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流れは、止まっているときがある

その企画も、通らなかった。会議室を出るとき、上司は気の毒そうに「タイミングだね」と言った。タイミング。彼女がいちばん嫌いな言葉だった。四年、ずっとそうだった。人の倍は準備した。誰よりも早く来て、最後に帰る。資料は読み込み、想定問答まで作りこむ。なのに、いつも、あと一歩のところで何かがすり抜けていく。同期はもう、二人も先に行った。自分だけが、同じ場所で足踏みしている気がした。——きっと、私には何かが足りないんだ。その夜、彼女は実家に帰った。理由はうまく言えない。ただ、誰もいない場所より、誰かのいる場所の静けさが欲しかった。翌朝、目が覚めると雨が上がっていた。子どもの頃に通った道を、なんとなく歩いた。田んぼのわきに、細い用水路がある。昔はよく、ここでザリガニを探した。その用水路が、途中で詰まっていた。ひと晩の雨で流れてきた落ち葉が、小さな堰のように水をせき止めている。手前にはどんどん水が溜まって、よどんで、濁っていく。その先は、からからに乾いていた。彼女はしゃがんで、なんとなく、いちばん上の一枚に手をのばした。落ち葉を、どけた。その瞬間、せき止められていた水が、ごぼっと音を立てて流れ出した。濁っていた手前の水が動きはじめる。乾いていた先のほうへ、みるみる流れが通っていく。光が、水面で跳ねた。ほんの、一枚だった。彼女はしばらく、その流れを見ていた。——溜まっていた水は、水が悪かったわけじゃない。ただ、どこかで、流れが止まっていただけ。ふいに、胸の奥のほうで、何かがほどけた。私は、足りなかったんじゃないのかもしれない。倍も準備して、誰より早く来て、それでも動かなかったのは、私の中身が劣
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戻ってきた、と思っていた夜に

三度目だった。別れぎわの言葉が、前の二回とほとんど同じだったことに、彼女は気づいていた。「きみは悪くないよ」。——悪くない、と言われるたびに、何かが静かに終わる。スマホの画面が暗くなって、そこに映った自分の顔が、知らない人のように見えた。深夜一時。コンビニの帰り、買うつもりのなかったプリンの袋が、テーブルの上で汗をかいている。また同じだ、と思った。相手は毎回ちがうのに、どうして終わり方だけが、こんなにも似ているんだろう。私はちっとも変わっていない。三年前も、五年前も、こうやって深夜にひとりで、同じ味のプリンを開けていた。そう思った瞬間、なぜか涙より先に、笑いがこみ上げてきた。乾いた、情けない笑い。眠れるはずもなく、彼女はクローゼットの奥から古い箱を引っぱり出した。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からない。底のほうに、表紙の角が折れたノートがあった。三年前の自分の字。あの、二度目の別れのすぐあとに書いたものだった。読むのが怖くて、でもページをめくった。そこには、泣きながら書いたとわかる、震えた文字が並んでいた。「私の何がいけないの」「どうしていつも私だけ」「もう誰のことも信じない」。——ああ、と彼女は思った。この子は、何も分かっていない。なぜ終わってしまったのか、その人のどこに惹かれて、自分の何が繰り返されているのか。三年前の彼女は、その入口にすら立てていなかった。ただ、痛い、私が悪い、と床にうずくまっていただけだった。それにくらべて、今の私は。今夜だって、十分にみじめだ。プリンは生ぬるいし、目は腫れている。けれど——なぜ終わったのか、もう少しだけ、分かっている。相手を責める
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「大丈夫」と、何度言ってきただろう

「大丈夫です」。その日も、彼女は何度そう言っただろう。母を見送ったのは、半年前のことだった。長い介護のあとだった。葬儀の段取りも、親戚への連絡も、役所の手続きも、ぜんぶひとりで、きちんとやり遂げた。「しっかりしてるね」とみんなが言った。「大丈夫?」と聞かれるたびに、「大丈夫です」と笑って答えた。実際、涙はもう出なかった。泣いてしまったら、たぶん、いろいろなものが間に合わなくなる。だから泣かなかった。泣く時間がなかった、というほうが正しいかもしれない。半年が過ぎて、手続きはあらかた片づいた。なのに、ずっと、肩のあたりが固いままだった。息を深く吸おうとしても、途中でつかえる。眠っても、眠った気がしない。胸の真ん中に、抜けない小さな石が、ずっと詰まっているようだった。ある午後、彼女は、入ったことのない小さな喫茶店に入った。雨宿りのつもりだった。客は彼女ひとり。古いレコードが、低い音で鳴っていた。年配の店主が、コーヒーを出して、それから、彼女の顔を一度だけ見て、静かに言った。「——無理、してませんか」。それだけだった。責めるでも、心配しすぎるでもない。ただ、置くように言われたその一言が、なぜか、胸の石に触れた。「……いえ」と言いかけて、声が、続かなかった。気づいたら、彼女は、ぽつりと言っていた。「本当は、……つらかったんです」。言った瞬間だった。ずっと固まっていた肩が、すとん、と落ちた。つかえていた息が、ふっと奥まで入った。そして、半年ぶりに、涙がこぼれた。とめどなく、静かに。情けなくも、恥ずかしくもなかった。ただ、ずっと言えなかった四文字を口にしただけで、こんなにも軽くなるのか、と思
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