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デザインを知ると、毎日が少しだけ豊かになるーー第7回 「芸術には自由を」ウィーン分離派とウィーン工房

第7回 「芸術には自由を」ウィーン分離派とウィーン工房19世紀の終わり、オーストリアの首都ウィーンでも、新しい芸術を求める動きが始まります。当時の芸術界は、伝統的な様式や古い価値観を重んじる風潮が強く、若い芸術家たちは自由な表現を発表する機会を十分に得ることができませんでした。そこで1897年、画家や建築家、デザイナーたちは新しい団体を結成します。それが「ウィーン分離派」です。「芸術には自由を」という理念ウィーン分離派が掲げた言葉があります。「時代には時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を。」この言葉には、過去の様式をただ受け継ぐのではなく、新しい時代には新しい表現が必要だという強い思いが込められていました。初代代表には、画家グスタフ・クリムトが就任します。また、建築家ヨーゼフ・マリア・オルブリヒやヨーゼフ・ホフマンなど、多くの才能ある芸術家たちが参加し、それぞれの分野で新しいデザインを追求しました。曲線から直線へ当時ヨーロッパでは、植物を思わせる優雅な曲線が特徴のアール・ヌーヴォーが流行していました。しかし、ウィーン分離派の芸術家たちは、さらに新しい表現を模索していきます。特にヨーゼフ・ホフマンは、曲線よりも直線や正方形などの幾何学的な形を積極的に取り入れました。無駄な装飾を抑え、形そのものの美しさを生かしたデザインは、それまでの華やかな様式とは異なる新鮮な印象を与えました。その作風から、ホフマンは「四角形のホフマン」と呼ばれるようになります。ウィーン工房が目指したもの1903年、ホフマンは工芸家たちとともに「ウィーン工房」を設立します。家具や照明、食器、布地、ポスターなど、
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デザインを知ると、毎日が少しだけ豊かになるーー第6回 ドイツが生んだ新しいデザイン「ユーゲントシュティール」

第6回 ドイツが生んだ新しいデザイン「ユーゲントシュティール」アール・ヌーヴォーはヨーロッパ各地へ広がりましたが、それぞれの国で少しずつ異なる個性を育てていきました。その中でも、ドイツで独自の発展を遂げたのが「ユーゲントシュティール」です。「ユーゲント」とは、1896年にミュンヘンで創刊された芸術雑誌『ユーゲント』のことです。この雑誌が新しい芸術を積極的に紹介したことから、ドイツではアール・ヌーヴォーを「ユーゲントシュティール(青春様式)」と呼ぶようになりました。自然への憧れは同じだったユーゲントシュティールも、植物や自然をモチーフにした優美な曲線を特徴としていました。しかし、ドイツでは装飾を楽しむだけではなく、「これからの時代にふさわしいデザインとは何か」という視点も重視されるようになります。その考え方は、後のドイツデザインへとつながる大切な一歩となりました。芸術から産業へこの時代を代表する人物の一人が、彫刻家ヘルマン・オブリストです。植物が成長するような躍動感のある作品は、多くの芸術家に影響を与えました。もう一人忘れてはならないのが、ペーター・ベーレンスです。彼は建築だけでなく、工業製品やポスター、書体まで幅広くデザインし、芸術と産業を結び付けようとしました。今日では、企業のロゴや広告、製品デザインを統一して考える手法は当たり前になっていますが、その考え方を早くから実践した人物の一人として知られています。モダンデザインへの橋渡しユーゲントシュティールは、美しい装飾を楽しむだけの様式ではありませんでした。芸術を産業へ生かし、暮らしをより良くするためのデザインへ発展させようとい
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デザインを知ると、毎日が少しだけ豊かになるーー第11回 世界のデザインを変えた学校「バウハウス」

第11回 世界のデザインを変えた学校「バウハウス」「バウハウス」という名前を聞いたことがあるでしょうか。現在でも、家具や建築、グラフィックデザインなどの世界で頻繁に登場する名前です。しかしバウハウスは、特定のデザイン様式の名前ではありません。もともとは、1919年にドイツのヴァイマルで誕生した学校でした。そして、この学校が存在したのはわずか14年間です。それにもかかわらず、その思想は100年以上が過ぎた現在も、世界中のデザインに大きな影響を与え続けています。芸術と技術をもう一度ひとつにバウハウスを創設したのは、建築家ヴァルター・グロピウスです。ヴァイマルの美術学校と工芸学校の流れを統合し、新しい造形教育の場として国立バウハウスを設立しました。グロピウスが目指したのは、芸術と手工業、そして産業を新しい形で結びつけることでした。画家は絵だけを描き、建築家は建物だけを考える。それぞれを別々のものとして扱うのではなく、さまざまな造形分野が協力しながら、一つの生活環境をつくっていく。その中心に置かれたのが建築でした。グロピウスは創立時の宣言で、「あらゆる造形活動の究極目標は建築である」という考えを掲げています。デザインを「学ぶ方法」までデザインしたバウハウスが革新的だったのは、そこで生み出された作品だけではありません。デザイン教育そのものを変えたことも、大きな功績でした。学生たちは最初から専門分野だけを学ぶのではなく、色、形、素材など、造形の基本から学びました。その後、家具、金属、織物、タイポグラフィ、建築など、それぞれの専門分野へ進んでいきます。現在、美術大学やデザイン学校で当たり前の
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デザインを知ると、毎日が少しだけ豊かになるーー第10回 芸術と産業を結びつけた「ドイツ工作連盟」

第10回 芸術と産業を結びつけた「ドイツ工作連盟」アール・ヌーヴォーの華やかな装飾から、私たちが現在「モダン」と呼ぶデザインへ。その大きな転換点の一つとなったのが、20世紀初頭のドイツでした。1907年、ミュンヘンで芸術家、建築家、実業家などが集まり、「ドイツ工作連盟」が設立されます。彼らが目指したのは、芸術を美術館の中だけに閉じ込めるのではなく、産業と結びつけることでした。モリスとは違う道を選んだドイツドイツ工作連盟が参考にしたのは、ウィリアム・モリスらによるイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動でした。しかし、両者には大きな違いがあります。モリスは、産業革命による大量生産に疑問を持ち、手仕事の価値を取り戻そうとしました。一方、ドイツ工作連盟は、機械そのものを否定しませんでした。「機械を使いながら、どうすれば美しく、品質の高い製品をつくることができるのか。」彼らが考えたのは、芸術と産業、そして手工芸を協働させることでした。ここから、デザインは少しずつ「美しいものをつくること」から、「産業の中で美しさと機能を実現すること」へと変わっていきます。ペーター・ベーレンスという新しいデザイナードイツ工作連盟には、建築家ヘルマン・ムテジウスやペーター・ベーレンスなど、後のデザイン史に大きな影響を与える人物が参加していました。中でも興味深いのが、電機企業AEGのデザイン顧問を務めたベーレンスです。彼はAEGのタービン工場を設計しただけではありません。照明器具や家電製品などの工業製品から、広告、カタログ、書体、企業ロゴに至るまで、企業が発信するさまざまなものをデザインしました。現在なら、建築
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