なぜ家康は本能寺の変の直後に生還できたのか

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大きく言って2つの可能性があります。1つ目は家康が京で信長打倒の動きがあることを察知してその具体的なスケジュールまで把握するに至ったこと。確かにこの可能性はあります。家康は気鋭の戦国武将だから当然ながら京の情報に敏感であったはずです。ただ本能寺の変の直後の家康の岡崎までの帰路に就くスピードが異常に早く感じます。ということは家康は京に行く道中あたりで何らかの情報をつかんでいた可能性があるのです。ということは2つ目の可能性、つまり光秀サイドから何がしかの情報がリークされたということです。これはあくまでも私の仮説にすぎないし、この事実を裏付ける資料は出ておりませんが、私はむしろこの可能性の方が高いような気がするのです。もしかしたら家臣レベルで仲の良い人たちがいても全然おかしくはないし、家康と光秀はタイプは違えど、ものすごく気性が合うというか、通じ合うものがあると思います。2人とも立場は違えど苦労人だし、いずれも信長で苦労させられてきた人たちですからね。家臣レベルで意気投合することがあったとしても全然おかしくないと思います。では具体的にどんな情報がリークされたのでしょうか?おそらくは100パーセント事実ではなくて何がしかの事実とフィクションを織り交ぜたような内容だったと思います。仮に私が家康に情報をリークする立場であったとすれば、以下のようになるでしょう。京で近日中に信長打倒の動きがある。私は近日中に中国攻めで苦戦を強いられている秀吉殿の救援に赴かねばならないので、いざ京で謀反が起こってもおそらくは信長様の救援に間に合わないだろう。最近の信長様は猜疑心の塊で、私の進言を聞き入れてくださらぬ。どころか下手なことを口走れば逆にこちらが疑いをかけられてしまう始末だ。なので、どうかくれぐれもこのことは信長様との会見ではご内密に。そして一刻も早く京からお逃げなされ。では光秀からこの情報を受けた家康はどうしたか?当然ながら信長の顔色をうかがうような慎重な姿勢に終始したはずです。確かに信長様は謀反の動きを察知した様子はない。光秀殿の情報は信用に値する。本能寺の変の直前に家康は信長と最後の会見をするのですが、この時の家康は何か信長が知りえないことを知っているかのような態度のように感じます。家康は三河勢を引き連れておりませんからかなりの警戒心をもって信長との会見に臨んだはずです。真相は不明ですが、いつの日かこの事実を裏付けるような資料なり書状なりが出てくるといいなと思っておる次第です。
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