戦国時代について考える

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まず天海が明智光秀という説はないと思います。理由は年齢です。確か天海の方が10歳くらい上のはずです。光秀の前半生がいくら謎に満ちていても、さすがにこれはないでしょう。あるとすれば光秀の叔父の左馬之助です。年齢がぴったり合うし、記録の上では左馬之助は山崎の合戦で戦死したことになっています。ですが、その死にざまは記録によって記述がまちまち。更に興味深いことに左馬之助が戦死したとされる近くの寺で数年後に天海が還俗しているのです。還俗とは世をはかなんで出家したお坊さんが俗世に還ることを言います。なので天海は光秀よりも左馬之助の可能性の方が高いと思います。次に武田氏滅亡ですが、天正10年は年明けから有力武将の離反が相次ぎ、信長はこれを絶好の戦機と捉え、長男の信忠に武田征伐を任せます。当時の記録によるとこの時期に記録的な寒波がこの地域一帯を襲ったとあります。なので勝頼が小山田信茂が推す岩殿城ではなく、真田昌幸が推す岩櫃城に籠れば1度は織田方を押し返せたのではないか?と思います。というのも勝頼に上杉景勝から援軍を送ろうかという書状が届いていたのです。仮に2千でも3千でも援軍が間に合えば越後の兵は強く、かつ寒さにも強いので武田は真田のように明治くらいまで生き残ったのかもしれません。武田は鎌倉時代から続いた名門です。勝頼は信玄の正当な後継者ではなく陣代です。要は勝頼の息子の信勝が成人するまでの後見人です。信玄は能力で勝頼を選びましたが、経営という視点で見ると勝頼は創業者タイプで切れ者。2代目には不向きな人です。経営者が2代目を能力で選ぶと意外なほど失敗例が多いと聞きます。なので経営者が2代目を選ぶ時は石橋を叩いても渡らない慎重居士を選んだ方が無難です。最後に本能寺の変ですが、最新の研究によると意外と早く決着がついたそうです。おそらくは近くに住む宣教師のフロイスの記録が基になっているのでしょうし、説得力を感じなくもないのですが、ここでみなさんは疑問に思いませんか?どうして信長の首を取った明智方の人は恩賞をもらっていないのでしょうか?桶狭間の戦いでは今川義元に一番槍を付けた人や首を取った人の名前がちゃんと記録されています。どうして本能寺の変ではその記録がないのでしょうか?その人は信長方に討ち取られたか、信長の首を取り返されたか、信長を討ち漏らしてしまったかのいずれかでしょう。信長は本能寺に帰依し、そのつながりで種子島の商人から鉄砲を買い付けていたそうなので信長と本能寺は意外と古い付き合いのようです。いつか本能寺の変の謎が解明できるといいですね。

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