやらかしはしましたが、その点もふくめ庶民の人達からは慕われていた証拠かもしれません。
参考文献・webページ
Wikipedia 各項目記事
『Truth In History13 戦国武将事典 乱世を生きた830人』吉田龍司/相川司/川口素生/清水昇 著 新紀元社出版
『歴史人 薄田兼相はなぜ『橙武者』と呼ばれたのか?』【前・後編】歴史研究最前線!#028・029渡邊大門
『東洋経済オンライン 女遊びで評判落とした武将の意外すぎる最期』 河合敦


 仕事や自己都合などいろいろ積み重なり前回の投稿から遅れに遅れて本当すみません(^-^;
 おそれながら、ゆくゆくは記事作成の出品サービスや歴史関係の仕事がしたいと修行のつもりでこのような記事を書こうと思い至り、偉そうな事を書いておりますが、古文書の類は一切読めない人間で、全て本やネット記事から引用・参考にして書かせていただいております……。間違い等を指摘されれば訂正、あまり酷ければ削除いたします。
 想像以上に大変なので、しばらくはイラストと共に精進したいと思います
(^-^;
 一応、配慮などはしたつもりですが、もし、この記事で取り上げた方々のご子孫等の関係者が著しく不快を覚えられた場合でも削除するつもりです。
 最後にこのような場で僭越ですが、日ごろから投稿したブログやプロフィールに「いいね!」を押して頂いた方々、本当に本当にありがとうございます。
 長文乱文失礼いたしました。

Korufel




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